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Monday, June 11, 2012

"Mao Zedong and Zhou Enlai" by Yabuki Susumu

http://www18.big.jp/~yabukis/chosaku/maozho91.pdf


『毛沢東と周恩来』
まえがき
なぜ今、毛沢東と周恩来か
レーニン主義の敗北/鄧小平路線の矛盾
I 厳格なる父、寛容なる母
1 ゲリラとしての毛沢東
農民による革命/富農の出身/ゲリラの血統/
2 師爺としての周恩来
紹興人気質/優等生・周恩来/日本留学/五四運動と半年の投獄/マルクス主義への接近
革命の地、広東へ/
3 二人の素顔
田舎っぺ毛沢東/きたえぬかれた調整能力/毛沢東の読書生活/
4 二人の妻たち
封建的結婚制度への反発/理想の妻・楊開慧/長征を歩いた賀子珍/悲劇的結末
世紀の悪妻、江青/土包子と洋包子/離婚できない皇帝/周恩来と鄧穎超は模範夫婦
II 毛沢東神話の誕生
1 二人の出会い
農民のなかへ/南昌蜂起と秋収蜂起/最初の接触/李立三路線との対立/富田事件の大粛清
周恩来、革命根拠地へ/
2 遵義会議での逆転
ナゾの寧都会議/調和主義者への批判/遵義会議での復活/毛と周の立場逆転/長征、苦難の道
3 毛主席の登場
国共内戦の開始/中国に毛沢東があらわれた/毛沢東は下戸だった/黄河を越える/白髪一本で三大戦役勝利
III 皇帝と宰相
1 中華人民共和国の成立
革命家のめざしたもの/毛沢東の理想/二人でつくった新政府/建国式典当日の毛沢東/自宅が執務室/毛沢東の批語政治
2 大躍進 暴走する毛沢東
実務家と理想家の対立/追随をはじめた周恩来/自己批判の理由/人民公社の夢と現実/「野人」激突/歴史の皮肉/彭徳懐の述懐
3 文化大革命のなかの周恩来
文革の三段階/火消し屋、周恩来/伍豪啓事問題/幹部保護に奔走/宰相の限界/林彪事件への的確すぎる対応/皇帝の一声/鄧小平復活/スターリンの「大粛清」と文化大革命
4 新外交と孤独な皇帝
ソ連主敵論への転換/ニクソン訪中秘話/ブッシュのみた毛沢東/周恩来外交の高評価
毛沢東の江青批判/なぜ老人が皇帝たりえたのか/宰相の不自由な晩年/遺骨は祖国の山河にまくべし/老人、毛沢東/晩年の読書『資治通鑑』/毛沢東神格化を数字でみる
IV 巨星、落ちて
1 毛沢東の評価
天安門事件と四人組追放/巨星評価の変容/「両軍対戦」の思考パターン/封建政治の再生
孫悟空としての毛沢東/毛沢東の読んだマルクス・レーニン主義/毛沢東は「革命」を理解していたか?/毛沢東の民主主義観/二つの権力基盤
2 宰相周恩来の功罪
周恩来顕彰文の代表的一例/愚忠をつらぬいた宰相/統一戦線の功績/周恩来外交の限界
3 結びに代えて
理論に欠陥がある/五つの問題点/何が勝ち、何が負けたのか?/現代に残る「臣民の心理」
毛沢東は楽観的すぎた
引用文献一覧
毛沢東を研究するための文献
周恩来を研究するための文献
年表
まえがき
なぜ、今、毛沢東と周恩来か
中国北京市の中心に天安門広場があることはよく知られていよう。天安門に大きな肖像画がかかげられている。それが本書の主人公の一人、毛沢東である。中華人民共和国を建国した革命家たちの組織、中国共産党。毛沢東はその共産党のナンバーワンの地位(党主席)を一九三五年から死去した一九七六年まで四一年間にわたって保持した。
周恩来は毛沢東の片腕として、中華人民共和国の国務院(内閣)総理を一九四九年から七六年まで二六年間務めた。総理(宰相)の激務を四半世紀にわたって務めるのはただごとではない。不倒翁(ルビ・おきあがりこぼし)のあだなをもつ周恩来は、いくども倒れそうになったが、そのつどおきあがり、ついに死ぬまで総理の地位を保持した。
毛沢東をかりに中華人民共和国の「建国の父」とよぶとすれば、周恩来は「建国の母」にあたる。四九年の建国はむろん二人で樹立したわけではなく、無数の革命家たちの流血の犠牲のうえに築かれたものである。ただ、この革命の過程できわだった貢献をした二人が毛沢東と周恩来であり、しかも建国後も三〇年ちかくにわたって、みずからの理想である社会主義建設のために粉骨砕身した。
毛沢東と周恩来は現代中国の生んだ傑出した政治家であるばかりでなく、広く二〇世紀の世界の偉人というモノサシでもおそらく屈指の指導者である。半植民地中国の独立は、アジア、アフリカ、ラテン・アメリカ諸国の独立にとって大きな支えになった。
当然、これまで数多くの伝記が書かれてきた。汗牛充棟とは、牛車が汗をかいて引き、棟につかえるほどの書物のことだが、この表現があてはまるほど関連資料は多い。にもかかわらず、私がいま、あらためて『毛沢東と周恩来』を書こうとするのはなぜか。
第一は、一九八九年六月四日の天安門事件とソ連、東欧の民主化という激動する政治状況である。東欧に一歩遅れてソ連で九一年「八月革命」を契機に、共産党の活動停止をも含む巨大な変革が始まった。これとは対照的に、中国政府は民主化を求める学生や市民の運動に対して戦車をくりだして再編した秩序をかたくなに守ろうとしている。人民大衆が国家の主人公となったと宣言し、「人民共和国」を名のる国で、政府が民衆に対して銃口をむけた事実の意味するものはなにか。同じくマルクス・レーニン主義を国是としてきた社会主義圏の大部分がこのような動きをしめしていることは、中国の未来に対してどんな示唆をあたえるのか。
第二は、毛沢東生誕(一八九三年)百周年まであと二年、周恩来生誕(一八九八年)九〇周年から三年すぎた今日の時点で、さまざまな新資料が出版されてきていることである。これまで毛沢東や周恩来の私生活はベールにとざされてきたが、近年になってようやく素顔の毛沢東ものが続出した。周恩来については欽定版ともいうべき金冲及主編『周恩来伝(一八九八~一九四九年)』が出版された。これらの資料によって闇につつまれていた部分に光があてられはじめた。
このような問題意識のもとで、最新の、できるかぎりたしかな資料を選びながら、毛沢東と周恩来の追求した理想と現実をえがくこと、それが私の課題である。
レーニン主義の敗北
中国で「信念の危機」が語られるようになって久しい。これまでは社会主義こそが中国を救うと信じられてきたが、八〇年代初めからこれは誤りではないかという深刻な反省がおこなわれるようになった。八九年の天安門事件、そして九一年夏のソ連革命を経て、この反省は確たる信念に変わりつつあるようにみえる。
近年、中国人はしばしば「反思」という言葉を使い、これによって社会主義のもとで、政治的民主主義が欠如し、経済発展が立ち遅れ、道徳観念が混乱したのはなぜかについて、深刻な再考、省祭を続けてきた。
経済体制にも政治体制にも欠陥の多いことに気づいた中国の人々は、中国社会主義を支えてきた柱である毛沢東思想に懐疑の目をむけるようになった。毛沢東思想とは、「マルクス・レーニン主義の普遍的真理」と「中国の革命と建設の具体的実践」とを結合して生まれたものと定義されている(『毛沢東思想辞典』中共中央党校出版社)。
ところが、普遍的真理とされてきたマルクス・レーニン主義の今日的状況を端的にしめすソ連の代表的な改革派指導者の言葉がある。ヤコブレフ前ソ連大統領首席顧問がタス通信のインタビューに対して「社会主義は完全に敗北した」「われわれの不幸の原因はマルクス主義の教義にあった」と答えているのだ。すなわち「階級闘争による階級の消滅」という考え方が圧政に通じたとして、活動の指導理念としてのマルクス主義を否定すると彼は言明した。詳しくいえば、ヤコブレフのいう「マルクス主義」は「マルクス・レーニン主義」であり、マルクスの「マルクス主義」とは異なる。後者は「マルクス主義プラス十月革命」から生まれたボルシェビキ主義(=レーニン主義)である。
中国が受容したマルクス主義とはボルシェビキ主義(=レーニン主義)であり、スターリン時代にコミンテルン(共産国際、第三国際)から輸入された。中国共産党はもともと世界革命をめざすコミンテルンの一支部として生まれたからである。コミンテルンの解散にともなって、中国共産党は名実ともに独立した組織となったが、そのイデオロギーも組織形態もほとんどすべてをコミンテルンから学んだものであり、いわば親子か兄弟である。血は水よりも濃い。中国共産党の身内であるソ連が「マルクス・レーニン主義の敗北」を宣言しているのであるから、ことは深刻だ。西側世界や東欧においてはヤコブレフのような考え方はかねて存在していたものの、それが公然と語られるようになり、左派のクーデタを流産させる民衆の力となった。勢いのおもむくところ、ゴルバチョフ大統領はついにソ連共産党の活動停止を提案するにいたった。
実は中国でもこの潮流を観察できる。天安門事件の直前にハンストに突入した劉暁波(前北京師範大学講師)は、事件直前に香港の雑誌によせた論文にこう書いた。「人々のマルクス主義に対する熱狂的信仰は、絶対的権力に対する崇拝か屈伏にすぎない」「東方マルクス主義はもはや思想や信念ではなくなり、専制権力の一部分に変質し専制者が独裁統治を行う道具に堕落している」「中国とソ連では、専制者はマルクス主義を看板とする思想独裁を一日たりとも放棄できないのであるから、真の覚醒者たるもの、一日たりともマルクス主義に対する批判を放棄することはゆるされない」。
鄧小平 路線の矛盾
マルクス・レーニン主義が普遍的真理たりうるかどうかにほとんど決定的な疑問符がつきつけられたことは明らかである。では毛沢東思想のもう一つの側面、すなわち「中国の革命と建設の具体的実践」の視点から見るとどうか。「中国の革命」すなわち四九年革命が成功したことは歴史的事実であり、その成果を根本的に否定することはだれにもできないであろう。しかし、「中国の建設」すなわち建国以後のいわゆる社会主義建設の成果はどのように評価できるであろうか。
四九~七六年の毛沢東、周恩来の時代にえられた成果、それを指導した理論、イデオロギーに大きな欠陥のあることは、ポスト毛沢東時代の政策転換が逆証明している。鄧小平は七九年以後、改革開放の政策を大胆にすすめているが、この路線転換自体が毛沢東、周恩来の時代の限界を乗りこえようとするこころみにほかならない。
ここで問題の核心は鄧小平 の政策の方向性あるいはベクトルである。毛沢東、周恩来の時代に中国がめざしたものは、政治的には階級闘争の継続によって階級の廃絶をめざし、経済的には商品経済を廃絶して計画経済をもっておきかえ、私有制を廃絶して公有制でおきかえることであった。しかし、いまや商品経済の効用、市場メカニズムの機能が再評価されている。公有制にもとづく国営企業の赤字は解決のメドがたたず、逆に私有制にもとづく郷鎮企業や外国資本との合弁企業がよい成績をあげている。経済政策のベクトルは明らかに市場経済化へむかっている。
鄧小平 路線は政治上では社会主義体制の堅持や共産党の指導を強調しているが、経済上では限りなく資本主義にちかい経済体制をめざしているとみてよい。一般的にいえば、市場化経済体制に適合した政治体制とは、専制的・中央集権的・一元的統治体制ではなく、民主的・分権的・多元的政治体制のはずである。鄧小平路線においては経済改革の方向と政治体制の方向とが矛盾しているため、天安門事件として爆発したと私は分析している。
