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Wednesday, April 11, 2012

Ishiyama-dera Temple, Emaki 石山寺縁起絵巻

石山寺縁起絵巻


http://www.ishiyamadera.or.jp/blog/cat15/index_8.html

http://blogs.yahoo.co.jp/hehualu2000jp/archive/2006/07/03











石山寺縁起絵巻〔いしやまでらえんぎえまき〕は、良弁僧正の石山寺創建から始まる寺の縁起や、本尊のあらたかな霊験の数々を記した全七巻の紙本着色絵巻物です。紫式部が源氏物語を書いた場所としても知られる大津市の石山寺は、近江を代表する名刹です。14世紀前半に成立した『石山寺縁起絵巻』は、寺の創建の由来と、本尊である如意輪観音にちなむ霊験説話を集成したもので、国の重要文化財に指定されています。


1、街道をゆく馬借

近江国石山寺の縁起や信仰を伝える、鎌倉時代末期成立の「石山寺縁起絵巻」に描かれた 近江坂本の馬借。中世の内陸部交通は河川が重要な役割を果たしており、三国湊は坂井郡金津・足羽郡北庄・府中・奥越地域と河川で結ばれ、また敦賀津は川舟座によって敦賀郡内の各所とつながりをもっていました。また若狭では、遠敷郡の北川・南川が郡内陸部から小浜津への輸送路としての機能をもっていました。中世の若狭では、古代官道のルートを踏襲する九里半街道が主要街道として利用されましたが、針畑を越えて鞍馬街道を経由する道や、名田荘を経由して長坂越えを通る道も利用されていました。一方越前では、北陸道が主要街道の位置を占めていましたが、三河から越前への浄土真宗伝播のルートとしても知られる美濃街道も大きな役割を果たしていました。これらの河川や街道には、その地の領主の収入源として、あるいは戦国大名の軍事上の必要から関が設けられました。また府中から西にのびる西街道では、運送業者である馬借が戦国期には活躍しました。この馬借は、南条郡河野・今泉の両浦に入港した船の物資運送と塩・榑の独占的販売権をもち、両浦・山内の馬借として知られています。越前の戦国大名朝倉氏は、1510年(永正7)より越前の街道の修復を国内の人びとに命じ、また敦賀郡の庄の橋(笙橋)や足羽郡の浅水金橋・北庄橋の修理を行うなど、交通路の維持管理を重要視していました。しかし、日野川の白鬼女橋と九頭竜川の高木橋はともに、軍事的な意味から舟橋でした。


2、鎌倉時代に日本の米作りは進歩しました.

広大な開拓地であった関東平野や東北地方では農民が自らの土地を守るために武装し「武士」となりました.これらの武士は都から役人としてやってきた貴族や皇族の子孫を「棟梁」(とうりょう=組織をまとめる主人)として結束を固め「武士団」を形成しました.平氏や源氏はその代表といえます.
このように武士が力を強めると,今まで貴族や寺社の所有物だった荘園に地頭という形で武士が進出してきました.武士は自分達の取り分を増やし,経済力を強めるために当時最大の産業であった農業の生産高をあげるために努力しました.その結果として「農業技術」が進歩し,西日本では二毛作が始まったのです。灌漑(かんがい=農業への水の利用)施設が発達しました。それまで川の近くの湿地帯や中・下流域の平地だけで行われていた稲作が,水車や溜め池,水路などの灌漑設備が整い水田が広がっていきました.この絵では川から水車で田んぼに水をいれていますね.


3、絵巻の竜の姿のものや、人の姿のもの、中間のものとさまざまな竜たちが和尚の周りに現れている所です。ここに竜が祀られているということは、この地が元々竜と縁のある土地であったことを伺わせます。


4、石山寺に参籠し、はるか湖水に写る月影を見て、紫式部は『源氏物語』の構想を感得したと伝えられている。




**石山寺**

さざなみが煌めく琵琶の湖水が、やがて穏やかな流れとなる瀬田川、石山寺はその西岸の伽藍山の麓の景勝地にあります。その創立は、東大寺大仏造立のための黄金の不足を愁えた聖武天皇が、ここに伽藍を建てて如意輪法を修すようにとの夢告を受け、良弁僧正を開基として開かれた寺院です。また、本尊の秘仏如意輪観音像は、聖徳太子がお伝えになった、縁結び、安産、福徳などに霊験あらたかな仏さまとして信仰を集めています。

石山寺は奈良時代から観音の霊地とされ、平安時代になって観音信仰が盛んになると、朝廷や摂関貴族と結びついて高い地位を占めるとともに、多くの庶民の崇敬をも集めました。その後も、源頼朝、足利尊氏、淀君などの後援を受けるとともに、西国三十三所観音霊場として著名となり、今日まで参詣者が絶えません。

また石山寺は西国三十三所の第十三番札所となり、観音信仰の霊場としても多くの参詣者を集めました。とくに貴族の女性の参籠が流行したらしく、紫式部が当寺で『源氏物語』を書きはじめたという伝説も、このような背景によるものでしょう。境内の本堂(国宝)は、巨大な硅灰石(天然記念物)の上に建てられています。この本堂内にある「源氏の間」は、かつて紫式部がその窓から十五夜の月を眺めたときに、霊感をうけ物語が出来上がったと伝えられます。「右少弁藤原為時の娘、上東門院の女房であった紫式部は一条天皇の叔母の選子内親王のためにと、女院から物語の創作を下命され成就を祈願するため当寺に七日間参籠した。心澄みわたり、にわかに物語の構想がまとまり、書き始めた」『石山寺縁起絵巻』には、このように記されています。

近江八景「石山の秋月」のシンボルとなっている月見亭は、瀬田川の清流を見下ろす高台に設けられ、後白河天皇以下歴代天皇の玉座とされました。この月見亭の隣に芭蕉庵があります。俳聖松尾芭蕉は、たびたびここに仮住まいをして、多くの句を残しています。

石山の 石にたばしる あられかな
あけぼのは まだむらさきに ほととぎす

瀬田川周辺には、芭蕉ゆかりの地として墓地のある義仲寺の無名庵、長期滞在した幻住庵、岩間寺などが点在します。

http://achikochitazusaete.web.fc2.com/ouminotera/isiyamadera/murasaki.html




石山寺と古典文学

紫式部『源氏物語』

『石山寺縁起絵巻』巻2には、



『蜻蛉日記』の石山詣での件りはちょっと長いので、別頁で紹介。クリック

和泉式部も、敦道親王との関係がうまくいかず、むなしい気持を慰めるために石山寺に籠った。『石山寺縁起絵巻』に和泉式部は載らない。『更級日記』や『蜻蛉日記』は、家族の安寧を願い、これからの人生をまじめにお願いする参詣なのに、色恋沙汰の多い和泉式部の参詣は、呆れられていたのかもしれない。石山寺に籠っていても、メールの交換ばかり。



『今昔物語集』 「石山観音、為利人付和歌末語」


http://www.morinobuna.com/blog/


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