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Friday, March 2, 2012

The 《Sword Dance 》as the court dance repertoire appeared inUigwe, record of court banquets in the Chosun Dynasty by JUNG Hyejin

http://teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/bitstream/10083/50764/1/11_97-105.pdf


Title 朝鮮王朝称慶『儀軌』からみる宮中剣舞 : 『園幸乙卯整理儀軌』『己丑進饌儀軌』『戊申進饌儀軌』を中心に
Author(s) 鄭, 恵珍
Citation 人間文化創成科学論叢, 13: 97-105
URL http://hdl.handle.net/10083/50764
Rights

Ochanomizu University

人間文化創成科学論叢 第13 巻 2010 年
朝鮮王朝称慶『儀軌』からみる宮中剣舞
―『園幸乙卯整理儀軌』『己丑進饌儀軌』『戊申進饌儀軌』を中心に
鄭   恵 珍*

The 《Sword  Dance 》as the court dance repertoire appeared inUigwe, record of court banquets in the Chosun Dynasty
-focusing on the Wonhaeng eulmyo jeongri Uigwe1795, Gichuk jinchan Uigwe 1829, Musin jinchan Uigwe 1848
JUNG  Hyejin

abstract
This paper is a part of the basic research of the study to clarify the relationship between the sword dance held at the court and regional palaces. The sword dance as court dance repertoire is documented in the pictorial form(Uigwe, records of court banquets in 1795, 1829 and 1848). In this paper, I observed the changing process of the dancer, especially female entertainer. In conclusion, the sword dance was performed only in the inner banquet and the performance form changed according to the members of each dance and the accompanying music.
Keywords:Uigwe(records of court banquets)、Yeon-Hyang(Court feast/ court banquets)、Sword Dance 、Female Entertainer 、Chosun Dynasty

Ⅰ.序論
Ⅰ-1.研究目的及び方法
朝鮮後期においては、宮中や各地方の官庁所属の教坊1、および民間で剣舞が幅広く演じられていたが、現在では、晋州、密陽、平壌などおよそ7か所の地域で、それぞれに郷土化された剣舞が演じられている。剣舞の研究は、主として現行の各地域にある剣舞を対象としており、宮中剣舞それ自体、あるいは宮中剣舞と現行のものとの関連性についての研究は比較的少ない。それは、宮中剣舞が古文献の資料に断片的に残っているものの、その伝承そのものが途絶えていることが背景としてある。本稿は、朝鮮後期に演じられた剣舞について、宮中と地方教坊における相互伝承という視点から研究するための予備的考察であり、朝鮮王朝における王室記録物の一つである『儀軌』から、宮中宴享における剣舞の変化の様相を明らかにすることを目的とする。『儀軌』については、ソウル大学奎章閣所蔵のものを用いて、宮中呈才が催された称慶宴に関連する『儀軌』を中心に考察を行う2。
キーワード:朝鮮王朝、儀軌、宴享、剣舞、女妓
*平成19 年度生 比較社会文化学専攻
鄭 朝鮮王朝称慶『儀軌』からみる宮中剣舞
Ⅰ-2.先行研究
イム・スジョンは、「韓国女妓剣舞の芸術的形式と地域的特徴研究」
(イム2006 )において、現行の各地域にみられる剣舞の動作分析と伴奏音楽を再解釈している。また、チャ・オクスクは「晋州剣舞の表記法と動作分析」(チャ1997 )で、運動学的側面から剣舞を分析し、チェ・ミョンシンは「剣舞における劇的Image 表現に関する美的価値研究」
(チェ2000 )において、美学的側面から剣舞を分析している。また、宮中と地方文化の交流という視点から剣舞を取り上げて分析した、イ・ウンジョンの「朝鮮後期、宮中剣舞の民間宴披化過程に関する研究」(バン2006 )などの研究も
(イ2007 )や、バン・ダルの「朝鮮後期、宮中呈才と教坊呈才の相互関連性研究」みられる。『儀軌』に焦点をあてて、朝鮮の宮中宴における音楽や舞踊を分析した研究としては、高芳子の「朝鮮時代呈才伴奏楽曲名の歴史的変遷過程に関する研究」
(高1994 )があり、純祖己丑年(1829 )の『進饌儀軌』を中心に宮中呈才楽曲名について考察している。さらに、朝鮮の王室音楽関連の文献を長年にわたって研究してきた宋芳松は、『儀軌からみる舞いと音楽を探して』
(宋2008 )において、現存する称慶宴に関連する『儀軌』の解題と索引を作成し、音楽を中心として、宮中音楽や呈才を研究した。なお、上記のイム・スジョンによる「朝鮮時代宮中剣舞の公演様相」『儀軌』を取り上げて宮中剣舞を分析した唯一の先行研究として重
(イム2007 )は、要であるが、宮中剣舞の全般的記述が主となっており、時代による楽曲などの具体的な変化については触れられていない。

Ⅰ-3.呈才と女妓の概念、および『儀軌』について
呈才とは舞を含む多様な種類の才芸を王の前で見せるという献技の意味に由来し、宮中舞踊の代名詞として用いられた(宋2007:166 )用語である。この語は本来、楽・歌・舞だけでなく全ての芸術的技芸を表わしているが、『儀軌』では主に宮中舞踊を示す用語として用いられているので、本稿では宮中舞踊を示す語と規定する。
なお、呈才や歌芸などの芸を身に付けた者のうち、宮廷をはじめとして地方官庁などの宴会で楽・歌・舞を演じた女子芸能者のことを女伶・女楽・妓女・妓生などの名称で呼んでいた。しかし、女伶・女楽という名称は宮中記録のみで用いられた3一方、妓生という名称は、朝鮮全時代(1392-1910 )にかけて幅広く用いられていたが、女妓制度廃止(1894-1909 推定)と共に朝鮮の植民地時代(1910-1945 )に実施された公娼制度によって、芸妓と娼妓の区分が曖昧となった。その結果、彼らが持っている芸術的側面より性的側面が強調された概念として用いるようになったと言える4。よって、本稿では、これらの全てを含む広い意味として女妓という用語を用いることにする。
本稿の主要参考資料である『儀軌』とは、国家典礼の軌範、という意味で、国家や王室が開催する各種行事の全過程を記録しておくことで、後日の行事の前例として参考するため残した文献である(韓2002  参照)。『儀軌』には行事の全般的な内容のみならず、行事の過程を日付によって記録した各種公文書を含み、動員された人員・所要物品・経費の支出・担当者の褒賞などが記録されている(シン2007:247)。また、行事の全過程を描写した【班次図】や【呈才図】、使用物品の図説等が添付されており、当時の行事の具体的な手順や次第が分る。
【班次図】は王室行事の主要場面を絵画として表わしたもので、行事が行われる当日に描かれたものではなく、行事の事前に参加人員や物品を配置してみることで当日に生じる混乱を最大限減らす役割を果たしたと考えられている。以下、韓永愚による「朝鮮時代儀軌編纂と現存儀軌調査研究」
(韓2002 )を参考にして『儀軌』全体についてのおおよその構成を記しておく。『儀軌』は時代によって、また『儀軌』の種類によっても多少差があって一律に説明することは難しい。しかし、大体前半に「擇日」「図式」を載せ、儀礼が行われる日にちや関係官員を記録し、儀礼の主要場面を図で説「座目」明する。その次には、王や王世子の下命を記録した「令教」や「筵説」を入れた上、官庁間の業務協力のため取り交わした文書である「移文」「来關」などを記録する。最後に、儀礼に掛かった物品目録である「稟目」や人件費を含む費用を記録した「財用」、儀礼に参加し功を立てた関係者を褒章した「賞典」、儀礼においての公演に参加した楽工や女妓の名簿と服飾を記録した「工伶」などを記録する。その他、音楽・舞踊と関係深いと言える儀礼の式次の記録である「儀註」、儀礼における音楽や舞の演目や簡単な説明を記録した「樂章」など『儀軌』に載っている項目は多様で、純祖己丑年の『進饌儀軌』を例に挙げると附編を除いて28 項目が載っている。(純祖己丑『進饌儀軌』参照)
人間文化創成科学論叢 第13 巻 2010 年
朝鮮時代の国家行事は多様であり、『儀軌』の数や種類もその分多様であるが、戦乱の際、その多くが喪失し、現在は、壬辰倭亂(1592-1598 )以後と大韓帝国時代(1897-1910 )の『儀軌』のみが残されている5。現存する宮中宴享関連『儀軌』のうち、フランスのパリ国立図書館に所蔵(図書番号:2431 )されている『豊呈都監儀軌』(1630 )を含め、肅宗己亥年(1829) 、英祖甲子年(1744) 、英祖乙酉年(1765) 、
『進宴儀軌』『進宴儀軌』『授爵儀軌』正祖乙卯年(1795) 、純祖丁亥年(1827) 、純祖戊子年(1828) 、純祖『園幸乙卯整理儀軌』『進爵儀軌』『進爵儀軌』己丑年(1829) 、憲宗戊申年(1848) 、以上9『儀軌』は高宗(1863-1907 )以前の『儀軌』『進饌儀軌』『進饌儀軌』である。高宗在任期に開かれた宴享を記録した『儀軌』としては、高宗戊辰年(1868) 、高宗癸酉年『進饌儀軌』(1873)『進爵儀軌』、高宗丁丑年(1877) 、高宗丁亥年(1887) 、高宗壬辰年(1892)『進饌儀軌』『進饌儀軌』『進饌儀軌』、高宗辛丑年(1901) 『進宴儀軌』『進饌儀軌』と同年(1901) 、高宗壬寅年(1902)4月の『進宴儀軌』及び同年(1902)11 月の『進宴儀軌』の9『儀軌』があり、現存する宴享関連『儀軌』は全部で18 種類である(宋2008:12-13)。剣舞は1795 年の『園幸乙卯整理儀軌』に初めて記録され、1902 年高宗壬寅年『進宴儀軌』まで、総じて12 『儀軌』にその記録が残されている6が、高宗以前の『儀軌』が3種、高宗代の『儀軌』が9種である。本稿では、高宗以前の『儀軌』である正祖乙卯年(1795) 『進饌儀軌』『園幸乙卯整理儀軌』と純祖己丑年(1829) 、そして憲宗戊申年(1848) 『進『進饌儀軌』を中心に検討し、その中でも最も変化が見られる純祖己丑年(1829) 饌儀軌』に重点をおき論述する。『園幸乙卯整理儀軌』はソウル大学奎章閣所蔵に全部で17 冊があるが、本稿では正祖19.(1795 )に刊行された〔奎14518-v.1-8〕を参考とした。『進饌儀軌』と戊申『進饌儀軌』に関しては、奎章閣所蔵で1829 年に刊行された〔奎14370 〕と1848 年に刊行された〔奎14372 〕以外に、それぞれの訳注本も参考にした。