天安門事件の悲劇は、直接的にはこのような鄧小平 路線の矛盾に起因したものだが、鄧小平 体制が直面している課題は、毛沢東、周恩来の時代からもちこされたものが多い。鄧小平は毛沢東、周恩来の時代のしりぬぐいをしていることになる。
毛沢東と周恩来が築きあげ、育てあげた中国共産党はいまやイデオロギー面では社会主義建設への積極的なビジョンをうしない、気息奄奄である。ひたすら「和平演変」(帝国主義が平和的手段をもちいて社会主義体制を転覆させるという考え方)の脅威を強調するばかりである。
他方、官僚組織としての共産党は国家機関や解放軍のすみずみまで入りこみ、きびしい監視の目を光らせ、人民に君臨している。なぜ、どのようにしてこうなったのか。
あらためて毛沢東と周恩来の生涯とその活動の意味を考察してみたい。
I 厳格なる父、寛容なる母
1 ゲリラとしての毛沢東
農民によく革命
一九一七年のロシア革命は都市の労働者が決起して権力を奪取した。中国共産党は設立当初はロシア革命のやり方をそのまま模倣して、都市の労働者を組織して革命運動をすすめようとした。しかし、当時の中国では近代的産業労働者階級は約二〇〇万にすぎず、これらの人々に依拠して革命運動をおこなうことには大きな限界があった。
モスクワ帰りの革命家たちはソ連の経験を絶対化していたが、毛沢東は割合はやく、中国革命においては農民の役割が重要なことに気づいた。そこで彼は地主に搾取され、貧窮のなかにある農民を説得して反抗に立ちあがらせた。一方、地主の側、権力の側は武装してこれを鎮圧しようとする。反乱をおこした農民は敵の部隊を山間部に誘いこんで各個撃破する。こうして地主側の権力の支配がおよばなくなったところを「解放区」あるいは「根拠地」という。人民が搾取から「解放」された地域、人民が革命のための「根拠とする地域」の意である。
毛沢東は一方で地主の土地を奪って農民に分配する土地革命の計画者、組織者として、他方ではこのようにして成立させた解放区、根拠地を防衛し、拡大するためのゲリラ戦争の指揮者として、たぐい稀な能力を発揮した。日本には勝てば官軍という諺があるが、中国では成功すれば王となり、失敗すれば賊となる(成則王敗則賊)という。毛沢東は勝利して官軍となり、王となった。
毛沢東は湖南省の農民の子として生まれた。農民の子がなぜゲリラ戦の達人となりえたのか。近年、毛沢東の家系についての資料があらわれ、その秘密をとくカギがえられた。毛沢東の遺伝子のなかには軍人の素質が含まれていたようである。
富農の出身
中国には「族譜」とよばれる記録がある。日本の系図に似ているが、記述されている内容はずっと豊富であり、一族の系譜にはじまり、伝記、墓地、祠廟、家規家訓におよぶ。したがって族譜の編纂には調査研究や出版のために多額の費用がかかる。族譜がつくれる宗族は少数の大地主にかぎられる。毛沢東は「封建的宗法的支配」こそが地主体制をささえていると攻撃したが、毛沢東一族は族譜をもつほどの家柄なのであった。
私は研究者仲間とともに一九八八年夏休みに湖南省湘潭県韶山冲に毛沢東の生家をたずねたことがある。そのとき毛沢東記念館の展示のなかに族譜の写真版をみつけて、係員に族譜をみせてほしいと申し出た。希望はそのときはかなわなかったが、その後、族譜を分析した資料があらわれ、毛沢東の血統がうかびあがってきた。
毛沢東の先祖は毛太華という。朱元璋が明朝を建てたとき、江西省吉州府龍城県(現在の吉水県)から朱元璋の部隊に身を投じた青年がいたが、その青年こそ毛太華である。彼は下級軍官として雲南省まで遠征し、雲南の平定後、軍人としてそこにとどまった。現地には漢民族の住民がいなかったので、毛太華は多くの戦友と同じく少数民族の娘を妻とし、四人の息子をもうけた。毛沢東には雲南の少数民族の血が流れている。毛太華は老いてから内地に帰ることを朝廷に願い出て、湖南省韶山に妻、長男、四男を連れて帰ることを許された。以後約五百年、毛家は農業を営んできた。
毛沢東は毛氏二〇代目にあたる。毛沢東の父毛貽.昌の字(ルビ・あざな、本名のほかに別名をつける習慣がある)は順生である。毛貽.昌は妻文氏を娶った。彼女は文氏の七番目の子供なので文七妹とよばれた。父母は五男二女をもうけたが、長男、次男と二人の娘は夭折し、三男の毛沢東が長男として育てられた。弟に三歳年下の毛沢銘(沢民)、一二歳年下の毛沢覃がいる。文七妹は夫よりも三歳年上だったが、それは旧中国では最も適例とされていた。魯迅の父母や魯迅・朱安夫婦も、妻が三歳上であった。
毛沢東の字(あざな)はこれまで潤之とされてきたが、『族譜』によれば、正しくは詠芝である。湘潭方言では同じ発音であるが、毛沢東は潤之を好み、よく用いた。
湖南省とは洞庭湖南の意、湘潭県は湘江流域にある。韶山とは舜帝が韶楽(古代の楽曲名)を奏でたとする伝説に由来する。湖南は二千年あまり前、楚の国であり、隣国秦と対抗していた。楚に三戸あれば、秦を亡ぼすのはかならず楚である、といわれたほど英雄豪傑が多く、この言い方は今日までつたえられている。世がみだれると、群盗、毛のごとし、といわれるほど土匪、盗賊も多かった。
湖南人の好物は唐辛子であり、子供が歩きはじめたらもう食べさせる習慣がある。この習慣のため、どんなに辛いものも平気になる。堅忍剛毅な性格は唐辛子によるといわれるほどだ。毛沢東自身、唐辛子を食べない者は革命的になれないとしばしば口にした。毛沢東の頑固さは湖南人気質によるものとする説がある。
ゲリラの血統
毛氏一族は科挙とは縁が薄かった。第三代の毛有倫が歳貢(科挙制度のもとで国子監で学ぶ資格をもつもの)になったのは珍しい例であり、国子監の学生になる者(監生、現在の大学生)さえほとんどなく、大部分は韶山で農民として暮らしてきた。しかし、毛恩毅(一八代)が清代提督軍門で重要な職務についたように、軍功を立てて官職を得た者は少なくなかった。たとえば毛沢東の祖父の世代七四〇人のうち功名を立てた者は一〇人いるが、九人は軍官である。毛沢東の父の世代八一四人のうち功名を立てた者は二六人で、うち一七人は軍官である。毛沢東の世代六七〇人のうち功名を立てた者は一七人、うち一四人が軍官である。このなかには、毛沢東、毛沢銘、毛沢覃の三兄弟も含まれる。
この意味では、ゲリラ戦略家毛沢東の出現は決して突然変異ではなく、初代毛太華以来の毛氏一族の血統であるかもしれない。
毛沢東の父は、短気で毛沢東や弟たちをよく殴ったが、母は情け深く寛大だった。家には父という支配者党と、毛沢東、母、弟、雇い人からなる反対党の「連合戦線」があったとエドガー・スノウに語っている。毛沢東は一三歳のとき、父の用いた論拠で父に反駁するやり方を覚えた。敵の武器を奪って、敵と戦うゲリラ戦法の原型であろう。
少年のころ、堯、舜や秦の始皇帝、漢の武帝の話に夢中になり、『世界の大英雄』という本から、ナポレオン、エカテリナ女帝、ピーター大帝、ワシントン、リンカーンなどの名を知った。
一六歳のとき、長沙で暴動がおこり、父の米が奪われたが、毛沢東はむしろ貧乏な農民の立場に同情した。このとき、毛氏の宗廟で宗族の族長と争っている。一七歳のとき、長沙にゆき、湘郷中学に入ったが、辛亥革命がおこると、学業を放棄し、弁髪を切り落として革命軍に応募した。翌年、高等商業、省立第一中学などの図書館で独学した。
一九一三年、一九歳のとき、長沙の省立第四師範に入学したが、まもなく第一師範に合併され、以後二四歳で卒業するまで五年間学んだ。卒業前後に仲間たちと新民学会をつくった。第一師範時代に、恩師楊昌済から大きな影響をうけた。毛沢東はその後、北京大学教授として赴任した楊昌済を頼って、北京大学図書館のアルバイトを紹介してもらっている。
一九年、二五歳のとき長沙に帰り、湖南学生連合会を組織し、『湘江評論』を創刊し、軍閥張敬堯の追放運動などをこころみた。二〇年、ロシア革命三周年にあたり、新民学会の仲間と長沙でデモを組織した。このころ、彼は『共産党宣言』(陳望道訳)、『階級闘争』(カウツキー著)、『社会主義史』(カーカップ著)を読んでマルクス主義者になったとスノウに語っている。翌二一年、二七歳のとき、中国共産党の創立大会に、郷里湖南省の仲間を代表して参加した。毛沢東はロシア革命から強い衝撃をうけて、大衆運動のみが政治的改革の実現を保障する力の源泉だと確信するようになっていたのである。
2 師爺・周恩来
紹興人気質
周恩来は一八九八年三月五日、江蘇省淮安県城内(馬付)馬巷で生まれた。淮安という町の印象から話したい。私は一九九〇年夏休みにこの町を訪ねた。さびれた田舎町の印象をうけたが、かつては南北を縦貫する京杭大運河(北京と杭州を結ぶ)と東流する淮河の交わる箇所であり、清朝の漕運総督衙門がこの町に置かれたことが交通の要衝たることを証明していた。いま古運河として残る遺跡の風情から、周恩来が生まれるはるか昔の、往時の繁栄がしのばれ、印象的であった。新たな周恩来記念館の建設工事もはじまっていた。
周恩来の原籍は浙江省紹興小保佑橋百歳堂にある。魯迅逝去二周年記念のとき、周恩来はこうのべた。「血統では私は魯迅先生の本家筋かもしれない。二人とも浙江紹興の周家だからである」。
周恩来の祖父周殿魁の時代に「師爺」となって紹興から淮安に転居した。師爺──これが周恩来の人生を解く一つのキーワードである。封建時代に読書人の活路は科挙をうけることにあったが、紹興人は科挙をうけて正規の役人になるよりも、官職ではない師爺になり、全国各級の役所で文書を扱う道を選んだ。
師爺とは県知事など役人の幕僚であり、老夫子と尊称されていた。県政府では司法担当は刑名(シンミン)師爺(シーイェ)、財政税務担当は銭糧(チェンリャン)師爺(シーイェ)とよばれた。師爺というのは県知事の意をうけて実務をおこなう官僚であり、県知事側としても彼らに依拠して行政をおこなうのが常であった。
師爺はむろん紹興人に限られないが、紹興(シャオシン)師爺(シーイェ)は有能なことで知られ、一つのギルド的な人脈をつくっていた。毛沢東につかえる周恩来の姿は、周恩来が師爺の体質を継承しているとみるとわかりやすい。
紹興人に多かったもう一つの職業は商人である。彼らは大都市に雑貨店をひらき、その一角では紹興酒も売り、あるいは呑ませた。師爺といい、大都市商店といい、いずれも都会的なスマートな職業で、各地の情報につうじている。周恩来の体質のなかには紹興人気質、師爺の血統あるいは遺伝子が脈うっている。
祖父周殿魁は晩年に淮安で淮安府山陽県(現淮安県)の知県(県知事)を務めた。周殿魁には四人の息子がいた。末子の貽.能が周恩来の父親である。周殿魁は五〇数歳で死に、父親貽.能の時代にかなり貧しくなった(表2)。
周恩来の母親万氏(十二番目の娘なので、万十二姑とよばれた)の父・万青選の原籍は江西南昌で、やはり師爺出身である。淮安府下清河県(のち淮陰県)で三〇年間知県を務めた。万十二姑は周貽.能に嫁いで周恩来と二人の弟恩溥、恩寿を生んだ。
周恩来が一歳にもならないときに、最も若い叔父貽.淦が病没した。「不孝に三つあり、後継ぎ亡きを大となす」の考え方から、周恩来は貽.淦の養子となり、養母陳氏に育てられた。陳氏の実家は蘇北宝応の貧しい読書人の家庭で、未亡人となったとき実子はなく、まだ二二歳の若さであった。陳未亡人は周恩来の養育と教育に力をつくし、周恩来自身は陳氏を母とよび、生母を義母と呼ぶほどなついた。
優等生周恩来
一九〇四年、六歳の周恩来は父貽.能、母十二姑、継母、弟たちとともに、外祖父家のある清河県清江浦に転居した。大家族なので家族内でよくもめごとが起こり、母十二姑が調停に活躍した。万家には蔵書が多く、周恩来はここで『西遊記』などを読みふけった。父貽.能はお人好しだが、いささか才覚に欠け、月給一六元の下級職にしかつけなかった。母十二姑は苦労のあまり、一九〇七年に病に倒れた。翌一九〇八年七月、継母も肺結核で死去した。二人の母の死によって周恩来家は一家離散となる。父は湖北へ出稼ぎに行った。一〇歳の周恩来は九歳の恩溥と四歳の恩寿を連れて淮安の実家にかえるが、借金と家事は周恩来の肩にのしかかった。
周恩来が一二歳の年に、伯父貽.が奉天財政局の科員となり、生活が少し安定した。伯父には子女がなかったので、周恩来を引きとって育てることになった。「このとき家を出なかったならば、私の一生は、成就するところなく、家に残った弟たちと同じように、悲劇的な未来にむかったであろう」と周恩来はのちに回想している。
一九一〇年春、周恩来は奉天府へ行き、まず鉄嶺の銀崗書院(初級小学)で半年学んだ。秋に第六両等小学堂(のち奉天東関模範学校)が完成したので、奉天にもどり高等丁班に入学した。奉天で出版されていた『盛京時報』を購読し、時事問題への関心をふかめた。一二年一〇月、一四歳の周恩来は「奉天東関模範学校第二周年記念日感言」を書いて、中国を富強にするには、教育から出発しなければならないと論じた。これは現存する周恩来の文章のうち、最も初期のもので、のちに『中学生国文成績精華』に収められるほどの出来ばえであった。
一九一三年二月、伯父貽.が天津に転勤となり、一五歳の周恩来は天津市緯路元吉里に転居した。八月一六日南開学校の入試をうけ、秋からまる四年、一九歳までここで学んだ。これは一九〇四年厳氏家塾を再編してつくられた、欧米流の近代的教育をめざす私立学校として内外に有名であった。学生時代の周恩来の印象を後に級友は、厳粛活発の四文字であらわしている。成績は優秀、とくに国文と数学は抜群であった。課外には『史記』、顧炎武や王船山の著作、ルソー『民約論』、モンテスキュー『法の精神』、ハクスレー『進化論』などをよんだ。
南開時代に新劇『一元銭』を演じたさい、周恩来が舞台装置をつくり、女形を演じたことはよく知られている。卒業時の級友たちの評価はこうであった。君は性温和、誠実にして、最も感情に富み、友誼に厚く、凡そ朋友と公益のこと、力を尽くさざるなし。
南開学校の校長張伯苓は周恩来を南開で最良の学生とほめ、しばしば自宅にまねいた。学校理事の厳修も周恩来の人柄と才能をほめ、娘の婿に所望したが、周恩来が固持した一幕もある。
日本留学
一九一七年六月、南開学校を卒業した周恩来は、友人から旅費をかりて九月に日本にわたった。東京高等師範や東京第一高等学校など日中両国政府間協定で指定された学校に合格したばあい中国政府が官費留学生として認める制度があり、これを利用しようと考えてのことだった。周恩来はまず神田のある家具店二階の貸間に下宿し、一〇月、神田区仲猿楽町七番地の東亜高等予備学校にはいり、主として日本語を学んだ。
南開学校では数学、物理、化学などをすべて英文のテキストで教わっていたため、その知識を日本語で表現する苦労をあじわった。留学時代にかいた「周恩来旅日日記(手稿)」には、自分の苦境と叔父の死去など家庭の困難のなかで苦悶する青年周恩来の心情が吐露されている。
一八一八年一月八日、叔父の訃報に接した。「私は海外にあって、突然この悪い消息に接した。そのときの胸中は痛いのか、悲しいのかわからず、まるで知覚をうしなったようだった」。翌日こうつづける。「家中に一人も肝心の男子がいない。後事をどうすればよいのか。近年叔父夫婦は苦しみばかりなめてきた。借金取りに毎日せめられるが、金はない。一家数人食事はしたいが質草もつきたし、売るものもつきた。借金できるところなく、掛買いできるところもない」「叔父は持病だとはいえ、どうして医者にかかる金がないのか。まるで貧乏が極まって死んだようなものだ」。
同じころの日記。「私は来日してすでに四カ月余になるが、日本語が少しも進歩しない。もうすぐ高等師範の入試だ。もっと勉強しなければ合格の望みだけでなく、将来の望みもなくなる」。
一方では受験勉強にせまられながら、日本社会観察の必要性を感じている。「学問はどこにも求めることができる。どうして終日テキストにしがみつく必要があろうか。私はすべてを求学のまなこで見つめてよいと、来日以来感じている。日本人の一挙一動、一切の行事に留学生は注目しなければならない。私は毎日、新聞を読む時間に一時間余をさいている。時間はおしいが、日本の国情をどうしても知らなければならない」「(第一次大戦が終わったら)日本の軍国主義はどこと戦争するのか。軍国主義は二〇世紀には断じてなくさなければならないとおもう。私がかつて“軍国”と“賢人政治”で中国を救えると考えたのは、いま思うと大きな間違いだった」。
では救国の活路はどこに求めるべきか。答えは得られなかったが、悩める青年周恩来を励ましたのは陳独秀らの雑誌『新青年』であった。頭を整理してふたたび受験勉強にとりくむ。一九一八年三月四~六日、東京高等師範の入試があり、日本語、数学、地理、歴史、英語、物理、化学、博物の八科目のほかに口頭試問も行われた。結果は不合格。そこで七月に行われる第一高等学校受験のため、毎日学習一三時間半、休息その他三時間半、睡眠七時間の計画を立てた。
五四運動と半年の投獄
ところが祖国からは、五四運動につながる動きが伝わってきた。これに呼応して五月六日「大中華民国救国団」のメンバー四〇数人が神田区の中華料理店維新号で秘密会議をひらいているところへ日本の警察が踏みこみ、全員が逮捕される事件もおこった。五月一九日、天津南開学校と天津法政学校の卒業生からなる新中学会に周恩来は加わった。七月二~三日、第一高等学校の入試が行われたが、日本語の成績が悪く、不合格であった。七月二八日朝鮮経由で天津に帰郷し、九月四日東京にもどった。
相つぐ不合格で進路に悩んでいる周恩来をとり巻く世界は激動しつつあった。彼はジョン・リード『世界を揺るがした一〇日間』でロシア革命への理解を深め、また河上肇『貧乏物語』、幸徳秋水『社会主義の神髄』、片山潜『私の社会主義』などを読んで、ヒューマニズム、社会改良主義思想とともにマルクス主義思想にふれた。
彼はもともと他の留学生たちと同じく、日本をモデルとして学び中国の活路を探ろうとしたのだが、「米騒動」など社会問題が尖鋭化するのをみて、日本社会に対する失望も深くなった。ちょうどこのころ、母校南開学校に大学部が併設されるとのニュースが伝わり、彼は帰国して母校で学ぶ決意を固めた。四月五日京都嵐山を訪れ、「雨中嵐山」の詩を書いた。日本滞在は一年余(一七年九月~一九年四月)にすぎなかった。
周恩来は大連経由で帰国し瀋陽に伯父を見舞い、五四デモ直後の五月、天津にもどった。一七日南開学校の茶話会に出席し、そのまま学生運動に飛びこんだ。九月一六日天津学生聯合会は不定期の小冊子『覚悟』を出版し、覚悟社を結成した。「覚悟宣言」は周恩来が起草した。革心と革新の精神によって、自覚と自決を求めるという趣旨であった。九月二五日四年制の南開学校大学部が開かれ、文、理、商の三科がもうけられた。周恩来は一期生として文科にはいった。
一〇月下旬から二カ月余が覚悟社の活動のピークだった。李大釗らをまねいて講演会をひらいた。覚悟社の活動は世間の話題になり、一一月二五日付北京『晨報』はこれを天津の小明星と評し、その活動をたたえた。
二〇年一月二九日、周恩来はデモ隊五、六千人を指揮して直隷省公署におしかけ逮捕されたが、最初で最後の逮捕であった。七月一七日刑期満了で釈放されるまで約半年の試練をへて、国家の命運と社会改造に関心を抱く進歩的学生は、職業革命家に成長した。彼自身、革命意識の萌芽はこのころ始まったと述べている。しかし、まだマルクス主義者になったわけではない。
マルクス主義への接近
周恩来が出獄すると、南開学校の創始者厳修は校長張伯苓に、周恩来と李福景をヨーロッパに留学させるよう提案し、渡航費用をだしてくれた。一〇月八日、マルクスの故郷ヨーロッパに旅立った。周恩来のマルクス主義への関心はまず日本で芽生え、五四運動を通じてよりたしかなものに成長していった。
一九二〇年一一月七日、周恩来ら一九七名の中国人学生がフランス船ボルドー号でマルセイユにむかったが、それは「中国フランス教育会」の組織した第一五群のフランス「勤工倹学生」たちであった。当時イギリス留学生は二百人、フランス留学生は二千人であった。パリ郊外のフランス語学校でフランス語を学び、まもなく天津の四名の勤工倹学生とともに、フランス中部の町でフランス語を学ぶかたわら『益世報』に通信をかくアルバイトをした。
第一次大戦後、フランス社会の矛盾は大きく、二〇年にフランス共産党が成立しており、マルクス主義の書物を入手することは容易だった。周恩来は英語版の『共産党宣言』『空想から科学へ』『国家と革命』などをむさぼり読んで、共産主義への信念を固めた。日本留学時に初めてマルクス主義に接触し、五四運動の洗礼をうけ、半年の獄中生活、そして欧州での各種新思潮への接触──これら三年間の熟慮をへて決断をくだし、二一年に張申府夫婦の紹介で中国共産党に入党した。張申府は前北京大学講師であり、李大釗とともに中国共産党の創立に参加したあと渡欧し、連絡を担当していた。
中国留学生の一つの中心はモンタルジュという小都市であった。一四〇余の中国留学生のなかには蔡和森、李富春、李維漢、蔡暢などがモンタルジュ公学と同女子公学にいた。もう一つの中心は重工業都市クルーゾである。ここには趙世炎、鄧小平などがいて、鉄鋼会社で働いた。
一九二二年六月、欧州で中国人青年の間に共産主義組織・旅欧中国少年共産党が生まれ、第一回大会はパリ西部のブローニュの森でひらかれた。フランス、ドイツ、ベルギーから代表が出席し、周恩来はドイツからかけつけた。本部はパリ市ゴドフロワ街一七号の小さな旅館におかれた。二三年二月一七~二〇日には臨時大会をひらいて、旅欧中国共産主義青年団と改名し、共産主義思想を信ずること、本国の中国社会主義青年団を上部機関として認めることを決定している。機関誌『少年』は二二年八月一日に創刊され、のちに『赤光』と改名された。その印刷担当がガリ版博士鄧小平であった。
陳独秀は二二年六月三〇日にコミンテルンにあてた報告のなかで、当時の中国共産党員は一九五人、うち在ソ連八人、在ドイツ八人、在フランス二人と書いているが、彼ら党員が社会主義青年団を指導していた。
革命の地、広東へ
中国では国民党と共産党は国共合作をおこない、協力しあって地方軍閥と戦うために、北伐戦争をすすめようとしており、そのために大量の幹部を必要としていた。聶栄臻、李富春、鄧小平らはモスクワ東方大学で学んだのち帰国することになったが、周恩来は仲間とともに、二二歳から二六歳まで四年ちかくすごした欧州から帰国の途についた。母国では革命が彼を必要としていた。