Ⅱ.本論
Ⅱ-1.正祖『園幸乙卯整理儀軌』(1795)
『園幸乙卯整理儀軌』は朝鮮の第22 代の王である正祖(1776-1800 )が1795 年(正祖19 )に母親である恵慶宮洪氏の還暦を迎え、父親である思悼世子の墓がある華城(現水原)の顯隆園を参拝した行事を記録したものである(金2005:119)。1795 年2月9日、昌徳宮を離れてから16 日に還宮するまでの8日間の出宮過程を整理したこの『儀軌』は全10 卷8柵で構成され、王の華城出御に関する次第やそれに伴った行事記録が分野別で詳細に記録されている。

表1.『園幸乙卯整理儀軌』による宮中剣舞の記録
園幸乙卯整理儀軌(正祖19、1795年2月)
宴享名 奉壽堂内進饌 .南軒養老宴*
呈才名 剣 舞
楽曲名 ×
呈才女妓 春雲(医女、雲仙(針線婢)
公演有無 ○ ×養老宴では呈才公演が実演されていない。

表1は正祖『園幸乙卯整理儀軌』に記録されている剣舞に関する内容を表にしたものである。表1の内容を具体的に説明すると以下のようになる。【華城行宮図】を始めとし【洛南軒養老宴図】【奉壽堂進饌図】【服飾図】など主に「図式」で構成されられている卷首には、出宮5日目であった2月13 日に華城行宮の奉壽堂で開かれた恵慶宮洪氏の還暦宴で宴行された
【呈才図】が含まれている。載っている呈才は《獻仙桃》、《夢金尺》、《荷皇恩》、《抛毬樂》、《舞鼓》、《牙拍舞》、《響.舞》、《鶴舞》、《.花臺》、《壽延長》、《處容舞》、《尖袖舞》、《船遊楽》、《剣舞》の14 種類で、そのうち、《剣舞》は2人の女妓が剣を持って舞う2剣舞形式で描写されている。
奉寿堂で開かれた宴享の具体的内容は卷2に収録されている当日の式次を記録した「儀註」項目から確認できるが、恵慶宮洪氏の姻戚82 人が招待されたこの宴会では(卷5「内外賓」:1b-2b)、来賓が恵慶宮洪氏に合計7回にわたって酒を出し、その度に各々異なる呈才が演じられていた(卷2「儀註」:4b-9a)。しかし、「儀註」項目では《剣舞》が演じられた記録はない。奉寿堂宴の「儀註」に記録された呈才は全部13 種目あるが、巻首の【呈才図】にある《剣舞》と《船遊楽》は公演された記録がない一方で、【呈才図】には記録されていない《受明命》が《荷皇恩》と共に第二爵礼で演じられたと記録されている(卷2「儀註」:8b)。しかし、《受明命》と《荷皇恩》が公演される際には一曲の宴禮楽曲が演奏され、二酌礼の記録に《金尺(夢金尺)》呈才や《受明命荷皇恩》呈才として記録されている点(卷2「儀註」:8b)などから、本来は異なる二つの呈才が奉寿堂宴では合舞し一つの呈才として演じられたと考えられる。故に、実際に奉寿堂宴で披露された呈才は12 種目であったと考えられる。
行事における公演を担当した女妓らの記録がある同卷の「工伶」7項目をみると、《剣舞》を演じた者として担当女妓の名前が載っている(卷5「工伶」:32a-33a)。当時の行事における呈才は京妓都妓と華城都妓、つまり京妓と華城地域の外方女妓らによって演じられていた(卷5「工伶」32a-32b)が、《剣舞》は、当時の京妓であった31 才の春雲と24 才の雲仙が演じており、春雲と雲仙は医女と針線婢であった。上記で述べたように【呈才図】や「工伶」には載っている《剣舞》の記録が実際の宴の式次を記録した「儀註」には見当たらないなど、項目によって記述の差があることに対して、《剣舞》の公演を予定していたが実行されていない場合と、本行事では公演されていなかったが非公式的に演じられた場合の二つの解釈が可能である。しかし、先行研究でもこれに関する言及はされておらず、【呈才図】「工伶」項目の記録だけでは《剣舞》が実際に演じられたのかは判断し「儀註」兼ねる。奉寿堂宴で演じられた全ての呈才には伴奏楽曲である宴禮楽曲や演者の役割が決められていたことに対して、《剣舞》はそれが分かる「儀註」や「楽章」「工伶」の項目から記入漏れがあるため、宴禮楽曲や演者の役割に関する特定はできないが、宮中呈才として剣舞が確認できる最初の『儀軌』であることに意味があると言える。

Ⅱ-2.純祖己丑『進饌儀軌』(1829)
己丑『進饌儀軌』は、純祖(1790-1834 )の即位30 年と40 才誕生を称慶するため開かれた儀礼を記録したもので(宋芳松、金鐘洙2007 、6:4)、純祖の息子である孝明世子(1809-1830 )が主軸になり、開かれた宴享の記録である。2月と6月に開かれた外進饌・内進饌及び夜進饌と會酌の準備・進行過程が記録されているこの『儀軌』には、外宴・内宴・夜宴・會酌宴の次第が4卷4柵で構成、記録されている。2月の記録には、1829 年2月9日、昌慶宮の明政殿での外進饌と12 日の慈慶殿での内進饌、そして同日の夜に開かれた夜進饌、13 日の王世子会酌宴が(卷首「擇日」:1b)、6月の記録には同年6月19 日の慈慶宮での進饌と夜進饌があり、6月の記録は附編に収録されている(附編「擇日」: 1b)。しかし、6月に開かれた宴は、王や臣下が中心になる外宴以外に、王大妃や王妃、王世子妃など女性が中心になる内宴でも女妓ではなく、舞童(外宴で主に呈才を公演した幼い男の子)が呈才を演じた上、剣舞が実演された記録がないため、本稿では省略する。
卷首には1829 年2月に設行した明政殿進饌(外宴)と慈慶殿進饌(内宴)、慈慶殿夜進饌(夜宴)、慈慶殿翌日會酌(會酌宴)の【班次図】や【進饌図】、各宴が開かれる際の舞童と女妓が演じた【呈才図】、【彩花図】、【器用図】、【儀仗図】、【楽器図】、【服飾図】などが載っており、【呈才図】には剣舞が4剣舞形式で描写されている(卷首「図式」:25b) 。
一方、卷1では「楽章」と「儀註」項目から呈才関連事項を参照することができる。「楽章」には全部で18 種目の呈才が記録されているが、このうち11 種目は、呈才の内容に関する説明と共に呈才が演じられる際に慶事を祝う意味で歌われた唱詞の歌詞も記録されている。しかし、剣舞を含め残り7種目の呈才には呈才の内容のみが説明され唱詞に対する記述はない。これは唱詞の記録がもれたのではなく、7つの呈才は唱詞がないまま演じられる郷楽呈才であるからである。郷楽呈才の場合は唱詞がない呈才がいくつかあり、その一つが剣舞で、『儀軌』の「楽章」には、剣舞は唱詞がないため記述しないと書かれている8。

人間文化創成科学論叢 第13 巻 2010 年
表2.『己丑進饌儀軌』による宮中剣舞の記録 
己丑進饌儀軌(純祖29、1829年2月、6月)
宴享名 明政殿外進饌 慈慶殿内進饌 慈慶殿夜進饌 慈慶殿翌日會酌 慈慶宮内進饌* 慈慶宮夜進饌*
呈才名 剣器隊 剣器舞 剣器舞
楽曲名 武寧之曲 凝祥之曲 多寶子令
呈才女妓 降仙、金鶴(成川選上妓、錦貝、玉眞(黄州選上妓、蓮紅、蓮月、錦花、允月、
公演有無 × ○ ○ ○ × ×

*の内進饌と夜進饌は舞童により呈才が演じられた6月の宴を示す。
表2は純祖己丑『進饌儀軌』に記録されている剣舞に関する内容を表にしたものである。表2の内容を具体的に説明すると以下のようになる。
「儀註」項目からは呈才が演じられた宴の具体的な式次第が分かるが、剣舞は2月の内進饌と夜進饌、そして會酌で各々1回ずつ宴行され、全3回披露されたことが分かる。記録されている呈才名は《剣器隊》と《剣器舞》で、1795 年の正祖『園幸乙卯整理儀軌』に記録されている《剣舞》ともまた違う呈才名を用いている。慈慶殿で開かれた内進饌では13 種の呈才が演じられたが、呈才名が《剣器隊》として記録されている剣舞は王族である宗親や王の外戚である戚臣などの来賓が王に献酒する儀礼である七爵礼が終わり、女執事が王世子や王世子妃に別行果という茶菓を献上した後、11 番目の呈才として演じられた(卷1「儀註」:22b-45b)。

同日の夜に開かれた慈慶殿夜宴では昼に開かれた内宴とは違い、楽曲は全部で16 曲が演奏された一方、呈才は《抛毬樂》、《舞鼓》、《春鶯轉》、《劍器舞》と記録されている剣舞の4種のみが宴行された。剣舞は行事がほぼ終わる段階で.宮が王に御座から下りてくることを申し出、王が退廷する際に〈凝祥之曲〉(原舞曲)に合わせ披露されたが、王世子が退廷する際には呈才は宴行されずに楽曲のみが演奏された(卷1「儀註」:40b-43a)。反面、慈慶殿王世子會酌宴では夜宴とは対照的に4曲の宴礼楽曲が演奏されたのに対し、呈才は14 種が宴行され、慈慶殿内宴や慈慶殿夜宴に比べ、比較的呈才の割合が高かったことがわかる(卷1「儀註」:43a-45a)。また、會酌宴では酌礼の儀式は行われなかったが、これは會酌宴が外宴や内宴より宴会的性格が強いことを示す。會酌宴では王世子に饅頭を出す際に〈多寶子令〉
(原曲)に合わせ剣舞が演じられた。

各呈才を演じた呈才女妓は花冠に、草綠丹衣、黄.單衫、裏藍色裳、表紅.裳、紅緞.縷.帶、五色汗衫、草綠鞋を基本服装として着用し、その上、それぞれの呈才に合う衣装を重ねて着ていたが、己丑年に行なわれた進饌宴で剣舞を演じた女妓らは戰笠をかぶり、紅.裳、9鴉靑甲紗快子、藍纏帶、草綠鞋を身につけていた(卷3「工伶」:5a)。剣舞に参加した呈才女妓は合計9人で、2人が1隊になり4隊を構成した(卷3「工伶」:7b)。そのうち、1
隊は童妓隊と呼ばれた比較的年齢が低い女妓で、彼女らは成川地域から選抜されてきた選上妓で降仙と金鶴であった(卷1「移文」:60a)。その外、舞隊として区分されている3隊は錦貝、玉眞、蓮紅、蓮月、錦花、允月で、錦貝と玉眞は黄州地域の選上妓である。楽工や舞童の名前が本名で記録されていることに対して、呈才女妓は妓名(花名)で名簿が作成されており、出身地に対する記録も特にないため、地方から選抜され宴に参加した選上妓の場合は出身地域を特定するのが難しい。しかし、童妓隊の降仙と金鶴の場合は、1829 年1月9日に成川の童妓降仙と金鶴を急いで選上するよう上級機関から該当地域へ公文を送った記録があり、錦貝と玉眞の場合は、1829 年2月20 日の選上妓に対する褒賞記録に、黄州の選上妓錦貝と玉眞が白木綿2疋と絹1疋を褒賞として授与した記録が卷1の「移文」項目に残っているため出身地が特定できる(卷1「移文」:62a)。