一九二四年一一月、二六歳の周恩来は国民党が幹部養成のためにもうけた黄埔軍官学校(校長・蒋介石)の政治教官、政治部主任となった。軍官学校であるからむろん軍事を教えるが、国民党はこの学校を直接統制下におくために、ソ連赤軍にならって政治委員制をとった。あにはからんや、国民党ではなく、共産党がこの政治部を掌握することになる。周恩来は抜群の組織能力を発揮し、黄埔軍官学校の共産党員を四三人にふやし、その党支部を直接指導することになった。二五年八月、黄埔軍官学校は国民革命軍第一軍に改編され、九月周恩来は第一軍少将政治部主任兼第一師団党代表になり、二六年一月には第一軍副党代表となった(第一軍軍長は蒋介石、党代表は汪精衛兼任、第一師団師団長は何応欽)。
広東革命根拠地における周恩来の貢献は衆目の認めるところだ。中国共産党の三大武器は、統一戦線、武装闘争、党建設といわれる。ここで統一戦線とは、弱い共産党がさまざまの政治勢力を協力者として利用していくために考えた連合戦線のこと、武装闘争とは中国の革命運動が平和的、議会的道ではなく、武装した農民の勢力によって国民党の武装権力と対抗したこと、党建設とは共産党の理論工作と組織工作のこと、これらすべてにおいて周恩来は創意を働かせ、その後の中国共産党の発展にとって貴重な貢献をした。
3.二人の素顔
田舎っぺ毛沢東
毛沢東はなによりもまず農民の子であった。その生活習慣は後述のように、「田舎っぺ」(原文=土包子)くささがあふれていた。たとえば医者ぎらい、栄養剤ぎらい、質素な食事と衣生活などは毛沢東の青年時代からの信条を保持したものである。
権力をとってからも毛沢東の生活は非常に質素だった。毛沢東からもっとも愛されたボディガードの一人は李銀橋だが、彼の証言はたいへん興味ふかい。李銀橋は四七年春節すぎに周恩来のボディガードになったが、当時毛沢東のボディガードも欠員になったので、周恩来は毛沢東に回した。毛沢東は彼の性格が気にいり、六二年まで一五年間にわたって身辺の世話をさせた。李銀橋によれば、毛沢東は許可なしに新衣服をつくることを許さなかった。現に五三年から六二年末まで、毛沢東は新しい衣服をつくっていない。いつも水で顔を洗い、化粧石鹸は用いなかった。墨汁や油で手を汚したときは洗濯用石鹸で洗った。顔クリームなど化粧品も使わず、いや練り歯磨きさえ用いず、安価な粉歯磨きを用いていた。「練り歯磨きや、高級練り歯磨きに反対するわけではない。生産するのは用いるためだが、生産の必要のないものまで発展させるのか? むろん粉歯磨きは用いてよい。将来経済が発展したら、人々の生活水準が向上し、皆が高級練り歯磨きを用いるようになったら、私も用いる」と彼は説明した。
毛沢東の歯ブラシは豚毛がなくなるまで代えなかった。彼はずっと竹橋を使い、象牙の箸は使ったことがない。布団は普通の綿布と綿花でつくったもので、表も裏も白布、これを数十年来変えなかった。枕は蕎麦殼でつくり、やはり白布で包んであった。タオルケットや寝巻はつぎはぎだらけであった。北京入城の際も、葬式の際もそうだった。
彼の下着やパンツ、それに靴下もつぎはぎだらけであり、ちょっと不注意に足を伸ばすと靴下のつぎはぎがあらわれた。客をもてなすとき、李銀橋らはよくこう注意してやった。「家の恥を外に見せないようにしなくては」。
毛沢東は事務をとる場合、お茶なしではすまされなかった。飲み終えたあとの茶葉は指ですくって食べた。彼は雑穀が好きで、北京入城後も玄米飯をずっと食べた。中に粟や芋をまぜた。これは戦争時代の習慣だが、ずっと続けた。
毛沢東は通常は四菜一湯(料理四皿とスープ)であった。このうち一皿はかならず炒めた唐辛子であり、一皿はカビ豆腐である。スープは時には料理の残りに湯を注いだものであった。とはいえ、毛沢東が四菜一湯をとることはかならずしも多くはなく、勝手気ままだった。毛沢東は由来型にはまったことが大嫌いで、仕事を始めると時間の観念がなくなり、ただ空腹かどうかだけが基準となった。一日二食のときもあるし、一日一食さえあった。
家庭生活は恵まれなかった。最初の妻楊開慧は逮捕、銃殺され、二度目の妻賀子珍とは離婚した。三度目の妻江青との夫婦仲も睦まじいものではなく、事実上離婚した。
長男毛岸英は朝鮮戦争で犠牲になり、次男毛岸青は病弱、こうして毛沢東には後継ぎがないだけでなく、激務で疲れた神経を癒すべき暖かな家庭の団欒が欠けていた。この意味では、「革命」という神に献身する修道士のおもむきさえある。
独裁者というにはあまりにも質素な生活ぶりであった。身辺に心を明かすことのできる家族がおらず、ボディガードや看護婦らと心のうちをあかす会話をしている晩年の毛沢東は、むしろ痛々しい老人、孤独な皇帝であるにすぎない。
きたえぬかれた調整能力
周恩来は没落した官僚の末裔に生まれ、幼児のころから性格の異なる二人の母のもとで育ち、一〇歳前後からはもう「家長」(原文=当家人)の役割をはたさなければならなかった。親戚間の誕生や葬儀の挨拶や借金の依頼、贈り物儀礼など、大人でもてこずる仕事を切りもりしなければならなかった。こうして周恩来の人際間調整能力は幼児から鍛えられ、後年たぐい稀な調整能力を発揮する大政治家となった。「当家人」「管家」(管理人、執事の意)たるべく生まれたのが周恩来であった。
毛沢東は封建的、専制手と父親の支配のもとで反抗的な、「同の中に異を求める」性格を身につけた。しかし周恩来は幼児からの家庭環境のもとで、「異の中に同を求める」性格を身につけた。
周恩来と接触したことのある人々の多くは、温和、謙遜、平静、忍従などの言葉を用いて形容するが、これは勇断の欠如を意味しているわけではない。ただ周恩来は他の指導者と比べると、調和し妥協し、自己批判することが比較的多かった。これは彼の大局を識別する能力、融通無碍の弾力性とかかわっている。
一九二八年にモスクワでひらかれた第六回党大会から三五年一月の遵義会議まで、周恩来は全党工作の指導者、組織者であったにもかかわらず、ナンバーワンになろうとはしなかった。彼は権力による支配や高談よりも「具体的に実務を行うこと」を好み、また周恩来の能力と才知は、こうした形でこそ、最もよく発揮された、という見方があるが、これは周恩来の個性の特徴をよくとらえている。
周恩来は二つの勢力の闘争においては、調和的あるいは中庸の態度をとることが多かった。よく言えば民主的、寛容的だが、悪く言えば曖昧な態度となった。
周恩来は、毛沢東のように奔放な想像力を発揮することはなかった。周恩来が戦術における弾力性と戦略における原則性を特徴としたとすれば、毛沢東は事物の発展の趨勢に敏感であり、戦略の柔軟性を特徴としていた。
毛沢東は一方では伝統的なものを継承しつつ、他方で大胆な伝統破壊を行った。毛沢東は自信過剰のあまり、国家を一つの実験室に変えてしまい、ついには大きな悲劇をもたらした。これに対して周恩来は革命の秩序を改善するために、安定と協調を求めることにつとめた。
田舎っぺ毛沢東に対して、周恩来はどこまでもスマートであり、都会的であった。田舎っぺ毛沢東の強靱さと都会人周恩来の繊細さは好一対であった。
毛沢東の読書生活
毛沢東のほとんど唯一の趣味は読書であった。革命のつぎに精力をつぎこんだのが読書だといってよいほとだ。毛沢東の図書を管理する仕事に一九五〇年冬から六六年夏まで、十数年間にわたって従事したのは.先知である。運よく私は八七年九月一五日、来日した.先知一行と東京で会う機会があり、八八年夏の訪中で再会できた。.先知は山東人の大男、思わず、ノッポと私が嘆声を発したところ、毛沢東と会ったときの最初の会話が「君は山東人か」というものだったと往時を回想した。.先知は毛沢東の読書についてこう書いている。
毛沢東は幼年から読書を酷愛し、長ずるにしたがってその性癖はますます甚だしくなった。もっとも苦しかったゲリラ戦争の渦中においても読書を忘れず、陝北に落ちついてからは各種のルートを用いて国民党統治地区の書物新聞などを入手した。延安では彼の書物はしだいに増えて、図書管理を専門に行う者が必要となったほどである。
毛沢東は自分の書物を愛惜し、あるとき、誰かが亡くしたことにひどく腹をたて、しかもそのことをずっと覚えていた。四七年に延安を撤退するとき、他のものはどんどん捨てた。しかし書物は一部を埋蔵して隠し、書きこみをおこなった書物は苦心惨憺して北京まではこばせた。
全国解放後、毛沢東の読書条件は大いに改善された。.先知が管理を引きついでまもなく、毛沢東は解放前の商務印書館と中華書局が出版したすべての図書を入手するよう命じたが、無理な注文というもの、かなえられなかった。当時毛沢東の書物は書架一〇個分に満たなかった。十数年へて、.先知が離任したころは毛沢東の蔵書は数万冊に達し、比較的揃った、かつ毛沢東のニーズに適した個人蔵書室ができあがっていた。
毛沢東は無類の書痴であったが、外国文学作品は『椿姫』など少数の名著を除けば、ほとんどよまなかった。中国の現代文学もよまなかった。経済管理の書物、特に外国の社会化した大生産の管理に関わるものはなおさら少なかった。これは社会主義建設にとって大きなマイナスとなったと.先知はコメントしている。彼が愛読したのは中国の古典であり、晩年は特に『資治通鑑』であった。
毛沢東が読書に熱中して睡眠を忘れ、食事を忘れるのは日常茶飯事であった。毎日国事の処理に多忙であったが、彼の読書速度は速かった。なみはずれた精力と驚くべき記憶力に恵まれていた。仕事を始めるとよく徹夜したが、読書も同じく徹夜であった。彼は仕事以外のほとんどすべての時間を読書にもちいている。
4.二人の妻たち
封建的結婚制度への反発
毛沢東はスノウへの談話のなかで親の決定した最初の「妻」についてこう語っている。私が一四歳のとき、父母は私に二〇歳の娘を嫁にむかえたが、私は当時もその後も生活をともにしたことない。私は彼女を妻と認めなかった。『族譜』によれば、彼女は一八八九年九月二六日生まれの羅氏であり、一九〇八年一九歳で、一五歳の毛沢東に嫁ぎ、一九一〇年二一歳の若さで病死している。
一九一三年春、一九歳の毛沢東は長沙第一師範学校にはいった。この学校で毛沢東が師と仰いだのは、楊昌済教授であった。彼は日本、欧州留学から帰国し、哲学、とくに倫理学を講義した。『論語』に言及することが多かったので、学生たちは孔夫子とあだなして慕った。学識が深く、己を律すること厳しかったので、楊昌済はまるで学生からみて孔子の再来であった。
楊昌済が毛沢東に対して非常に深い影響をあたえたことはパウルセン著『倫理学原理』の上下余白に書きこんだ毛沢東の詳細な批注から知ることができる。これは楊昌済が倫理学のテキストとして選んだものであり、毛沢東はそれを血肉化するかのように熟読したあとをたどることができる。毛沢東は楊昌済というよき師を得て大の哲学好きになった。
一九一八年夏、楊昌済は北京大学にまねかれ一家は北京市地安門豆腐池胡同九号に転居した。九月毛沢東は北京に出て楊昌済の紹介で北京大学図書館のアルバイトをした。一九年一二月一八日、毛沢東は湖南の軍閥張敬堯追放代表団をひきいて二度目の上京。この時も毛沢東は楊昌済宅に居候するが、楊開慧との恋愛関係が進展した。
二〇年初め楊昌済が逝去すると楊開慧は父の棺とともに長沙に帰り、親友の父親の援助によって湘福女子中学に入学した。この冬、毛沢東は楊開慧と同居し、結婚を宣言した。これは花嫁衣装を着ることもなく、花かごに乗ることもない、両人の言葉によれば、俗人の挙を拒否した新スタイルの結婚であった。
当時の毛沢東の恋愛観、結婚観をしめす文章がある。「吾人の欲望は多種である。食欲、性欲、遊戯欲、名誉欲、権勢欲(支配欲ともいう)などである。各種欲望のうち食と性の二つが根本的欲望である。前者は現在を維持するもの、後者は将来を開発するものである。二つの欲望のうち、食欲には年齢差がなく、性欲には年齢差がある」「性欲の現れがすなわち恋愛である。……元来夫婦関係は完全に恋愛を中心とし、他はこれに従属すべきであるが、中国ではこの問題が脇におかれてきた」「子女の結婚に父母は絶対に干渉してはならない。子女の側はみずからの結婚に対する父母の干渉を絶対に拒絶すべきである。これをやりとげてこそ、資本主義的結婚を廃止し、恋愛中心主義の結婚を成立させ、真に恋愛の幸福を得た夫婦があらわれることができる」。毛沢東はこのころ親のきめた結婚を納得できず、自殺した女性の立場を弁護して「父母による結婚請負制を打破せよ」とよびかけていたが、この主張通りに楊開慧との結婚を実行した。
理想の妻、楊開慧
一九二一年秋、中共湘区委員会が成立してまもなく、楊開慧は入党し、毛沢東の活動を助けた。二一年八月毛沢東が湖南自修大学を始めると、彼女はこの仕事を手伝った。二二年毛沢東が湖南青年図書館を創立すると、楊開慧はこの図書館の責任者となって、館内の事務をとりしきった。二二年長男毛岸英(毛遠仁)が生まれ、翌年次男毛岸青(毛遠義)が生まれた。
二七年毛沢東一家は武昌に引っ越し、同年に三男毛岸立(毛遠智)が生まれた。二七年の大革命の失敗後、毛沢東一家は逃れて長沙に帰ったが、彼が秋収蜂起の準備をしている間、妻は子供を連れて長沙板倉の実家に戻った。これが二人の永別となった。三〇年八月紅軍が長沙を撤退すると湖南省清郷(郷土粛清の意)司令何鍵は楊開慧逮捕に壱千元の懸賞金をつけたからである。
彼女は三〇年一〇月に八歳の毛岸英とともに逮捕され、毛沢東との絶縁声明を強要されたが、きっぱり拒否して一一月四日に銃殺された。享年二九歳の若さであった。毛沢東は誇り高き妻を失った。
毛沢東にとって彼女は、革命の同志であるとともに理想の妻であった。解放後の五七年五月「我は驕り高き楊(開慧)をうしない、君は柳をうしなう」ではじまる詞をつくり、彼女の親友であった李淑一にあたえ、なつかしんだ。晩年には、生活秘書の張玉鳳や孟錦雲に楊開慧と同じ髪型をさせて楊開慧をしのんでいたという。
長征を歩いた賀子珍
二番目(形のうえでは三番目)の妻・賀子珍は毛沢東が最も苦しい時代に生活をともにし、六人の子供を生みおとし、ついにはモスクワの精神病院に閉じこめられるという辛酸をなめた。
彼女は実家が井岡山東麓の永新県にあった関係で二七年からゲリラに参加している。永新暴動から井岡山に撤退した共産党員の紅一点、最初の女兵士であった。二七年一〇月、毛沢東のひきいる秋収蜂起部隊が井岡山にはいった。二八年六月地主保安隊が懸賞金つきの毛沢東を襲った事件を目撃した一九歳の賀子珍は、勇敢な青年革命家毛沢東(当時三四歳)に一目ぼれした。
まもなく結婚して毛沢東の生活秘書、機要秘書をつとめるようになった。生活秘書とは身辺の雑事を処理するもの、機要秘書とは解放区の機要文件を保管したり、整理する仕事である。賀子珍はゲリラ戦士の活動に慣れており、毛沢東の身辺で雑事をつとめるのは不本意で、たびたび不満をもらした。
結婚前に毛沢東は妻(楊開慧)と三人の子供を実家に残してあること、久しく音信普通であり、生死も定かでないと説明した。二九年三月、紅軍が二度目に龍岩を攻撃したとき賀子珍は最初の女児を生んだ。その女児は一五元のお礼とともに人に預けられ、その後預けた女性を探したが、子供は死んだとのことだった。
三二年一一月賀子珍は福建省長汀の福音医院で男児を生み、二歳すぎまで手許で育てたが、長征に出発する際、ある家に預けたが、預け先がわからなくなった。第三の嬰児は毛毛が生まれてから一年も経たないうちに生まれた男児だが、育たなかった。
長征途中で賀子珍は第四の女児を生み落とした。オーバーで包み、四元をつけて土地の者に托し、賀子珍は担架に乗せられて長征をつづけた。この女児も行方不明となった。一九三六年賀子珍は保安で第五の女児を生んだ。四七年にソ連から帰国し毛沢東の身辺で暮らすようになったとき、(李)敏と名付けられた。
悲劇的結末
一九三八年一〇月、賀子珍は毛沢東の意見にさからってモスクワに行った。毛沢東の生活秘書の仕事に飽きたらず、彼女は独立して革命に献身できる仕事を模索しており、そのために知識を身につけることを望んだ。紅軍最初の女性兵士は主婦の座に甘んじることができなかったのである。
モスクワに着いてまもなく、賀子珍は第六の男児を生んだ。彼女は嬰児をあずけて東方大学に通った。毛岸英、毛岸青は上海の党組織によって継母より一足早くモスクワの国際児童院に預けられていた。母子四人(毛岸英、毛岸青、李敏)は毎日のように会った。
毛沢東は賀子珍に手紙をかいて直ちに帰国するよう求めたが、賀子珍は一端始めた学習をやめたくなかった。男児が一〇カ月のとき、風邪をこじらせて肺炎になって死んだ。賀子珍は悲痛のあまりヒステリーになった。このとき国際児童院の院長は精神分裂症のカルテをかいて、彼女をイワノフ市の精神病院にいれてしまった。こうして自立をめざした女性はついに鉄格子のなかに閉じこめられたのである。
一九四七年、王稼祥・朱仲麗夫妻が精神病院から出してやり、賀子珍は李敏、毛岸青を連れて九年ぶりに帰国した。賀子珍は、中国を離れて九年、国内の状況がよくわからないので、工作を通じて理解したい。ソ連での生活は長征のときよりも苦しかった、と毛沢東に手紙を書き、李敏の手紙も同封した。一カ月後毛沢東は警衛員をよこして子供たちをひきとりたいと提案し、賀子珍の同意をえて河北省西柏坡につれていった。
四九年に毛沢東が石家荘にうつった際に、賀子珍の実妹で毛沢覃未亡人の賀怡にこう話した。「あなたが賀子珍をここへつれてきなさい。これは歴史によってつくられた事実なのだから、やはり中国の古い伝統にしたがって処理しよう」と。毛沢東のいう古い伝統とは賀子珍との夫婦関係の回復のことだと賀怡は解釈した。ところが、賀怡がハルビンへ姉を迎えにいき、山海関駅につくと党の組織部を自称する者が二人の石家荘いりを妨害して南下させた。賀怡は江西に残した小毛を探しだしてから、賀子珍を毛沢東のもとに送ろうとしているうちに交通事故でとつぜん死亡し、賀子珍と毛沢東のパイプが切れてしまった。賀子珍の生涯を描いた『賀子珍的路』は、組織部門の横暴を非難しているが、真相はよくわからない。再会を妨害したのは江青であったかもしれない。
世紀の悪妻・江青
三番目の妻・江青は一九一四年生まれ、三〇年に済南で結婚しているが、数カ月で離婚。三一年に黄敬と結婚したが、黄敬が逮捕されて離婚。江青は上海へ行き、三六年評論家兼劇作家の唐納と結婚。唐納の自殺事件などのスキャンダルのあと、三七年八月下旬、延安にはいった。三八年一〇月に魯迅芸術学院が成立すると江青は演劇科で教壇にたった。一一月、毛沢東と結婚したが、このとき江青二四歳、毛沢東四五歳であった。
彼女は文革期に権力をふるうが、毛沢東の死後、死刑判決をうけ、投獄されること十余年、九一年五月に首吊り自殺した。毛沢東が世紀の英雄なら江青は世紀の悪妻である。毛沢東の晩年に妻としての家庭的な役割をはたさなかっただけでなく、毛沢東晩年の誤りを象徴する文化大革命の旗手としてきわめて評判が悪い。もっとも後者は毛沢東が彼女にその任務をあたえたのであるから、基本的には毛沢東の責任というべきであろう。
毛沢東が大衆から離れ、皇帝化するとともに、江青は悪妻度をつよめた。けれども結婚当時の毛沢東は、彼女が政治に口をはさむことを許さなかった。江青はもっぱら毛沢東の生活の世話をする役目であった。
若いときの彼女は美人で、肌が白く、両眼は生き生きしていた。化粧がうまく、大都市の香りのする瀟洒な雰囲気をもっていた。体つきはすんなりし、夏はレーニン服、冬は綿入れの軍服を着たが、ウェストラインはいつもはっきりしていた。上海から延安に突如あらわれた美人女優に毛沢東がフラフラとなったのも無理からぬところかもしれない。
江青は李訥を身ごもったあと、毛沢東が特に優しい態度をとらなかったことに傷ついた。毛沢東にとって女性が妊娠するのは当り前のこと。現に賀子珍との10年間に、子供を六人つくっている。こうした毛沢東の無関心に、江青はヒステリーをおこして湯呑みを投げつけたこともある。毛沢東はわびたが、話はこれで終わらなかった。
江青は李訥を生んだあと、授乳を拒否し、ミルクで育てた。「母親の容姿を保護するため」と江青は主張したが、毛沢東は母乳で育てるべきだと主張してケンカになった。しかし江青は自分の考えを押しとおした。二回目に妊娠したとき、彼女は人工流産して避妊手術をおこなった。「彼が私のことを心配してくれないから、私は自分で心配する」「赤ちゃんが太り母親がやせるなんて、私はいやよ」。これが江青の考え方であった。
土包子と洋包子
朝鮮戦争がおわったころのある日、毛沢東は連続数十時間働きつづけた。彼がこの二、三日きちんとした食事をとっていないことに、李銀橋が注意を喚起する。「そうか、少し腹がすいた。よし、メシにしよう」。「徐濤医師がかねてメニューを用意していますが、つくる機会がなくて……」と李銀橋。「医者のメニューなぞいらぬ。紅焼肉をくれ」。
李銀橋が厨房へ行こうとすると江青が自室から出てきて、主席は食事かと問う。李銀橋が紅焼肉を食べたがっていると説明すると、江青はこれを禁じ、鶏肉か魚料理をつくるよう命じた。江青はいくらか栄養学を研究しており、コレステロールがたまり、血管の硬化をもたらしやすいとの理由で反対したのであった。
さて食事になった。毛沢東はいつものように新聞をよみながら食卓についた。江青は魚を挟んで毛沢東の碗にいれてやった。毛沢東は新聞から目を離して食卓を眺め、紅焼肉は?とたずねる。李銀橋は答えられない。毛沢東が紅焼肉は?とくりかえしたずねる。江青はまるで知らぬふり。毛沢東が怒る。なぜつくらなかった? 命ぜられたことをなぜやらぬのか。江青はやはり沈黙。李銀橋はついに泣き出した。
その後、事情を悟ったらしく、毛沢東の就寝時に按摩する李銀橋にむかって静かに問う、いったいどうしたのかね。李銀橋が泣きながら事情を詳しく話す。当然、江青が毛沢東を田舎っぺ(原文=土包子)と罵倒したこともそのまま報告した。これを聞いた毛沢東、江青の言に反駁していわく、私はたしかに田舎っぺだよ。農民の子であり、農民の生活習性をもっている。彼女はハイカラさん(=洋包子)だ。同じものを食べられないのなら、食事を分けよう。今後は住む部屋、着る衣服、食べるものは私の習慣にあわせてやる。私のことは彼女にやらせない、こう決めよう!