この8人以外に執事として記録されている蓮紅は、舞隊としての3隊6人と童妓隊2人の8人の案内役であったとみなされる。故に、己丑年の宴で剣舞を演じた宴行者は童妓隊が2人、舞隊が6人、そして実際の舞員ではないが彼女らの案内役であった執事が1人で、8剣舞の形式で演じられていたことが分かる(卷3「工伶」: 7b)。

ところで、純祖己丑年の宴享では呈才名と宴禮楽曲に注目する必要がある。1795 年の『園幸乙卯整理儀軌』の記録とは異なり、純祖己丑年の宴享では項目によって剣舞の呈才名表記が違い、【呈才図】と「工伶」、慈慶殿夜鄭 朝鮮王朝称慶『儀軌』からみる宮中剣舞宴と慈慶殿王世子會酌宴の「儀註」には《剣器舞》として呈才名が記録されていることに対して、慈慶殿内進饌の「儀註」には《剣器隊》として呈才名が記入されている。また、宴禮楽曲は宴によって各々別の宴禮楽曲を伴奏音楽として用いた上、曲名の表記においてもそれ以前とは違い雅名と既存曲名が併記されている。このような傾向は純祖戊子(1828) 、純祖代には一つの宴で外宴・内宴・夜宴・翌日會『進爵儀軌』からで(宋2008:255) 酌宴など多くの宴が施され宴享の規模が大きくなり、宴享で公演される呈才の種類も増え華麗になった。それに伴って、数多くの呈才が創作・改作されたが(金2001:131)、剣舞の呈才名や楽曲名の変化もこのような背景と関係深いと考えられる。

慈慶殿内進饌で使われた剣舞の宴禮楽曲は〈武寧之曲〉〈武寧之曲〉は雅名で(鄕唐交奏)は(鄕唐交奏)で、既存曲名である。〈郷唐交奏〉は伝統音楽演奏において郷楽器や唐楽器の混合編成の楽器編成を示す用語であったが、朝鮮後期においては一つの曲名として使われた。〈郷唐交奏〉の雅名は〈武寧之曲〉を含め34 種類があり(宋2008:255-256)、〈武寧之曲〉は軍禮楽の行進曲である現行〈大吹打〉と関連あるとする(金2005:278-279)。しかし、〈武寧之曲〉の古楽譜が発見されていないため、ここでいう〈武寧之曲〉が現行の〈大吹打〉と完全に一致するかは明らかではない。
純祖己丑年の宴享では内宴と夜宴、そして会酌宴で剣舞が宴行され、政治的で君臣宴である外宴と舞踊が呈才を演じた宴では剣舞は披露されることはなかった。

Ⅱ-3.憲宗戊申『進饌儀軌』(1848)
1848 年は憲宗(1827-1849 )の祖母である大王大妃純元王后(1789-1857 )の60 才誕辰(誕生祝い)や母親である王大妃神貞王后(1808-1890 )の40 才誕辰があった年である。そのため、この二つの祝い事を称慶する目的で、大王大妃殿で進饌宴を施し、その儀禮を記録したものが憲宗『進饌儀軌』である(宋2008:303)。憲宗が在位した15 年間の期間中、大王大妃と王大妃の長寿と関連して幾つかの慶事10 があったが、そのうち内外賓を招いて宴享を施したことは1848 年(憲宗14 年)大王大妃の六旬(60 才誕生宴)のみである。卷首を含め全4柵で構成されている戊申『進饌儀軌』によれば、3月17 日卯時(午前5時-7時)に内進饌が、同日二更(夜9時-11 時)には夜進饌が開かれ、また、19 日卯時(午前5時-7時)には大殿會酌が、同日二更(夜9時-11 時)には大殿夜宴が開かれた。挙行場所は全て通明殿で、これらの宴のために2月11 日から3月10 日にかけて総7回の予行演習が行われたことが「擇日」から分かる。卷首の【呈才図】には4剣舞が描写されており、卷1の「楽章」に載っている呈才楽曲記録も純祖己丑『進饌儀軌』の内容と同一である。
表3.『戊申進饌儀軌』による宮中剣舞の記録
戊申進饌儀軌( 憲宗14 、1848.3)
宴享名 通明殿内進饌 通明殿夜進饌 通明殿會酌 通明殿會酌夜宴
呈才名 剣器舞 剣器舞
楽曲名 武寧之曲 武寧之曲
呈才女妓 箕珠、綠珠( 平嬢選上妓)、雲.、暎月、瓊貝、鳳娘、彩鸞、月香
公演有無 × ○ ○ ×

表3は憲宗戊申『進饌儀軌』に記録されている剣舞に関する内容を表にしたものである。表3の内容を具体的に説明すると以下のようになる。
「儀註」には通明殿進饌、通明殿夜進饌、通明殿翌日會酌、通明殿翌日夜宴の4つの宴享の記録があり、そのうち、通明殿夜進饌と通明殿翌日會酌の二つの宴で剣舞に関する記述が述べられている。「儀註」によれば、二度の宴で剣舞は《剣器舞》として呈才名が表記され、伴奏音楽としては〈武寧之曲〉が用いられた。通明殿夜進饌では、《抛毬樂》《船遊樂》《劍器舞》《處容舞》の4種目の呈才が順番に公演され、〈武寧之曲〉(原舞曲)が剣舞の宴禮楽曲として演奏された(卷1「儀註」:38b-39b)。一方、通明殿翌日會酌では《處容舞》を除いた3種目を始めとし8種目の呈才が公演されたが、《劍器舞》つまり剣舞は7番目の演目として夜宴と同じくお茶を献上する儀禮で〈武寧之曲〉(原舞曲)に合わせ演じられた。
人間文化創成科学論叢 第13 巻 2010 年通明殿翌日會酌の式次第をみると、行事の前日に大王大妃座が通明殿中央の北壁の南側に設置され、行事が始まる2刻(30 分)前に、女官、女執事、女伶(女妓)などが各自の服装を整え決められた場所に先に位置した。


1刻(15 分)前には女執事の案内下に宗親(王の親戚)、儀賓(王の婿など王族と通婚した人の通称)、戚臣、進饌所堂上などの内外賓が位置し、女官の案内によって後宮が入る。その後、順番通りに王妃や王、そして大王大妃が入るが、それを最後に楽歌舞の公演が始まったとする(卷1「儀註」:40a-41a)。
1848 年に開かれた宴に総動員された外方女妓は、慶.道26 名、平安道30 名、江原道8名、忠淸道6名、.海道10 名、全羅道20 名で合計100 人であったが11 、剣舞を演じた女妓のうち、童妓隊2名が平嬢から選上された外方女妓であった12 。剣舞は純祖代と同じく童妓隊2名と舞隊6名によって演じられており、8剣舞の形式で公演されたが、案内役の女執事の記録はない13 。

宴における各呈才女妓は花冠をかぶり..單杉、藍色裳、紅.裳、紅緞金縷.帶、五彩汗杉、草綠鞋を着用するのが基本服飾で、剣舞を踊る女妓の場合は、戰笠14 という帽子をかぶり、紅.裳に青色の甲紗で作った掛子(長いチョッキ)を着た。その上、藍色の帯を巻き草綠色の靴を着用していたとするが、剣舞の女妓服飾に関する記述は卷1の「服飾図」と卷3の「工伶」項目で差がある。「服飾図」には、剣舞女妓は青色の甲紗で作った掛子ではなく、紫的掛子を着用すると記録された上、「工伶」項目に言及されていない金香挾袖という袖の幅が狭い上衣を着ると記入されている15 。

王が下した命令を記録した「傳敎」によれば、翌日會酌の式次第は己丑年(1829 )の例を参考にすることが命じられていたが16 、1848 年の全ての宴における剣舞の呈才名は《剣器舞》で、伴奏音楽として使われた宴禮楽曲も己丑年の宴で用いられた〈武寧之曲〉で統一されている。また、剣舞の宴行方式も己丑年の宴と同じく8剣舞形式を用いており、憲宗戊申年における剣舞は翌日會酌以外にも己丑年の宴を前例として参考にし、演じられた
と考えられる。


Ⅲ.結論
本稿では、現存する称慶宴に関連する『儀軌』のうち、宮中呈才として剣舞の最初の記録がある正祖乙卯年(1795) 『進饌儀『園幸乙卯整理儀軌』を始めとし、宮中宴享の様々な部分において変化の多い純祖己丑年(1829)軌』、そして、憲宗戊申年(1848)
『進饌儀軌』の3つの『儀軌』を中心に朝鮮宮中宴享における剣舞について検討を行った。その結果、各『儀軌』から剣舞の呈才名や伴奏音楽として用いられた宴禮楽曲、そして宴者である舞員の増減による公演形式の変化があったことが分った。呈才名は、正祖乙卯年(1795 )に《剣舞》として記録されたものが、純祖己丑年(1829 )の宴では《剣器隊》と《剣器舞》の二つの呈才が用いられ、憲宗戊申年(1848 )の宴では前例に従い《剣器舞》を用いている。宴禮楽曲の場合は、正祖乙卯年(1795 )の宴での《剣舞》の宴禮楽曲が記録されていないものの、純祖己丑年(1829 )の宴では3回の宴で〈武寧之曲〉、〈凝祥之曲〉、〈多寶子令〉の其々異なる楽曲が用いられ、憲宗戊申年(1848 )の宴では前代に用いられた曲の一つである〈武寧之曲〉で統一された。

また、公演形式も2剣舞-8剣舞-8剣舞に変化するが、純祖己丑年(1829 )の場合は演者以外に演者の案内役の女妓が一人おり、実際に剣舞公演に参加した女妓は9人であることが憲宗戊申年(1848 )との違いであると言える。このような変化から、正祖代に宮中呈才として初めて公演された《剣舞》が純祖代に宮中呈才形式に釣り合うように再構成或いは再創作される過程を経て、憲宗に至って宮中呈才の一つの演目として定着した可能性が高いと考えられる。本稿では、3つの『儀軌』を取り上げ宮中呈才としての剣舞の変化を探った。今後は、残りの『儀軌』の分析を踏まえ、地方教坊における剣舞との関連性についても視野に入れ研究を進めたい。

〔註〕
1 教坊とは、高麗(918-1392 )時代以後朝鮮(1392-1910 )時代末まで楽工や女妓を中心に楽・歌・舞を管掌した機関。朝鮮時代の地
方官庁には.房附属の教坊があり、地方教坊所属の官妓や楽工が地方官庁の公私宴で音楽と舞を担当していた(宋2007:353)。
2 ①本稿では次のような意味で記号を区分する。
鄭 朝鮮王朝称慶『儀軌』からみる宮中剣舞

「」:文献の詳細項目、【】:図像名、《》:呈才(宮中舞踊)名、〈〉:楽曲名
②『儀軌』は所蔵所や文献によって表記が異なり、本稿ではそれに従って表記する。3 『儀軌』では、女楽・妓生の記述もみられるが、主に女伶という語が用いられている。呈才の簡単な手順や公演においての踊り手の位置などを記録した『呈才舞図笏記』には、女伶という語のみが用いられている。