以後、毛沢東は江青と別々に食事をとることになった。同じ食卓で食事するときも、銘々のものを食べた。毛沢東は江青の料理を食べようとはしなかった。ただ、江青は毛沢東の料理に時々箸をつけた。毛沢東は湖南人であり辛いもの大好き、辛いものを食べないと革命家になれないが口頭禅。そこで彼女はムリに毛沢東用の辛い料理を食べようとした。
江青はこうして毛沢東の生活秘書としての仕事が少なくなり、退屈してきた。それを見かねたのは、気配り周恩来である。五六年に周恩来が提起し、政治局常務委員が一致して賛成して、江青はようやく中共中央の任命する、五人の毛沢東付き機要秘書(他の四人は陳伯達、胡喬木、葉子竜、田家英)の仲間いりし、毛沢東の公務を手伝う機会をえた。これ以後、江青は政治に首を突っこむことになり、文化大革命においては実権派いじめに狂奔した。あとからみると、周恩来の気配りは裏目に出たのである。
離婚できない皇帝
毛沢東と江青がいつ別居したかについて明記した資料はないが、李銀橋によれば六二年ごろである。毛沢東夫妻は北京に移り住んで以来、起居の生活リズムが違うことから数週間、時には何カ月も顔を合わせないことが少なくなかった。毛沢東も初老であり、江青も更年期のため、五七年以後ヒステリー症状が激しくなった。こうして五九年には毛沢東は明らかに江青を避けるようになり、ついに別居するに至った。
七五年九月一五日、中共中央、国務院は農業問題の会議をひらいた。鄧小平は整頓を強調したが、江青は『水滸伝』批判に名を借りて周恩来、鄧小平を暗に攻撃した。江青がこの録音と講話記録の発表を要求したので、華国鋒が指示を求めたところ、毛沢東は講話も録音も発表してはならない、と指示した。このころ、毛沢東と江青の関係は極端に悪かった。毛沢東は身辺の者にこう一人ごちた。「庶民が離婚したいときは裁判所に行けばよいが、私はどこへ持ち込んだらいいのか」。
皇帝毛沢東はある意味では万能だが、実は自分の離婚さえ処理できない不自由さと背中合わせの絶大な権力なのであった。毛沢東はかつての同志たちを信頼できなくなり、江青に文化大革命の旗振り役を期待した。しかし、彼女は政治にはズブの素人であるから、むろん毛沢東の期待にこたえられない。毛沢東の耳には江青に対する悪口がしばしばきこえてくる。
とはいえ、林彪や陳伯達が追放されたいま、文革派は四人組(江青、王洪文、張春橋、姚文元)しかのこっていない。毛沢東が継続革命や文革精神の継承にこだわる以上、江青は処分できない。まして彼女は表向きはいぜん、主席夫人である。毛沢東崇拝が頂点にたっしているなかで、もし離婚でもしようものなら、「毛主席最新指示、離婚しない者は革命的でない」などというニセ指示が出回らないともかぎらない。私生活のトラブルとポスト毛沢東をめぐる権力闘争のはざまで、毛沢東は安らかな晩年をすごすことはとうていできなかった。皇帝の悩みにほかならない。
蛇足を一つ。『文化大革命』では女性秘書張玉鳳について「一部では愛人と見られている」と書いたが、その真相はあいまいである。彼女は毛沢東の寝室に自由に出入りできることから、このようなウワサが流れたわけだが、晩年の毛沢東は肉体的に著しく衰えていたこと、彼女自身がこのウワサに強く抗議していること、最晩年は張玉鳳と孟錦雲が交代で食事の世話などをしたこと、などの状況から考えて、ここでは愛人説に疑問を提起しておきたい。英雄、色を好む式からいえば、張玉鳳も孟錦雲も愛人にした方がおもしろいが、毛沢東は精力剤や栄養剤が嫌いであり、粗食であったことに注目したい。
周恩来・鄧穎超は模範夫婦
鄧穎超は一九〇四年二月四日生まれ、周恩来より六歳年下である。一九一九年の五四運動の際に二一歳の周恩来と一五歳の鄧穎超は初めて知り合った。二三年春、鄧穎超らは天津で『新民意報』と不定期の副刊『覚郵』を出していたが、『覚郵』一号に周恩来は鄧穎超宛ての手紙「独仏問題と革命」をかき、二号にも「西欧の赤い状況」「伍(周恩来の筆名)の誓詞」を書いている。この時期の手紙の往復を通じて、周恩来と鄧穎超の愛情関係が確定し、そのご周恩来に女性問題は皆無とみられている。
三〇数年後へてから、滞欧の初期に比較的接近したガールフレンドがいたことを明かしている。美人でしかも革命にもとても同情していた。私は革命に献身する決意をしたとき、革命家の終身の伴侶として彼女はふさわしくないと判断した、と周恩来はのちに説明している。
もう一つ。周恩来の落とし子騒動に触れておこう。一九五四年、周恩来はジュネーブ会議に出席するためヨーロッパを訪れたが、そのときあるドイツ人ジャーナリストが周と名乗る中国人学生がかつて下宿のメイドに男の子を生ませたことを突き止めた。周恩来の落とし子説は『シュテルン』に発表され、一時話題になったが、結局ゲッチンゲン市の戸籍係が下宿人の名と誕生日が周恩来のものと違っていることを確認してけりがついた。
周恩来があれだけハンサムでありながら、浮いた話がないことについて周恩来恐妻家説がある。鄧穎超のヤキモチをおそれたからだという。しかし、これはあまりあたっていないのではないか。周恩来の生き方は基本的にたいへん禁欲的であり、この態度は対女性関係にもあらわれているとみてよいとおもう。この点で堅物周恩来は奔放な毛沢東と対照的だ。
周恩来夫婦には実子がなかったが、そのかわりに革命の犠牲者の子女を、少なからず養子として育てた。その一人が李鵬である。モスクワ帰りの一介の技術屋が総理の地位までのぼりつめたのは、周恩来二世というコネを抜きにしては考えられない。彼の悪い評判は、周恩来の遺徳にとって減点とならざるをえない。
II 毛沢東神話の誕生
1 二人の出会い
農民のなかへ
前章では毛沢東、周恩来の入党までの話をした。初期の中国共産党はロシア革命を模倣して、都市の労働者を組織し、権力を奪取しようと試みた。このとき、弱体な共産党は国民党と国共合作をおこなうことによって革命をすすめようとしたが、二七年に蒋介石は上海クーデタをおこし、この都市革命路線は挫折した。都市での革命運動に限界を感じた毛沢東は、農民の大海原のなかに活路を見出し、「農村で都市を包囲する」戦略を模索しはじめ、まず江西省井岡山に最初の根拠地をつくった。
しかし、共産党内の主流派、あるいはモスクワ帰りの指導者たちは、いぜんロシア革命モデルに固執していたので、主流派と毛沢東との軋轢は深まった。主流派は毛沢東を指導部から排除したものの、敵の攻撃を撃退することに失敗し、根拠地を放棄し逃亡することを余儀なくされた。これが長征である。
敗走の途中で毛沢東が指導権を再び確保し、延安にたどりついた。そこで抗日戦争を戦うが、抗戦勝利後、延安放棄を余儀なくされる。彼らは陝北を転戦しつつ、優勢な国民党軍と戦いつつ、最後の勝利を獲得した。これが解放戦争である。
毛沢東はこの過程で名実ともに中国共産党のナンバーワンになった。周恩来は当初は毛沢東の上級でありながら、毛沢東の奪権闘争を助け、みずからはそれを補佐する役割に徹するようになった。どのような過程をへてそうなったのか。それをこの章であつかう。
南昌蜂起と秋収蜂起
一九二三年、孫文の了解にもとづいて、国共合作がおこなわれ、共産党は国民党の中に身を隠して勢力拡大につとめていた。国民党の内部で成長をつづける共産党の勢力に脅威を感じた蒋介石は、二七年四月上海でクーデタをおこない、共産党組織に壊滅的な打撃をあたえた。
この危機に直面して革命を救うため、二つの武装蜂起が計画された。一つは南昌蜂起、もう一つは秋収蜂起である。
南昌蜂起は二七年八月一日、周恩来、賀竜、葉挺、朱徳、劉伯承らが北伐軍三万余をひきいて決起した。南昌を占領したが、国民党部隊に包囲され、数日後に潮州、汕頭方面に敗走した。南昌蜂起は失敗したが、国民党部隊にむけた最初の銃声であり、象徴的な意味をもつ。そこで八月一日を建軍節すなわち解放軍の創立記念日としている。
秋収蜂起は九月九日、毛沢東らが農民を指導して湖南、江西省境で蜂起したものだが、蜂起軍は大きな敗北を喫した。そこで毛沢東は上級から指示された、湖南省省都長沙を攻略する計画を断念し、井岡山地区にたてこもり、中国最初の農村革命根拠地をきりひらいた。「農村で都市を包囲する」戦略は、ここにスタートした。これは都市の労働者に依拠するロシア革命モデルと対照的な戦略である。
翌二八年四月、朱徳、陳毅ら南昌蜂起組の部隊が井岡山にはいり、毛沢東の部隊と合体し、ゲリラ根拠地は一段と強化された。中国革命の実質は農村革命である、といわれるが、井岡山にともった小さな火が中国大陸をなめつくす燎原の火となった。とはいえ、その勝利までには、二二年間にわたる血で血を洗うゲリラ戦争が必要であった。
毛沢東はゲリラ戦を最初は『水滸伝』や太平天国軍の教訓などからまなんだといわれるが、のちにはクラウゼビッツの戦争論も研究している。井岡山時代にまとめたゲリラ戦のエッセンスは「敵が進めば、我は退く。敵が駐(とま)れば、我は擾(かくらん)する。敵が疲れれば、我は打つ。敵が退けば、我は追う」(原文=敵進我退、敵駐我擾、敵疲我打、敵退我追)もので、中国語一六文字からなる。日本のいろはカルタのように、毛沢東はこの一六文字で文字の読めない農民たちに戦術の極意をおしえたわけだ。
井岡山時代に毛沢東は農民軍の紀律をさだめている。行動は指揮にしたがう。労働者農民のものを奪わない。敵から奪ったものは一人占めせず、みんなのものにする。この三カ条であり、たいへん具体的でわかりやすい。これに六つの注意事項がつき、のちに「女性の前で体を洗わない」「捕虜の財布から奪わない」の二カ条がくわわり、四七年一〇月に「三大紀律八項注意」として集大成された。これがゲリラたちの倫理であり、この紀律のゆえに紅軍は民衆の支持をえることができた。
ゲリラ戦の要諦やきびしい軍紀律はたしかに戦争を勝利にみちびく原動力となった。だが、ここで得られた体験に戦争の終了後もこだわりすぎたことが、のちに毛沢東の悲劇につながることを思えば、まさに禍福はあざなえる縄のごとし、である。
最初の接触
一九二七年、秋収蜂起が失敗し、毛沢東が部隊をひきいて井岡山にのぼったとき、井岡山を根城にしていた緑林部隊(緑林とは山賊夜盗のこと)の袁文才と王佐に話をつけて、井岡山にはいることができた経緯がある。当時井岡山に住んでいたのは、二〇〇〇人足らずの客家であり、袁文才と王佐も客家であった。毛沢東はここで彼らと親しくつきあうようになり、二人はまもなく共産党に入党した。しかし、ここで江西省党内部における江西人(本籍)と客家(客藉)の対立が激しくなり、これはのちに富田事件の一因になる。
周恩来は南昌蜂起が失敗したあと、ひとまず広東経由で香港にのがれるが、ひそかに上海に潜入し、国民党の厳しい監視のもとで上海に事務所をおいていた党中央の仕事を処理する。上海と井岡山、離れた土地にいる二人の接触は、二九年二月、中央の周恩来からの書簡によってはじまる。このとき、周恩来三〇歳、五人の政治局常務委員の一人であり、党内序列はナンバー・ツーである。コミンテルン中央執行委員会の候補委員にも選ばれている。これに対して毛沢東は三五歳、ヒラの中央委員であるから、党内序列では二階級の差がついていた。
「中央二月来信」(一九二九年二月七日)を上海の周恩来が起草したのは、ゲリラ闘争を過小評価するコミンテルン流の認識をふまえて、朱徳、毛沢東に対して紅軍を離れ、上海の中共中央本部に移動するよう命ずるためであった。
そのころ毛沢東、朱徳、陳毅のひきいる紅四軍主力は、二九年一月一四日に国民党によって井岡山を追われ、江西・広東の省境を転戦していた。二月来信の書かれた二日後に、紅四軍主力は江西省瑞金北方で追撃部隊に大勝し、また吉安県東固地区で紅軍独立第二、第四団と会合し、自信を深めていた。転戦中のため、四月三日になってようやく、毛沢東らは周恩来が二カ月前に書いた指示をうけとった。
毛沢東は中央(周恩来)に宛てた報告のなかで、上海への移動反対の意をこう表明した。「中央来信は客観的情勢および主観的力量に対して余りにも悲観的な評価」である。朱徳、毛沢東が隊列を離れることは適当ではない。
ゲリラ優勢という情勢の変化を踏まえて、周恩来ら上海中央の認識も変化し、四月八日に周恩来は先の二月指示をとり消す手紙を書いて、この問題は沙汰止みになった。ただし、この時点で周恩来はまだ毛沢東の返信をうけとっていなかった。機敏な周恩来はみずから方針を転換したのであった。要するに、ゲリラ闘争の現場を知らない周恩来がコミンテルンの方針を根拠に、現場の指導者毛沢東らに誤った「指示」をあたえるという形でのやりとりが、二人の最初の接触となったのである。
李立三路線との対立
二九年五月、ソ連から帰国した劉安恭が紅四軍の臨時軍委書記兼政治部主任になるや、ゲリラの意義づけの面で考え方のことなる毛沢東は紅四軍の指導部を外され、福建省西部で病を養うことになった。ゲリラ闘争の行方は危機に陥った。
この危機を打開するため、六月一二日の政治局会議で周恩来は軍事会議の開催を提案した。これにもとづいて、八月下旬陳毅が井岡山を下りて、上海に到着し、周恩来、李立三、陳毅が紅四軍工作に対する指示文件をつくった。キメ細かな周恩来の指示をふまえて陳毅が起草したのが「中共中央の紅四軍前委に宛てた指示信」(九月二八日)である。この指示信を陳毅が根拠地にもちかえり、一一月二六日、毛沢東はようやく紅四軍指導部に復帰することができた。
コミンテルンはいぜん根拠地の事情を理解するにいたっていない。そこで三〇年三月、周恩来はコミンテルンとの意見調整のためにモスクワに赴いた(八月末帰国)。周恩来の留守に一つのあやまちがおこった。留守を預かった李立三が中共中央の意思決定を行うことになり、長沙攻撃という冒険主義路線が採択された。すなわち六月一一日政治局は李立三の報告「新たな革命の高潮と一省あるいは数省の首先勝利」を採択し、ここから暴走がはじまった。
李立三路線、あるいは中央の指示に忠実な王懐を指導者とする本籍人(江西人)の党員たちと、毛沢東らに忠実な元山賊袁文才、王佐らの抗争の中で、矛盾が爆発した。毛沢東、朱徳などが紅四軍をひきいてカン南、ビン西に遠征した間隙に乗じて、王懐らは留守をあずかっていた彭徳懐軍の力を借りて、袁文才と王佐を殺害してしまった。三〇年初めのことである。彼らが再び山賊に戻ったからというのがその理由とされたが、むろん口実にすぎなかった。
富田事件の大粛清
王懐ら江西人グループと客家および毛沢東との反目は、つぎのラウンドにもちこされた。強力な毛沢東派に対抗するため、王懐らは李文林を指導者とする東固、興国地区の党と手を結んだ。こうして江西根拠地の指導権をめぐる毛沢東と王懐、李文林らの対立が激化した。
ついに三〇年一二月七日、毛沢東は総前敵委員会(書記毛沢東)の名で李韶九(中国労農革命委員会特派員)を派遣し、江西省の党機関、ソビエト機関を包囲し、七〇余名をAB団(アンチ・ボリシェビキ団)反革命分子の嫌疑で逮捕するという先制攻撃に出た。
これに対して第二〇軍の一コ大隊が反乱を起こし、逆に易爾士(中央特派員)、劉鉄超(二〇軍軍長)、李韶九らを逮捕した。反乱はほぼ二〇日間つづいた。この反乱を毛沢東指導下の総前敵委員会と第一方面軍が鎮圧し、逮捕者四〇〇〇人以上、処刑者二〇〇〇人以上という大粛清事件に発展した。
富田事件の底流は、毛沢東路線と、李立三路線を推進する江西省土着幹部との対立である。四中全会で李立三に代わって中央の実権を掌握した王明などコミンテルン派は、富田事件を反革命暴動と断定した毛沢東派の行動を是認しつつ、粛清をさらに進め、ついには江西省土着の幹部のほとんどを処刑あるいは降格処分にしてしまった。王明らは江西地方党部=AB団(国民党の別働隊、特務組織)=李立三路線==陳独秀・トロツキー派、という壮大な粛清の公式を発明し、江西根拠地のみならず、すべての革命根拠地における粛清運動に適用した。王明らモスクワ帰りの若手指導者にとって、現地の紛糾はみずからの勢力拡大の絶好のチャンスであった。スターリンの茶坊主はこうして、中国革命の現場を掌握しようとしていた。まもなくビン西、海南島、湘鄂コウ、洪湖、川北などの根拠地において、トロツキー派あるいは陳独秀トロツキー派として多くの革命家が粛清されていった。
周恩来、革命根拠地へ
周恩来は三一年一二月上旬に上海を離れ、一二月末に中央革命根拠地(中央ソビエト区)の中心瑞金に着いた。二七年以来四年間にわたる「白区」とよばれた国民党統治下における地下闘争の生活(この間、二回のソ連訪問を含む)はこれで終わった。時に周恩来三三歳であった。早速、現場の毛沢東、朱徳ら、そして一足先に着いていた任弼時、項英、王稼祥らと会い、中共ソビエト区中央局書記に就任した。
一方、周恩来をむかえた中央ソビエト区では三一年春から夏にかけて、毛沢東、朱徳らが、敵を深く引きずりこむ方針で蒋介石の第二、第三次包囲討伐を撃退することに成功していた。
これについて上海の臨時中央は、九月一日付指示書簡をソビエト区中央局と紅軍総前委へ宛てて「偉大な成功」と讃えたものの、土地問題などについては否定的態度をとり、紅軍にはゲリラ主義を放棄するよう求めていた。また土地革命においては「地主には土地を分けるな、富農には悪い土地を分けよ」という階級路線を指示していた。
一一月一~五日、中央の指示信を貫徹するため、江西省瑞金でソビエト区党第一次代表大会(コウ南会議)がひらかれた。毛沢東の主張は「狭い経験論」「富農路線」「右傾日和見主義」だとしりぞけられ、王明の極左進攻路線が採択された。ここで第一方面軍総司令、総政治委員のポストを廃止したため、毛沢東は中央ソビエト区紅軍における指導的地位を失った。
上海の臨時中央は三二年五月二〇日、ソビエト区中央局に宛てた指示電報のなかで、再び毛沢東戦略を批判しただけでなく、解放区に来たばかりの周恩来をも批判した。いわく、「周恩来同志はソビエト区に来ていらい一部の誤りは是正したが、一切の工作を徹底的に変える工作はまだ成果をあげていない」。このように臨時中央は再三再四、ソビエト区中央局が進攻路線、極左路線を推進するよう圧力をかけていた。
王明と毛沢東の対立は、いまや戦略レベルの論争から、紅軍の行動方針にまで発展していた。ソビエト区中央局は毛沢東の建議を容れて、コウ江東岸から北上して、楽安・永豊・宜黄の敵を一掃することを決め、毛沢東を紅一方面軍総政治委員に決定した。前方では周恩来を主席とし、毛沢東、朱徳、王稼祥を加えた「最高軍事会議」をつくり、前方の一切の軍事行動を指導することにした。
周恩来、毛沢東、朱徳、王稼祥らは八月一七日から二二日に楽安・宜黄・南豊の三都市を占領し、五千余の部隊を殲滅し、撫州・南昌・樟樹の国民党軍をふるいあがらせた。国民党軍は直ちに南城に一七コ連隊を集中し、砦を固めた。ここで南城攻略の是非問題をめぐって前方と後方との摩擦が表面化した。
紅一方面軍は八月二四日南城へ向けて出発したが、南城側が守りを固めたことを知るや、攻略中止の判断をくだし、周恩来がその旨、後方のソビエト区中央局宛書簡をかいた。しかし、中央局は前方の中止方針に同意しなかった。そこで前方はやむなく九月二六日朱徳総司令、毛沢東総政委の名で「訓令」を出し、毛沢東の戦略にしたがって行動を展開しようとした。後方中央局はこれに反対し、行動の一時停止を求め、前方と後方が真向から対立したため、調整が不可避となった。
2 遵義会議での逆転
ナゾの寧都会議
三二年一〇月三~八日寧都会議、すなわちソビエト区中央局全体会議がひらかれた。出席者は後方から来た任弼時、項英、顧作霖、トウ発と、前方の周恩来、毛沢東、朱徳、王稼祥の計八人のソビエト区中央局メンバーであり、周恩来が主宰した。
この会議については「ソビエト区中央局寧都会議経過簡報」が残されているのみで、ナゾが多かった。そのため、この間の周恩来と毛沢東の関係についてさまざまの憶測がおこなわれてきた。もっとも流布されたのは、この会議で周恩来が毛沢東を排斥したという解釈である。毛沢東と周恩来の関係を主題とする本書は、その真相を追求しないわけにはいくまい。
新資料によると寧都会議の争点はつぎのようなものである。
.州攻撃問題。
寧都会議前の八カ月、すなわち三二年二月にソビエト区中央局は、中央の提起した進攻路線を執行し、紅一方面軍主力にコウ州を攻略させたが、毛沢東はこの作戦に当初から反対していた。その後前線紅軍が敗北したのを知るや病をおして前線に赴き、紅五軍団の起用を建議し、紅軍主力を安全に撤退させた。寧都会議でこの問題を討論したさい、毛沢東は.州攻撃を行うべきではなかったとくりかえした。後方の中央局側は.州攻撃は必要であり、攻撃失敗の責任は毛沢東らが進攻路線を執行しなかったことにあると断じた。
.州攻撃問題の評価。
.州の役が終わってまもなく、毛沢東は紅軍東路軍を指揮して.州を攻撃し、蒋介石の侵攻配置を攪乱し、大量の資金や物資を奪うことに成功した。しかし中央は、大衆工作を十分行わず、一切の注意を資金奪取に向けた、と毛沢東を批判したため、寧都会議ではこの戦術の当否も議論になった。