4 女妓廃止は、1894 年に引き起こった甲午改革によって身分制度が廃止されたことが始発である。その影響で妓案が一部廃止され、300 余りの官妓が解散されたことを始めとし、女楽廃止(1905)、教坊庁廃止(1905)、宮中官妓である医女や針線婢廃止(1907 )など次々と行った官制改編によって徐々に廃止されたとみなされる。最後に日本警視庁の主導で出された妓生取締り令(1908 )によって、居場所を失った官妓(女妓)らや芸を身につけてない娼妓が結成したのが妓生組合(1908 )のような団体である。このような団体で女妓と娼妓が共に活動することは最終的に芸妓と娼妓の区分が曖昧になる結果となったと考えられる(李1992 参照)。

5 『儀軌』は通常5~9部を製作したとされたが、これは閲覧者や保管処により御覧用(国王が閲覧する儀軌)と分上用(様々な所に分けて保管する儀軌)に区分された。御覧用儀軌は通常1部が製作され、1776 年(正祖即位年)に奎章閣が設立された以降は主に奎章閣で保管した。分上用儀軌は議政府、春秋館、礼曹など国家の典礼を管掌した機関があるソウルと地方の史庫に分散、保管された。現在はソウル大学奎章閣韓国学研究院、韓国学中央研究院藏書閣、パリ国立図書館、日本宮内庁などに所蔵されている(韓2002 参照)。

6 これは、先行研究から宴享関連儀軌を絞り、儀軌の「儀註」や「工伶」項目から確認して分かったことである。剣舞が導入されたとする時期について先行研究での異見があるので(金(2001 )と宋(2008 )は正祖代に、キム;シン(2005 )とイ(2007 )は純祖代に剣舞が呈才として宮中に導入されたと言及している)、1795 年以前の『儀軌』も確認した。
7 『国訳憲宗戊申進饌儀軌』(8:56 )には「楽舞差備」、『国訳純祖己丑進饌儀軌』(8:39 )には「楽工・舞童・女伶」であると定義されている。しかし、この項目には楽歌舞を演じた女妓や舞童、楽工の名簿以外にも行事当時に公演された呈才種目や楽器編成を記録も載っている。

8 卷1「楽章」: 18b、「以下では舞のみを演じ唱詞を歌わないため、楽章を載せない…女妓4人が戰笠と戦服を着用し各々剣二ふたを手に持ち、二隊に分け互いに対舞し舞を舞う。」
9 赤い布のスカートで、王室儀礼では楽舞の演奏の時、女伶(女妓)の服飾として使われた。
10  1838 年(憲宗4年):大王大妃純元王后(1789-1857 )の五旬(50 才)1839 年(憲宗5年):大王大妃純元王后の望六(望六:60 を眺める年齢の51 才)1841 年(憲宗7):大王大妃の母臨40 年(母臨;王妃冊封40 年)1847 年(憲宗13):王大妃神貞王后の四旬(40 才)1848 年(憲宗14 年):大王大妃純元王后の六旬、王大妃神貞王后の望五(望五:41 才)1849 年(憲宗15 年):大王大妃純元王后の還暦(『国訳憲宗戊申進饌儀軌』6:17)。

11  卷1「移文」1847 年11 月21 日:48b-49a
12  卷1「来關」1847 年12 月19 日:58b、「平安道観察使爲相考事因關文平壤童妓箕珠.珠成川童妓錦紅軟玉定色.罔夜上送爲... 」
13  卷3「工伶」:9b、剣器舞呈才.伶一隊二【雲.・暎月】二隊二【瓊貝・鳳娘】三隊二【彩鸞・月香】童妓隊二【箕珠・.珠】
14  朝鮮時代、武士が着用した帽子の一つ。赤い羽根と象毛、玉鷺などで飾る。宮中宴享では主に剣舞に使われた。(宋;金2007  6 : 92)
15  卷首「服飾図」:38a、「劍器舞呈才女妓服飾.香挾袖紫的掛子戰笠.戰帶」
卷3「工伶」:7a、「劍器舞呈才.伶戴戰笠着紅.裳鴉靑甲紗掛子.戰帶草綠鞋」16  卷1「傳敎」1848 年2月23 日:5b、「口傳下教曰翌日會酌儀節參互己丑年例磨.」

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正祖(朝鮮)命編 1795  正祖『園幸乙卯整理儀軌』,奎 14518-v.1-8.
進宴都監(朝鮮)編 1829  純祖己丑『進饌儀軌』,奎 14370.
進宴都監(朝鮮)編 1848  憲宗戊申『進饌儀軌』,奎 14372.
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2004  『国訳憲宗戊申進饌儀軌』,韓国公演芸術史料翻訳叢書6、7、8、ソウル:民俗苑.
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2007  『国訳純祖己丑進饌儀軌』,韓国音楽史料研究会国訳叢書6、7、8、ソウル:民俗苑.
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Ⅰ. 서론Ⅰ-1.연구 목적 및 방법 조선 후기에 있어서는, 궁중이나 각지방(各地方)의 관청소속의 교스님 1,및 민간에서 검무가 폭넓게 연기되어 있었지만, 현재에서는, 진주, 밀양, 평양(平壤)등 약 7군데의 지역에서, 각각 향토화된 검무가 연기되어 있다. 검무의 연구는, 주로 현행의 각지역에 있는 검무를 대상으로 하고 있어, 궁중검무 그것 자체,혹은 궁중검무와 현행의 물건과의 관련성에 관한 연구는 비교적 적다. 그것은, 궁중검무가 옛날문헌의 자료에 단편적으로 남아있지만, 그 전승 바로 그것이 끊어져 있는 것이 배경으로서 있다. 본고는, 조선 후기에 연기할 수 있었던 검무에 대해서, 궁중과 지방교스님에 있어서의 상호전승이라고 하는 시점에서 연구하기 위한 예비적 고찰이며, 조선 왕조에 있어서의 왕실기록물의 하나인 『의궤』로, 궁중연회 스스무(享)에 있어서의 검무의 변화의 양상을 밝히는 것을 목적으로 한다. 『의궤』에 대해서는, 서울대학奎장閣소장의 물건을 이용하고, 궁중정(바침)재주가 개최된 명칭 게이(慶) 연회에 관련되는 『의궤』를 중심으로 고찰을 하는 2.
키워드:조선 왕조, 의궤, 연회 스스무(享), 검무, 여자妓* 2007년도 생 비교 사회문화학 전공 정(鄭) 조선 왕조명칭 게이(慶) 『의궤』로 보는 궁중검무Ⅰ-2.선행 연구 임수정은, 「한국 여자妓검무의 예술 마토가타(的形)식과 지역적 특징연구」 (【이무】2006)에 있어서, 현행의 각지역에 볼 수 있는 검무의 동작 분석과 반주 음악을 재해석하고 있다. 또, 【쟈】·【오쿠스쿠】는 「진주검무의 표기법과 동작 분석」 (【쟈】1997)로, 운동학적 측면에서 검무를 분석하고, 【졔】·【묜신】은 「검무에 있어서의 극적Image 표현에 관한 아름다움적 가치연구」 (【졔】2000)에 있어서, 미학적 측면에서 검무를 분석하고 있다. 또, 궁중과 지방문화의 교류라고 하는 시점에서 검무를 집어들어서 분석한, 이·【운죤】의 「조선 후기, 궁중검무의 민간연회披화 과정에 관한 연구」 (밴2006)등의 연구도 (이2007)이나, 밴·다르의 「조선 후기, 궁중정(바침)재주라고 교스님정(바침)재주의 상호관련성연구」 보여진다. 『의궤』에 초점을 맞추고, 조선의 궁중연회에 있어서의 음악이나 무용을 분석한 연구로서는, 고(高) 요시코(芳子)의 「조선 시대정(바침)재주반주 노래명의 역사적 변천 과정에 관한 연구」 (량 1994)이 있어, 순조자신축해(1829)의 『신(進)饌의궤』를 중심으로 궁중정(바침)재주노래명에 대해서 고찰하고 있다. 게다가, 조선의 왕실음악관련의 문헌을 오랜 세월에 걸쳐 연구해 온 송 요시하루(芳) 마쓰(松)는, 『의궤에서 보는 춤 추기와 음악을 발견해』 (송2008)에 있어서, 현존하는 명칭 게이(慶) 연회에 관련되는 『의궤』의 해제와 색인을 작성하고, 음악을 중심으로 하고, 궁중음악이나 정(바침)재주를 연구했다. 한편, 상기의 임수정에 의한 「조선 시대궁중검무의 공연 양상」 『의궤』를 채용해서 궁중검무를 분석한 유일한 선행 연구로서 중(【이무】2007)은, 요점이지만, 궁중검무의 전반적 기술이 주가 되고 있어, 시대에 의한 노래등이 구체적인 변화에 대해서는 접촉되지 않고 있다.

Ⅰ-3.정(바침)재주와 여자妓의 개념,및 『의궤』에 대해서 정(바침)재주와는 춤을 포함하는 다양한 종류의 재주를 왕 앞에서 보인다고 말한다 獻기법의 의미에 유래하고, 궁중무용의 대명사로서 이용할 수 있었다 (송2007:166)용어다. 이 단어는 본래, 즐거움·노래·춤뿐만 아니라 모든 예술적 기예를 나타내고 있지만, 『의궤』에서는 주로 궁중무용을 나타내는 용어로서 이용되어 있으므로, 본고에서는 궁중무용을 나타내는 단어라고 규정한다.
한편, 정(바침)재주나 노래기예등의 기예를 익힌 사람 가운데, 궁정을 비롯해서 지방관청등의 연회에서 즐거움·노래·춤을 연기한 여자예능자를 여자 레이(伶)·여자즐거움·기녀·기생등의 명칭으로 부르고 있었다. 그러나, 여자 레이(伶)·여자즐거움이라고 하는 명칭은 궁중기록만으로 이용할 수 있었던 31쪽, 기생이라고 하는 명칭은, 조선 전시대(1392-1910)로 걸쳐서 폭넓게 채용되어 있었지만, 여자妓제도폐지(1894-1909추정)과 함께 조선의 식민지시대(1910-1945)에 실시된 공창제도에 의해, 기생과 창기의 구분이 애매하다가 되었다. 그 결과, 그들이 가지고 있는 예술적 측면에서 성적 측면이 강조된 개념으로서 이용하게 되었다고 말할 수 있는 4. 따라서, 본고에서는, 이 모두를 포함하는 넓은 의미로서 여자妓라고 하는 용어를 이용하기로 한다.
본고의 주요참고자료인 『의궤』와는, 국가전례의 궤범(모범),이라고 하는 의미로, 국가나 왕실이 개최하는 각종행사의 전과정을 기록해 두는 것으로, 후일의 행사 앞 예 로서 참고 하기 위해서 남긴 문헌이다 (한2002참조). 『의궤』에는 행사가 전반적인 내용뿐만 아니라, 행사의 과정을 날짜에 의해 기록한 각종공문서를 포함하고, 동원된 인원·소요물품·경비의 지출·담당자의 보장등이 기록되고 있다 (신2007:247). 또, 행사의 전과정을 묘사한 【반다음그림】이나 【정(바침)재주그림】, 사용 물품의 도해 설명 등이 첨부되고 있어, 당시의 행사가 구체적인 순서나 나름을 안다.
【반다음그림】은 왕실행사의 주요장면을 회화로서 나타낸 것으로, 행사가 행하여지는 당일에 그려진 것이 아니고, 행사의 사전에 참가 인원이나 물품을 배치해 보는 것으로 당일에 생기게 하는 혼란을 최대한 절감하는 역할을 다했다고 여겨지고 있다. 이하, 한 긴우에 의한 「조선 시대의궤편찬과 현존 의궤조사 연구」 (한2002)을 참고로 해서 『의궤』전체에 관한 대략의 구성을 적어 둔다. 『의궤』는 시대에 의해,또 『의궤』의 종류에 의해도 다소 차이가 있어서 일률적으로 설명하는 것은 어렵다. 그러나, 대체로 전반에 「擇날」 「도식」을 싣고, 예의가 행하여지는 나날이나 관계 관원을 기록하고, 예의의 주요장면을 그림으로 설(說) 「좌째」명 한다. 그 다음에는, 왕이나 왕세자의 하명을 기록한 「령교」나 「멍석설」을 넣은 뒤, 관청간의 업무협력 때문에 주고 받은 문서인 「우쓰리(移) 문장」 「다음關」등을 기록한다. 최후에, 예의에 걸린 물품목록인 「稟눈」이나 인건비를 포함하는 비용을 기록한 「재산용」, 예의에 참가해 공을 세운 관계자를 포장 밑 「상 전(전서)」, 예의에 있어서의 공연에 참가한 즐거움 다쿠미(工)나 여자妓의 명부와 복식을 기록한 「다쿠미(工) 레이(伶)」등을 기록한다. 기타, 음악·무용과 관계 깊다고 말할 수 있는 예의의 식순의 기록인 「의주」, 예의에 있어서의 음악이나 춤의 연목이나 간단한 설명을 기록한 「樂장」등 『의궤』에 실려 있는 항목은 다양해서, 순조자신축해의 『신(進)饌의궤』를 예에 들면 附편을 제외해서 28항목이 실려 있다. (순조자신축 『신(進)饌의궤』참조)인간문화창성 과학논총 제13권 2010년 조선 시대의 국가행사는 다양해서, 『의궤』의 수나 종류도 그 몫 다양이지만, 전란의 즈음, 그 많이가 상실하고, 현재는, 임용와(倭)亂(1592-1598)이후와 대한 제국시대(1897-1910)의 『의궤』만이 남겨져 있는 5. 현존하는 궁중연회 스스무(享) 관련 『의궤』 가운데, 프랑스의 파리 국립도서관에 소장(도서번호:2431) 되고 있는 『유타카(豊) 정(바침)수도監의궤』 (1630)을 포함시키고, 肅종자신 돼지 년(1829), 영조갑자해(1744), 영조을유해(1765), 『신(進) 연회의궤』 『신(進) 연회의궤』 『授작의궤』정조을묘해(1795), 순조정 돼지 년(1827), 순조무 쥐 해(1828), 순조 『원 유키(幸) 기노토(乙) 묘정리 의궤』 『신(進) 작의궤』 『신(進) 작의궤』자신축해(1829), 헌종 무 원숭이 해(1848), 이상 9 『의궤』는 고종(1863-1907)이전의 『의궤』 『신(進)饌의궤』 『신(進)饌의궤』다. 고종재임 기에 열린 연회 스스무(享)를 기록한 『의궤』로서는, 고종무 진년(1868), 고종계유해 『신(進)饌의궤』 (1873) 『신(進) 작의궤』, 고종정축해(1877), 고종정 돼지 년(1887), 고종임 진년(1892) 『신(進)饌의궤』 『신(進)饌의궤』 『신(進)饌의궤』, 고종신축해(1901) 『신(進) 연회의궤』 『신(進)饌의궤』와 같은 해 (1901), 고종임 범띠 해(1902) 4월의 『신(進) 연회의궤』 및 같은 해 (1902) 11월의 『신(進) 연회의궤』의 9 『의궤』가 있어, 현존하는 연회 스스무(享) 관련 『의궤』는 전부 18종류다 (송2008:12-13). 검무는 1795년의 『소노(園) 유키(幸) 기노토(乙) 묘정리 의궤』에 처음으로 기록되어, 1902년 고종임 범띠 해 『신(進) 연회의궤』까지, 대개 12 『의궤』에 그 기록이 남겨져 있는 6이, 고(高) 소(宗)이전의 『의궤』가 3종, 고종값의 『의궤』가 9종이다. 본고에서는, 고(高) 소(宗)이전의 『의궤』인 정조을묘해(1795) 『신(進)饌의궤』 『원 유키(幸) 기노토(乙) 묘정리 의궤』라고 순조자신축해(1829),그리고 헌종 무 원숭이 해(1848) 『신(進) 『신(進)饌의궤』를 중심으로 검토하고, 그중에서도 가장 변화가 보여지는 순조자신축해(1829)饌의궤』에 중점을 두어 논술한다. 『소노(園) 유키(幸) 기노토(乙) 묘정리 의궤』는 서울대학奎장閣소장에 전부 17권이 있지만, 본고에서는 정조 19.(1795)에 간행된 〔奎 14518-V. 1-8〕을 참고로 했다. 『신(進)饌의궤』와 무 신(申) 『신(進)饌의궤』에 관해서는, 奎장閣소장으로 1829년에 간행된 〔奎14370〕과 1848년에 간행된 〔奎14372〕이외에, 각각의 역주책도 참고로 했다.


Ⅱ. 본론Ⅱ-1.정조 『원 유키(幸) 기노토(乙) 묘정리 의궤』 (1795) 『정원 유키(幸) 기노토(乙) 묘정리 의궤』는 조선의 제22대의 왕인 정조(1776-1800)이 1795년(정조19)에 어머니인 메구미(惠) 게이(慶) 미야(宮) 홍(洪)씨의 환갑을 맞이하고, 아버지인 思悼세자의 무덤이 있는 화성(겐(現) 수원(水原))의 겐(顯) 류(隆)원을 참배한 행사를 기록한 것이다 (돈2005:119). 1795년2월9일, 창덕궁을 떨어지고나서 16일에 還궁(신사) 할 때까지의 8일간의 데미야(出宮) 과정을 정리한 이 『의궤』는 전10卷 8울짱에서 구성되어, 왕의 화성출신 닮아 관하는 나름이나 그것에 따른 행사기록이 분야별에서 상세하게 기록되고 있다.
표1. 『정원 유키(幸) 기노토(乙) 묘정리 의궤』에 의한 궁중검무의 기록원 유키(幸) 기노토(乙) 묘정리 의궤(정조 19, 1795년 2월) 연회 스스무(享)명奉히사시(壽) 도(堂)내 신(進)饌. 남처마양로연회*정(바침)재명검무노래명×정(바침)재녀妓봄 구름(의사 여자, 운젠(雲仙)(바늘선婢)공연 유무 0×양로연회에서는 정(바침)재주공연이 실연되지 않고 있다.

표1은 정조 『원 유키(幸) 기노토(乙) 묘정리 의궤』에 기록되고 있는 검무에 관한 내용을 표로 만든 것이다. 표1의 내용을 구체적으로 설명하면 아래와같이 된다. 【화성행궁그림】을 비롯해 【洛남처마양로연회그림】 【奉히사시(壽) 도(堂) 신(進)饌그림】 【복식그림】등 주로 「도식」으로 구성되어져 있는 卷목에는, 데미야(出宮) 5일째이었던 2월13일에 화성행궁의 奉히사시(壽) 도(堂)로 열린 메구미(惠) 게이(慶) 미야(宮) 홍(洪)씨의 환갑연회로 연회행 된 【정(바침)재주그림】이 포함되어 있다. 실려 있는 정(바침)재주는 《獻선도》, 《꿈돈척》, 《짐 스메라기(皇) 메구미(恩)》, 《抛밤송이樂》, 《춤북》, 《송곳니拍춤》, 《히비키(響). 춤》, 《쓰루마이》, 《. 꽃臺》, 《히사시(壽) 연장》, 《處유토리(容) 마이(舞)》, 《尖소매춤》, 《뱃놀이즐거움》, 《검무》의 14종류로, 그중, 《검무》은 2명의 여자妓가 검을 가져서 추는 2검무형식으로 묘사되고 있다.
奉고토부키(壽) 도(堂)로 열린 연회 스스무(享)의 구체적 내용은 卷 2에 수록되고 있는 당일의 식순을 기록한 「의주」항목으로 확인할 수 있어 정(鄭) 조선 왕조명칭 게이(慶) 『의궤』로 보는 궁중검무る이, 메구미(惠) 게이(慶) 미야(宮) 홍(洪)씨의 인척 82명이 초대받은 이 연회에서는 (卷 5 「내외빈」:1b-2b), 내빈이 메구미(惠) 게이(慶) 미야(宮) 홍(洪)씨에게 합계7회에 걸쳐 술을 내고, 그 때마다 각각 다른 정(바침)재주가 연기되어 있었다 (卷 2 「의주」:4b-9a). 그러나, 「의주」항목에서는 《검무》을 연기할 수 있었던 기록은 없다. 奉고토부키(壽) 도(堂) 연회의 「의주」에 기록된 정(바침)재주는 전부 13종째 있지만, 권목의 【정(바침)재주그림】에 있는 《검무》과 《뱃놀이즐거움》은 공연된 기록이 없을 뿐에서, 【정(바침)재주그림】에는 기록되지 않고 있는 《受명목숨》이 《짐 스메라기(皇) 메구미(恩)》과 함께 제2작예로 연기할 수 있었다고 기록되고 있다 (卷 2 「의주」:8b). 그러나, 《受명목숨》과 《짐 스메라기(皇) 메구미(恩)》이 공연되는 때는 한 곡의 연회禮노래가 연주되어, 2작예의 기록에 《돈척(꿈돈척)》정(바침)재주나 《受명목숨짐 스메라기(皇) 메구미(恩)》정(바침)재주로서 기록되고 있는 점(卷 2 「의주」:8b)등으로부터, 본래는 다른 둘의 정(바침)재주가 奉고토부키(壽) 도(堂) 연회에서는 합춤 해 하나의 정(바침)재주로서 연기할 수 있었다고 생각된다. 따라서, 실제로 奉고토부키(壽) 도(堂) 연회로 보여 준 정(바침)재주는 12종째이었다라고 생각된다.
행사에 있어서의 공연을 담당한 여자妓ら의 기록이 있는 동(同)卷의 「다쿠미(工) 레이(伶)」 7항목을 보면, 《검무》을 연기한 사람으로서 담당 여자妓의 이름이 실려 있다 (卷 5 「다쿠미(工) 레이(伶)」:32a-33a). 당시의 행사에 있어서의 정(바침)재주는 교토妓수도妓와 화성수도妓, 즉 교토妓와 화성지역의 밖쪽 여자妓ら에 의해 연기되어 있었다 (卷 5 「다쿠미(工) 레이(伶)」32a-32b)이, 《검무》은, 당시의 교토妓이었던 31세의 봄 구름과 24세의 운젠(雲仙)이 연기하고 있어, 봄 구름과 운젠(雲仙)은 의여자와 바늘선婢이었다. 상기에서 말한 것 같이 【정(바침)재주그림】이나 「다쿠미(工) 레이(伶)」에는 실려 있는 《검무》의 기록이 실제의 연회의 식순을 기록한 「의주」에는 눈에 띄지 않는등, 항목에 의해 기술의 차이가 있는 것에 대하여, 《검무》의 공연을 예정하고 있었지만 실행되지 않고 있을 경우와, 본행사에서는 공연되지 않고 있었지만 비공식적으로 연기할 수 있었을 경우의 둘의 해석이 가능하다. 그러나, 선행 연구라도 이것에 관한 언급은 되어 있지 않고, 【정(바침)재주그림】 「다쿠미(工) 레이(伶)」항목의 기록것만으로는 《검무》이 실제로 연기할 수 있었던 것일지는 판단해 「의주」 겸한다. 奉고토부키(壽) 도(堂) 연회로 연기할 수 있었던 모든 정(바침)재주에는 반주 노래인 연회禮노래나 演사람의 역할이 정해져 있었던 것에 대하여, 《검무》은 그것을 아는 「의주」나 「악장」 「다쿠미(工) 레이(伶)」의 항목으로 기입 누설이 있기 때문에, 연회禮노래나 演사람의 역할에 관한 특정은 할 수 없지만, 궁중정(바침)재주로서 검무를 확인할 수 있는 최초의 『의궤』인 것에 의미를 있다고 말할 수 있다.

Ⅱ-2.순조자신축 『신(進)饌의궤』 (1829)자신축 『신(進)饌의궤』는, 순조(1790-1834)의 즉위 30년과 40세 탄생을 명칭 게이(慶) 하기 위해서 열린 예의를 기록한 것으로 (송 요시하루(芳) 마쓰(松), 돈종洙 2007, 6:4), 순조의 아들인 다카아키(孝明) 세자(1809-1830)이 주축으로든지, 열린 연회 스스무(享)의 기록이다. 2월과 6월에 열린 밖 신(進)饌·안 신(進)饌 및 밤 신(進)饌과 會작의 준비·진행 과정이 기록되고 있는 이 『의궤』에는, 외연회·내연회·밤의 연회·會작연회의 나름이 4卷 4울짱에서 구성, 기록되고 있다. 2월의 기록에는, 1829년2월9일, 창경궁의 아키라(明) 세이(政)님에서의 밖 신(進)饌과 12일의 慈게이(慶)님에서의 안 신(進)饌,그리고 같은 날의 밤에 열린 밤 신(進)饌, 13일의 왕세자회 작연회가 (卷목 「擇날」:1b), 6월의 기록에는 같은 해 6월19일의 慈게이(慶) 미야(宮)에서의 신(進)饌과 밤 신(進)饌이 있어, 6월의 기록은 附편에 수록되고 있다 (附편 「擇날」:1b). 그러나, 6월에 열린 연회는, 왕이나 신하가 중심이 되는 외연회이외에, 왕대 비나 왕비, 왕세자비등 여성이 중심이 되는 내연회라도 여자妓가 아니고, 춤아동(외 연회로 주로 정(바침)재주를 공연한 어린 사내아이)이 정(바침)재주를 연기한 뒤, 검무가 실연된 기록이 없기 때문, 본고에서는 생략한다.
卷목에는 1829년2월에 設행 밑 아키라(明) 세이(政)님 신(進)饌(외연회)과 慈게이(慶)님 신(進)饌(내연회), 慈게이(慶)님 밤 신(進)饌(밤의 연회), 慈게이(慶)님 다음날會작(會작연회)의 【반다음그림】이나 【신(進)饌그림】, 각연회가 열릴 때의 춤아동과 여자妓가 연기한 【정(바침)재주그림】, 【아야카(彩花) 그림】, 【재빠르다그림】, 【의장그림】, 【악기그림】, 【복식그림】등이 놓여지고 있어, 【정(바침)재주그림】에는 검무가 4검무형식으로 묘사되고 있다 (卷목 「도식」:25b).
한편, 卷 1에서는 「악장」과 「의주」항목으로 정(바침)재주관련 사항을 참조할 수 있다. 「악장」에는 전부 18종째의 정(바침)재주가 기록되고 있지만, 이 중 11종째는, 정(바침)재주의 내용에 관한 설명과 함께 정(바침)재주를 연기할 수 있을 때에 경사를 축하하는 의미로 불러진 唱사의 가사도 기록되고 있다. 그러나, 검무를 포함시켜 남아 7종째의 정(바침)재주에는 정(바침)재주의 내용만이 설명되어 唱사에 대한 기술은 없다. 이것은 唱사의 기록이 샌 것이 아니고, 7개의 정(바침)재주는 唱사가 없었던 채 연기할 수 있는 향즐거움정(바침)재주이기 때문이다. 향즐거움정(바침)재주의 경우는 唱사가 없는 정(바침)재주가 몇 가지 개미, 그 하나가 검무로, 『의궤』의 「악장」에는, 검무는 唱사가 없기 때문 기술하지 않으면 씌어져 있는 8.
인간문화창성 과학논총 제13권 2010연표 2. 『자신축 신(進)饌의궤』에 의한 궁중검무의 기록 자신축 신(進)饌의궤(순조 29, 1829년2월, 6월) 연회 스스무(享)명 아키라(明) 세이(政)님외 신(進)饌慈게이(慶)님내 신(進)饌慈게이(慶)님 밤 신(進)饌慈게이(慶)님 다음날會작慈게이(慶) 미야우치(宮內) 신(進)饌*慈게이(慶) 미야(宮) 밤 신(進)饌*정(바침)재명검기대 검기 마이(舞) 쓰루기(劍)기 무악곡명 무령(武寧)之 곡굳음 요시유키(祥之) 곡 다寶아이령정(바침)재녀妓降仙, 돈 쓰루(鶴)(나리카와(成川)선거상 妓, 비단조개, 옥 마코토(眞)(황조우선거상 妓, 하치스(蓮) 구레나이(紅), 연월, 니시키(錦) 하나(花), 마코토(允)월, 공연 유무×000××

*의 안 신(進)饌과 밤 신(進)饌은 춤아동에 의해 정(바침)재주를 연기할 수 있었던 6월의 연회를 내보인다.
표2은 순조자신축 『신(進)饌의궤』에 기록되고 있는 검무에 관한 내용을 표로 만든 것이다. 표2의 내용을 구체적으로 설명하면 아래와같이 된다.
「의주」항목으로는 정(바침)재주를 연기할 수 있었던 연회가 구체적인 식순서를 알지만, 검무는 2월의 안 신(進)饌과 밤 신(進)饌,그리고 會작으로 각각 1회씩 연회행 되어, 전3회 보여 준 것을 안다. 기록되고 있는 정(바침)재명은 《검기대》과 《검기 춤》로, 1795년의 정조 『원 유키(幸) 기노토(乙) 묘정리 의궤』로 기록되고 있는 《검무》과도 또 다르는 정(바침)재명을 채용하고 있다. 慈게이(慶)님으로 열린 안 신(進)饌에서는 13종의 정(바침)재주를 연기할 수 있었지만, 정(바침)재명이 《검기대》로서 기록되고 있는 검무는 왕족인 종부모나 왕의 외척인 戚신등의 내빈이 왕에게 獻술 하는 예의인 7작예가 끝나고, 여자집사가 왕세자나 왕세자비에게 다른 행동 과라고 하는 다과를 헌상한 후, 11번째의 정(바침)재주로서 연기할 수 있었다 (卷 1 「의주」:22b-45b).
같은 날의 밤에 열린 慈게이(慶)님 밤의 연회에서는 낮에 열린 내연회와는 다르고, 노래는 전부 16곡이 연주되었을 뿐, 정(바침)재주는 《抛밤송이樂》, 《춤북》, 《봄 휘파람새轉》, 《劍그릇춤》과 기록되고 있는 검무의 4종만이 연회행 되었다. 검무는 행사가 거의 끝나는 단계에서. 궁(신사)가 왕에게 자리에 앉음으로부터 내려 오는 것을 의뢰하고, 왕이 퇴정할 때에 <굳음 요시유키(祥之) 곡> (원무곡)에 맞추어 보여 주었지만, 왕세자가 퇴정하는 때는 정(바침)재주는 연회행 되지 않고 노래만이 연주되었다 (卷 1 「의주」:40b-43a). 반면, 慈게이(慶)님 왕세자會작연회에서는 밤의 연회와는 대조적으로 4곡의 연회예락곡이 연주된 것에 대해서, 정(바침)재주는 14종이 연회행 되어, 慈게이(慶)님내 연회나 慈게이(慶)님 밤의 연회에 비해, 비교적 정(바침)재주의 비율이 높았던 것을 안다 (卷 1 「의주」:43a-45a). 또, 會작연회에서는 작예의 의식은 행하여지지 않았지만, 이것은 會작연회가 외연회나 내연회보다 연회적 성격이 강한 것을 나타낸다. 會작연회에서는 왕세자에 만두를 낼 때에 <다寶아이령> (원곡)에 맞추어 검무를 연기할 수 있었다.
각정(바침)재주를 연기한 정(바침)재녀妓는 화관에, 풀緣단 의복, 황. 單衫, 뒤남색치마, 오모테(表) 구레나이(紅). 치마, 붉은색緞. 縷. 帶, 다섯가지 색 땀衫, 풀緣鞋를 기본복장으로서 착용하고, 게다가, 각각의 정(바침)재주에 맞는 의상을 포개서 입고 있었지만, 자신축해에 행하여진 신(進)饌연회로 검무를 연기한 여자妓ら은 戰갓을 쓰고, 붉은색. 치마, 9까마귀靑갑모래쾌아이, 아이마토이(纏)帶, 풀緣鞋를 익히고 있었다 (卷 3 「다쿠미(工) 레이(伶)」:5a).
검무에 참가한 정(바침)재녀妓는 합계9사람이, 2명이 1대가 되어 4대를 구성했다 (卷 3 「다쿠미(工) 레이(伶)」:7b). 그중, 1대는 아동妓대라고 불린 비교적 연령이 낮은 여자妓로, 그녀들은 나리카와(成川)지역에서 선발되어 온 선발상 妓에서 降仙과 돈학이었다 (卷 1 「우쓰리(移) 문장」:60a). 그 외, 춤대로서 구분되고 있는 3대는 비단조개, 옥 마코토(眞), 하치스(蓮) 구레나이(紅), 연월, 니시키(錦) 하나(花), 마코토(允)월로, 비단조개와 옥 마코토(眞)는 황조우지역의 선발상 妓다. 즐거움 다쿠미(工)나 춤아동의 이름이 본명으로 기록되고 있는 것에 대하여, 정(바침)재녀妓는 妓 명(꽃명)로 명부가 작성되고 있어, 출신지에 대한 기록도 특히 없기 때문, 지방에서 선발되어 연회에 참가한 선발상 妓의 경우는 출신지역을 특별히 정하는 것이 어렵다. 그러나, 아동妓대의 降仙과 돈학의 경우는, 1829년1월9일에 나리카와(成川)의 아동妓降仙과 돈학을 서둘러서 선발상 하도록 상급기관에서 해당지역에 공문을 보낸 기록이 있어, 비단조개와 옥 마코토(眞)의 경우는, 1829년2월20일의 선발상 妓에 대한 보장 기록에, 황조우의 선발상 妓비단조개와 옥 마코토(眞)가 백목 실 2疋과 비단 1疋을 보장으로서 수여한 기록이 卷 1의 「우쓰리(移) 문장」항목에 남아있기 위해서 출신지를 특별히 지정할 수 있다 (卷 1 「우쓰리(移) 문장」:62a).
이 8명이외에 집사로서 기록되고 있는 하치스(蓮) 구레나이(紅)는, 춤대로서의 3대 6명과 아동妓대 2명의 8명의 안내역이었다라고 간주된다. 따라서, 자신축해의 연회로 검무를 연기한 연회교자는 아동妓대가 2명, 춤대가 6명,그리고 실제의 춤원이 아니지만 그녀들의 안내역이었던 집사가 1사람이, 8검무의 형식으로 연기되어 있었던 것을 안다 (卷 3 「다쿠미(工) 레이(伶)」:7b).
그건 그렇고, 순조자신축해의 연회 스스무(享)에서는 정(바침)재명과 연회禮노래에 주목 할 필요가 있다. 1795년의 『소노(園) 유키(幸) 기노토(乙) 묘정리 의궤』의 기록과는 다르고, 순조자신축해의 연회 스스무(享)에서는 항목에 의해 검무의 정(바침)재명표기가 다르고, 【정(바침)재주그림】과 「다쿠미(工) 레이(伶)」, 慈게이(慶)님 밤 정(鄭) 조선 왕조명칭 게이(慶) 『의궤』로 보는 궁중검무연회와 慈게이(慶)님 왕세자會작연회의 「의주」에는 《검기 춤》로서 정(바침)재명이 기록되고 있는 것에 대하여, 慈게이(慶)님내 신(進)饌의 「의주」에는 《검기대》로서 정(바침)재명이 기입되고 있다. 또, 연회禮노래는 연회로 의해 각각 별도의 연회禮노래를 반주 음악으로서 채용한 뒤, 곡명의 표기에 있어서도 그 이전은 달라 아명과 기존 곡명이 병기되고 있다. 이러한 경향은 순조무아이(1828), 순조값에는 하나의 연회로 외연회·내연회·밤의 연회·다음날會 『신(進) 작의궤』로이어서 (송2008:255)작연회등 많은 연회가 설비되어 연회 스스무(享)의 규모가 커지고, 연회 스스무(享)로 공연되는 정(바침)재주의 종류도 늘어나 화려해졌다. 그것에 따라, 수많은 정(바침)재주가 창작·개작되었지만 (돈2001:131), 검무의 정(바침)재명이나 노래명의 변화도 이러한 배경과 관계 깊으면 생각된다.
慈게이(慶)님내 신(進)饌으로 사용된 검무의 연회禮노래는 <무령(武寧)之곡> <무령(武寧)之곡>은 아명으로 (鄕당(唐)交奏)은 (鄕당(唐)交奏)에서, 기존 곡명이다. <고(鄕) 당(唐)交奏>은 전통음악연주에 있어서 향악기나 당(唐) 악기의 혼합 편성의 악기편성을 내보이는 용어이었지만, 조선 후기에 있어서는 하나의 곡명으로서 사용되었다. <고(鄕) 당(唐)交奏>의 아명은 <무령(武寧)之곡>을 포함시켜 34종류가 있어 (송2008:255-256), <무령(武寧)之곡>은 군禮즐거움의 행진곡인 현행 <대 吹타>이라고 관련 있다로 한다 (돈2005:278-279). 그러나, <무령(武寧)之곡>의 고대 음악 보가 발견되고 있지 않기 위해서 , 여기에서 말하는 <무령(武寧)之곡>이 현행의 <대吹타>과 완전히 일치할지는 명확하지 않다.
순조자신축해의 연회 스스무(享)에서는 내연회와 밤의 연회,그리고 모임작연회로 검무가 연회행 되어, 정치적이어서 군신연회인 외연회와 무용이 정(바침)재주를 연기한 연회에서는 검무는 보여 줄 일은 없었다.

Ⅱ-3. 헌종 무 신(申) 『신(進)饌의궤』 (1848) 1848년은 헌종(1827-1849)의 조모인 대왕대 비순원 왕비(1789-1857)의 60세 생일(생일 축하)이나 어머니인 왕대 비신 데이(貞) 오(王) 비(1808-1890)의 40세 생일이 있었던 해다. 그 때문에, 이 둘의 경사를 명칭 게이(慶) 할 목적에서, 대왕대 비님으로 신(進)饌연회를 주고, 그 일禮를 기록한 것이 헌종 『신(進)饌의궤』다 (송2008:303). 헌종이 재위한 15년간의 기간 동안, 대왕대 비와 왕대 비의 장수와 관련되어서 몇 가지의 경사 10이 있었지만, 그중 내외빈을 초대해서 연회 스스무(享)를 설비한 것은 1848년(헌종14년)대왕대 비의 6순(60세 탄생 연회)만이다. 卷목을 포함시켜 전4울짱에서 구성되어 있는 무 신(申) 『신(進)饌의궤』에 의하면, 3월17일 묘 때(오전5시-7시)에 안 신(進)饌이, 같은 날 2갱(밤9시-11시)에는 밤 신(進)饌이 열려,또, 19일 묘 때(오전5시-7시)에는 오토노(大殿)會작이, 같은 날 2갱(밤9시-11시)에는 오토노(大殿) 밤의 연회가 열렸다. 거행 장소는 모두 미치아키(通明)님으로, 이 연회를 위해서 2월11일부터 3월10일에 걸쳐서 총 7회의 예행 연습이 행하여진 것이 「擇날」로부터 안다. 卷목의 【정(바침)재주그림】에는 4검무가 묘사되고 있어, 卷 1의 「악장」에 실려 있는 정(바침)재주노래기록도 순조자신축 『신(進)饌의궤』의 내용과 동일하다.
표3. 『무 신(申) 신(進)饌의궤』에 의한 궁중검무의 기록 무 신(申) 신(進)饌의궤(헌종 14, 1848.3)연회 스스무(享)명 미치아키(通明)님내 신(進)饌미치아키(通明)님 밤 신(進)饌미치아키(通明)님會작 미치아키(通明)님會작 밤의 연회 정(바침)재명검기 마이(舞) 쓰루기(劍)기 무악곡명 무령(武寧)之곡 무령(武寧)之곡정(바침)재녀妓기보물, 緣보물(평양선거상 妓), 구름. , 暎월, 게이(瓊) 조개, 오토리(鳳) 딸, 채鸞, 월 향기공연 유무×00×

표3은 헌종 무 신(申) 『신(進)饌의궤』에 기록되고 있는 검무에 관한 내용을 표로 만든 것이다. 표3의 내용을 구체적으로 설명하면 아래와같이 된다.
「의주」에는 미치아키(通明)님 신(進)饌, 미치아키(通明)님 밤 신(進)饌, 미치아키(通明)님 다음날會작, 미치아키(通明)님 다음날 밤의 연회의 4개의 연회 스스무(享)의 기록이 있어, 그중, 미치아키(通明)님 밤 신(進)饌과 미치아키(通明)님 다음날會작의 둘의 연회로 검무에 관한 기술이 말해져 있다. 「의주」에 의하면, 두번(2도)의 연회로 검무는 《검기 춤》로서 정(바침)재명이 표기되어, 반주 음악으로서는 <무령(武寧)之곡>을 이용할 수 있었다. 미치아키(通明)님 밤 신(進)饌에서는, 《抛밤송이樂》 《뱃놀이樂》 《劍그릇춤》 《處유토리(容) 마이(舞)》의 4종째의 정(바침)재주가 차레로 공연되어, <무령(武寧)之곡> (원무곡)이 검무의 연회禮노래로서 연주되었다 (卷 1 「의주」:38b-39b). 한편, 미치아키(通明)님 다음날會작에서는 《處유토리(容) 마이(舞)》을 제외한 3종째를 비롯해 8종째의 정(바침)재주가 공연되었지만, 《劍그릇춤》 즉 검무는 7번째의 연목으로서 밤의 연회와 같이 차를 헌상하는 의禮에서 <무령(武寧)之곡> (원무곡)에 맞추어 연기할 수 있었다.
인간문화창성 과학논총 제13권 2010년 미치아키(通明)님 다음날會작의 식순서를 보면, 행사의 전날에 대왕대 비좌가 미치아키(通明)님 중앙의 북벽의 남측에 설치되어, 행사가 시작되는 2조각(30분)전에, 궁녀, 여자집사, 여자 레이(伶)(여자妓)등이 각자의 복장을 단정히 해 정한 장소에 먼저 위치했다.
1조각(15분) 앞에는 여자집사의 안내 아래로 종 친(왕의 친척), 의賓(왕의 사위등 왕족과 통婚 한 사람의 통칭), 戚신, 신(進)饌곳당상등의 내외빈이 위치하고, 궁녀의 안내에 의해 후궁이 들어간다. 그 후, 순번 대로 왕비나 왕,그리고 대왕대 비가 들어가지만, 그것을 최후에 즐거움가무의 공연이 시작되었다로 한다 (卷 1 「의주」:40a-41a).
1848년에 열린 연회에 총동원된 밖쪽 여자妓는, 게이(慶). 길 26명, 헤이안(平安)길 30명, 강원도(江原道) 8명, 충⊙길 6명, . 해도 10명, 전라도(全羅道) 20명으로 합계100명이었지만 11, 검무를 연기한 여자妓 가운데, 아동妓대 2명이 평양에게서 선발상 된 밖쪽 여자妓이었던 12. 검무는 순조값과 같이 아동妓대 2명과 춤대 6명에 의해 연기할 수 있고 있어, 8검무의 형식으로 공연되었지만, 안내역의 여자집사의 기록은 없는 13.
연회에 있어서의 각정(바침)재녀妓는 화관을 뒤집어 써 .. 單삼목, 남색치마, 붉은색. 치마, 붉은색緞돈縷. 帶, 5 채 땀삼목, 풀緣鞋를 착용하는 것이 기본복식으로, 검무를 춤추는 여자妓의 경우는, 戰갓 14이라고 하는 모자를 쓰고, 붉은색. 치마에 청색의 갑모래로 만든 가케(掛) 쥐 (긴 조끼)을 입었다. 게다가, 남색의 허리띠를 감아 풀緣색의 구두를 착용하고 있었다로 하지만, 검무의 여자妓복식에 관한 기술은 卷 1의 「복식그림」이라고 卷 3의 「다쿠미(工) 레이(伶)」항목으로 차이가 있다. 「복식그림」에는, 검무여자妓는 청색의 갑모래로 만든 가케(掛) 아이가 아니고, 보라색적 가케(掛) 아이를 착용하면 기록된 뒤, 「다쿠미(工) 레이(伶)」항목에 언급되지 않고 있는 돈향기挾소매라고 하는 소매의 폭이 좁은 윗도리를 입는다고 기입되고 있는 15.
왕이 내린 명령을 기록한 「유즈루(傳)敎」에 의하면, 다음날 會작의 식순서는 자신축해(1829)의 예를 참고로 하는 것이 명령받고 있었지만 16, 1848년의 모든 연회에 있어서의 검무의 정(바침)재명은 《검기 춤》로, 반주 음악으로서 사용된 연회禮노래도 자신축해의 연회로 채용할 수 있었던 <무령(武寧)之곡>로 일치되고 있다. 또, 검무의 연회행방식도 자신축해의 연회와 같이 8검무형식을 이용하고 있어, 헌종 무 원숭이 해에 있어서의 검무는 다음날 會작이외에도 자신축해의 연회를 전례로서 참고로 하고, 연기할 수 있었다고 생각된다.


Ⅲ. 결론 본고에서는, 현존하는 명칭 게이(慶) 연회에 관련되는 『의궤』 가운데, 궁중정(바침)재주로서 검무의 최초의 기록이 있는 정조을묘해(1795) 『신(進)饌의 『원 유키(幸) 기노토(乙) 묘정리 의궤』를 비롯하고, 궁중연회 스스무(享)가 각양각색인 부분에 있어서 변화가 많은 순조자신축해(1829)궤』,그리고, 헌종 무 원숭이 해(1848) 『신(進)饌의궤』의 3개의 『의궤』를 중심으로 조선 궁중연회 스스무(享)에 있어서의 검무에 대해서 검토를 갔다. 그 결과, 각『의궤』로 검무의 정(바침)재명이나 반주 음악으로서 이용할 수 있었던 연회禮노래,그리고 연회자인 춤원의 증감에 의한 공연 형식의 변화가 있었던 것을 알았다. 정(바침)재명은, 정조을묘해(1795)에 《검무》로서 기록된 것이, 순조자신축해(1829)의 연회에서는 《검기대》과 《검기 춤》의 둘의 정(바침)재주를 이용할 수 있어, 헌종 무 원숭이 해(1848)의 연회에서는 전례를 따라 《검기 춤》을 이용하고 있다. 연회禮노래의 경우는, 정조을묘해(1795)의 연회에서의 《검무》의 연회禮노래가 기록되지 않고 있지만, 순조자신축해(1829)의 연회에서는 3회의 연회로 <무령(武寧)之곡>, <굳음 요시유키(祥之) 곡>, <다寶아이령>의 그것들 다른 노래를 이용할 수 있어, 헌종 무 원숭이 해(1848)의 연회에서는 전대로 채용할 수 있었던 곡의 하나인 <무령(武寧)之곡>로 일치되었다.
또, 공연 형식도 2검무-8검무-8검무에 변화되지만, 순조자신축해(1829)의 경우는 演사람이외에 演사람의 안내역의 여자妓가 한사람 우리, 실제로 검무공연에 참가한 여자妓는 9명인 것이 헌종 무 원숭이 해(1848)과의 차이로 있다고 말할 수 있다. 이러한 변화에게서, 정조값에 궁중정(바침)재주로서 처음으로 공연된 《검무》이 순조값에 궁중정(바침)재주형식에 맞게 재구성 혹 재창작되는 과정을 경과하고, 헌종에 이르러 궁중정(바침)재주의 하나의 연목으로서 정착한 가능성이 높으면 생각된다. 본고에서는, 3개의 『의궤』를 채용해 궁중정(바침)재주로서의 검무의 변화를 몰래 살피었다. 앞으로는, 나머지의 『의궤』의 분석을 근거로 하고, 지방교스님에 있어서의 검무와의 관련성에 대해서도 시야에 넣어 연구를 진척시키고 싶다.

〔주〕 1교스님과는, 고려(高麗)(918-1392)시 다이(代)이후 조선(1392-1910)시값말까지 즐거움 다쿠미(工)나 여자妓를 중심으로 즐거움·노래·춤을 관장한 기관. 조선 시대의 지방관청에는. 송이부속의 교스님이 있어, 지방교 보조(坊所) 속의 관妓나 즐거움 다쿠미(工)가 지방관청의 공사연회로 음악과 춤을 담당하고 있었다 (송2007:353).
2①본고에서는 다음과 같은 의미로 기호를 구분한다.
정(鄭) 조선 왕조명칭 게이(慶) 『의궤』로 보는 궁중검무 「」 :문헌의 상세항목, 【】 :그림상명, 《》 :정(바침)재주(궁중무용)명, <> :노래명② 『의궤』는 소장소나 문헌에 의해 표기가 다르고, 본고에서는 그것을 따라서 표기한다. 3 『의궤』에서는, 여자즐거움·기생의 기술도 보여지지만, 주로 여자 레이(伶)라고 하는 단어가 이용되어 있다. 정(바침)재주가 간단한 순서나 공연에 있어서의 춤추는 사람의 위치등을 기록한 『정(바침)재주춤그림홀기』에는, 여자 레이(伶)라고 하는 단어만이 채용되어 있다.
4여자妓폐지는, 1894년에 빼 일어난 갑오개혁에 의해 신분제도가 폐지된 것이 시발이다. 그 영향으로 妓안이 일부폐지되어, 300남짓의 관妓가 해산된 것을 비롯하고, 여자즐거움폐지(1905), 교스님청폐지(1905), 궁중관妓인 의여자나 바늘선婢폐지(1907)등 차례로 간 관제개편에 의해 서서히 폐지되었다고 간주된다. 최후에 일본 경시청의 주도로 내놓은 기생단속 령(1908)에 의해, 거처를 잃은 관妓(여자妓)ら이나 기예를 익히고 있지 않은 창기가 결성한 것이 기생조합(1908)과 같은 단체다. 이러한 단체에서 여자妓와 창기가 모두 활동하는 것은 최종적으로 기생과 창기의 구분이 애매해지는 결과가 되었다고 생각된다 (이(李)1992참조).
5 『의궤』는 통상 5∼9部를 제작했다로 여겨졌지만, 이것은 열람자나 보관 장소에 의해 보심용 (국왕이 열람하는 의궤)이라고 분조(分上)용 (여러가지 곳에 나누어서 보관하는 의궤)에 구분되었다. 보심용 의궤는 통상 1部가 제작되어, 1776년(정조즉위 해)에 奎장閣이 설립된 이후는 주로 奎장閣으로 보관했다. 분조(分上)용 의궤는 의정부, 춘추관, 레이(禮) 소(曹)등 국가의 전례를 관장한 기관이 있는 서울과 지방의 사(史) 고에 분산, 보관되었다. 현재는 서울대학奎장閣한국학 연구원, 한국학 중앙연구원藏서閣, 파리 국립도서관, 일본 궁내청등에 소장되고 있다 (한2002참조).
6 이것은, 선행 연구로부터 연회 스스무(享) 관련 의궤를 짜고, 의궤의 「의주」나 「다쿠미(工) 레이(伶)」항목으로 확인해서 안 것이다. 검무가 도입되었다로 하는 시기에 대해서 선행 연구에서의 다른 이견이 있어서 (돈(2001)과 송(2008)은 정조값에, 김;신(2005)과 이(2007)은 순조값에 검무가 정(바침)재주로서 궁중에 도입되었다고 언급하고 있다), 1795년이전의 『의궤』도 확인했다.
7 『나라이유(번역) 헌종 무 신(申) 신(進)饌의궤』 (8:56)에는 「즐거움춤차이대비」, 『나라이유(번역)순조자신축 신(進)饌의궤』 (8:39)에는 「즐거움 다쿠미(工)·춤아동·여자 레이(伶)」다라고 정의되고 있다. 그러나, 이 항목에는 즐거움가무를 연기한 여자妓나 춤아동, 즐거움 다쿠미(工)의 명부이외에도 행사 당시에 공연된 정(바침)재주종목이나 악기편성을 기록도 실려 있다.
8卷 1 「악장」:18b, 「이하에서는 춤만을 연기해 唱사를 부르지 않기 위해서 , 악장을 싣지 않는다 …여자妓 4명이 戰갓과 전옷을 착용해 각각 검 2뚜껑을 손에 들고, 2대에 나누어 서로 대무 해 춤을 춘다. 」 9 빨간 천 스커트로, 왕실예의에서는 즐거움춤의 연주의 때, 여자 레이(伶)(여자妓)의 복식으로서 사용되었다.
101838년(헌종4년):대왕대 비순원 왕비(1789-1857)의 5순(50세) 1839년(헌종5년):대왕대 비순원 왕비의 노조미(望) 6(노조미(望) 6:60을 바라보는 연령의 51세) 1841년(헌종7):대왕대 비의 어머니 臨 40년(어머니 臨;왕비권봉40년) 1847년(헌종13):왕대 비신 데이(貞) 오(王) 비의 4순(40세) 1848년(헌종14년):대왕대 비순원 왕비의 6순, 왕대 비신 데이(貞) 오(王) 비의 노조미(望) 5(노조미(望)5:41세) 1849년(헌종15년):대왕대 비순원 왕비의 환갑 (『국 이유(번역) 헌종 무 신(申) 신(進)饌의궤』6:17).
11卷 1 「우쓰리(移) 문장」 1847년11월21일:48b-49a 12卷 1 「다음關」 1847년12월19일:58b, 「헤이안(平安)길관찰使爲상생각것원인關분페이(文平)壤아동妓기보물. 보물 나리카와(成川) 아동妓니시키(錦) 구레나이(紅)軟옥정색. 그물 망 밤상 보냄爲 ... 」 13卷 3 「다쿠미(工) 레이(伶)」:9b, 검기 춤정(바침)재주. 레이(伶) 일대 2 【구름. ·暎월】 2대 2 【게이(瓊) 조개·오토리(鳳) 딸】 3대 2 【채鸞·월 향기】아동妓대 2 【기보물·. 보물】 14조선 시대, 무사가 착용한 모자의 하나. 붉은 날개와 코끼리털, 옥백로등으로 꾸민다. 궁중연회 스스무(享)에서는 주로 검무에 사용되었다. (송;돈20076:92) 15卷목 「복식그림」:38a, 「劍그릇춤정(바침)재녀妓복식. 향기挾소매보라색적 가케(掛) 아이戰갓. 戰帶」卷 3 「다쿠미(工) 레이(伶)」:7a, 「劍그릇춤정(바침)재주. 레이(伶) 대戰갓도착 붉은색. 치마까마귀靑갑모래 가케(掛) 아이. 戰帶풀緣鞋」 16卷 1 「유즈루(傳)敎」 1848년2월23일:5b, 「입 유즈루(傳) 아래교曰다음날會작의절參피차(서로)자신축해예 오사무(磨). 」

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인간문화창성 과학논총 제13권 2010년

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