発展戦略問題。
毛沢東は三月中旬にソビエト区中央局会議で、敵強く、我弱しという認識のもとで、準備を中心とすべしと主張したが、これは、敵の侵攻を待つ後向きの作戦と非難された。周恩来は毛沢東の、準備を中心とする考え方については、穏やかに批判しつつも、後方(中央)の同志たちと違って毛沢東に対する過度の批判にもくみしなかった。
周恩来は、毛沢東の積年の経験は作戦にむいており、彼の興味も戦争にあるとの理由から、毛沢東を前方にとどまらせよと主張した。そして1)周恩来が戦争指揮に全責任をおい、毛沢東が補佐として前方にとどまるか、2)毛沢東が戦争指揮に全責任をおい、周恩来が行動方針の監督に全責任をおう、という二案を出した。
会議は結局、周恩来の1)案を採択したものの、毛沢東は病気を理由に後方にもどった。寧都会議の数日後、ソビエト区中央局は王明ら臨時中央の指示にもとづいて会議の決定を変更し、毛沢東に後方で中央臨時政府の工作をさせると決定し、周恩来の紅一方面軍政治委員兼任を命じ、毛沢東はこのポストを奪われた。
一一月の「軍事路線についてのソビエト区中央局への指示」は、毛沢東の戦略を純粋防御路線と批判し、その追随者たちを排斥し打撃をあたえたが、そのなかには若き日の鄧小平や弟毛沢覃などが含まれている。毛沢東は福音医院に幽閉される形となった。
調和主義者への批判
三二年一一月一二日、任弼時ら後方中央局側は、上海の臨時中央に宛てて電報を打ったが、この電報の中で、1)周恩来は「前方同志の待機主義」すなわち毛沢東の誤りと同じく、中央(王明)の積極進攻路線に賛成していない。2)周恩来は毛沢東を掩護している。3)周恩来報告は調和主義だ、と批判されている。「これは周恩来の最大の弱点である。弱点を理解し克服しなければならない」。
周恩来はかつて、李立三に対して調和主義の誤りを犯した、と批判された。今回は毛沢東処分において同じ誤りを犯したと王明らから批判された。調和主義の用語が適当かどうかは別として、これは周恩来の行動パターンのある側面をよくしめしている。のちに「まるめこみ屋」と罵倒されたのもほぼ同じ意味だ。
周恩来は臨時中央にあてて抗弁した。1)毛沢東に対して温和な態度をとったが、これは調和主義ではない。2)後方の同志が毛沢東に対して過度の批判をおこなったのは事実に反する。3)毛沢東を前方にとどめるのは、毛沢東の経験が作戦に適しており、戦争に有利であるからだ。
王明らの臨時中央は三三年初め、国民党によって上海を追われ、中央ソビエト区に移ったが、それによって王明極左路線(進攻路線)はますますひどくなった。三三年六月上旬、博古は寧都で中共中央局会議(第二次寧都会議)をひらいた。毛沢東はこれに出席し、第一次寧都会議の処分の誤りを主張したが、博古らはしりぞけて、毛沢東への批判をいっそうつよめた。毛沢東はふたたび病にたおれた。
遵義会議での復活
ゲリラの根拠地はもともと毛沢東たちがきり開いたものである。あとから根拠地にやってきたモスクワ帰りの指導者たちが、コミンテルンの権威を傘にきて現場の実情にあわない命令をくだすなかで、戦闘は敗北をくりかえした。ついに国民党の包囲討伐を撃退できなくなった。
いまや江西ソビエトを捨てて、他の根拠地へ逃亡することを余儀なくされた。西をめざしたので当時は西征とよばれたが、のちに長征の名に統一された。毛沢東は反撃の機会をうかがいながら、長征の隊列に加わった。
長征の過程で毛沢東が党内の指導権を握ったのが、遵義会議であることはよく知られている。遵義会議以後、毛沢東はその死去まで中共中央の権力をにぎりつづけたのであるから、この会議の重要性は明らかである。
この貴州省遵義への道を『周恩来伝』はこう描いている。
「貴州の天気はよく“天に三日晴れなし”といわれる。遵義へ進軍する途中、いつも小雨が降り続き、道はぬかるみ、非常に歩きにくかった。周恩来は皆と同様、手に杖をもち、びしょ濡れの衣服を着て、雨を冒して行軍した。ここの地勢は起伏が激しく、坂を越えるとまた坂がつづいていた。下り坂の時に、ちょっと不注意だと滑って転び、人々はみな泥まみれになった」。
こうした難行苦行の挙句、三五年一月七日、紅軍は貴州省第二の都市・遵義を占領した。遵義会議は三五年一月一五~一七日に行われた。なぜ敵の攻撃を撃退できなかったのか、その指揮の誤りを総括することが会議の目的であった。まずモスクワ帰りの博古(秦邦憲)が基調報告し、包囲討伐を粉砕できなかった客観的原因を強調することによって、みずからの指揮の誤りを隠そうとした。周恩来は副報告を行い、反包囲討伐が失敗した主な原因は軍事指導における戦略戦術の誤りにあると自己批判しつつ、博古、ブラウン(コミンテルンから派遣されたドイツ人軍事顧問)を批判した。
両報告のあと張聞天が、毛沢東、王稼祥と共同で起草した極左軍事路線に反対する報告を行った。つづいて毛沢東が長い発言で軍事路線の誤りの核心を剔抉し、革命戦争の戦略問題を論じ、今後の方向を提起した。王稼祥、朱徳、周恩来、李富春、聶栄臻らも相ついで発言し、毛沢東の主張を支持した。
陳雲が遵義会議の伝達のために当時かいたメモによれば、この会議において「周恩来とその他の同志は張聞天、毛沢東、王稼祥の提綱と意見に完全に同意したが、博古は自己の誤りを完全には認めなかった。ブラウンは自らへの批判について断固として反対した」。
会議の結論はこうであった。
1)毛沢東を政治局常務委員に選ぶ(毛沢東は三〇年の六期三中全会で候補になり、三四年の六期五中全会で政治局委員になっていた。遵義会議当時の常務委員は、博古、張聞天、周恩来、項英の四人である)
2)張聞天が決議を起草し、常務委員の審査を経て、討論のために支部に発出する。
3)常務委員の職掌分担をあらためる。
4)博古、ブラウン、周恩来の三人組による指揮体制をやめる。最高軍事首長朱徳、周恩来を軍事指揮者とし、周恩来は軍事指揮の最終的意思決定責任者とする。
会議のあと、常務委員会議をひらき、毛沢東を周恩来の軍事指揮上の「幇助者」に決定した。
毛と周の立場逆転
遵義会議の関連資料をよむと以上のようなことがわかるが、周恩来はどのように誤りを認識し、自己批判し、毛沢東の側に転じたのか。
周恩来が長征の過程で軍事指揮の誤りを痛感するようになったのは、湘江戦役(三四年一一月下旬)で部隊の半分をうしない、隊列が三万余に急減したときである。このあと、一二月一一日に湖南省通道で、一八日貴州省黎平で、つづいて三五年一月一日貴州省烏江南岸の猴場で紅軍の進撃というよりも逃亡の方向をきめるための現場会議をそのつどひらいている。これらの会議における毛沢東の主張の妥当性を張聞天、王稼祥らとともに周恩来もみとめるようになったようである。
当時、周恩来の党および紅軍における地位は、顧問ブラウンをのぞけば、博古、張聞天につぐナンバースリーであり、声望からいえば両者に並んでいた。こうした地位からして、周恩来が事実上、会議の進行をつとめることになった。周恩来はみずから切りもりした会議で博古の戦術の誤りを批判し、みずからがこれに追随したことを自己批判し、毛沢東を指導部の一員に引きあげたのであった。
しかしこの時点では、博古の総責任者としての地位を解任するには至らず、軍事指導権と指揮権についてのみ周恩来が博古に代替するにとどめた。毛沢東はここで周恩来を補佐する役割をあたえられたにとどまる。
そして会議後、三省の交界(四川、貴州、雲南)で、総責任者の地位から博古がおりたので張聞天がこれに代わり、さらに張聞天の提案にもとづいて毛沢東、周恩来、王稼祥からなる三人組が軍事指揮の全権をもつようにきめた。ここで初めて毛沢東と周恩来の間で、主役と補佐の関係が名実ともに逆転した。
このようにみてくると周恩来の決定的役割が浮かびあがってくる。もし周恩来が博古、ブラウンとの三人組に固執し、コミンテルンの権威を利用して、毛沢東の挑戦に対抗したとすれば、毛沢東の奪権闘争はきわめて困難になり、紅軍は誤った指揮にもとづいて全滅していた可能性がある。
この決定的な舞台回しについて周恩来はのちにこう述べている。「毛主席の指導的地位は水到りて渠成る、である。千軍万馬のなかで毛主席の指導が正確であることは事実が証明している」。また「毛主席が航路を変えたので、中国革命は嵐のなかで危険からのがれ、敗北を勝利に転ずることができた」とも述べている。
長征、苦難の道
三五年一〇月一九日、紅軍は呉起鎮に着いて陝甘解放区の人々の熱い歓迎をうけ、二・五万キロの長征が終わった。この長征のきびしさについては、様々のエピソードが残っている。
長征が始まると、妻鄧穎超は肺結核で吐血したため、休養中隊に編入され、周恩来と別の行軍になった。毛沢東、周恩来が休養中隊とすれ違うとき、人々は「毛さんとヒゲさんがやってくる」と叫ぶのが常だった。周恩来は当時アゴヒゲを伸ばしていたため、ヒゲさん(胡公)とよばれていた。周恩来は鄧穎超のもとに近づき、二言、三言話すだけで立ちさった。あるとき国民党飛行機の爆撃によって休養中隊から十数人の死傷者が出た。周恩来は真夜中にかけつけたが、数分間話しただけでたちさった。
三五年八月、周恩来の病気が重くなり、ようやく鄧穎超がむかえに来た。周恩来は意識不明で木板のベッドに寝かされていた。鄧穎超は地面に稲藁を敷いて寝た。彼女が周恩来の脱いだ羊毛のチョッキを見てみると、いるわいるわ、なんと一七〇匹のシラミがいた。鄧穎超の指の爪は、マニキュアでもつけたように真っ赤になったという。
毛沢東は長征のとき、便秘に悩まされた。不規則なかつ乏しい食事のため、一週間も大便のないことさえあった。そこで毛沢東が大便に成功したニュースに三軍が歓呼し、水を酒の代わりにして乾杯したことさえあった。
衛士李銀橋は、陝北転戦期に毛沢東の用便のために、よく穴掘りを命じられた。「主席、どうして便所に行かないのですか」「くさいのが嫌いだ。脳味噌によくない」と毛沢東の答え。「でも、農民と世間話をするとき、糞を砕いて、その手をポンとたたいて、煙草をすってるじゃありませんか」と李銀橋がいぶかる。「あれはあれ、これはこれだ」と毛沢東。「ところで、君はいつモノを考えるかね」と毛沢東が問う。「ベッドの上で」と答えると、「教えてやろう。用便のときこそ、いい考えが浮かぶのだ。便所があんなにくさくて、いい考えが浮かぶかね」。
北京への進駐後、野糞ができなくなり、李銀橋は穴掘りの仕事がなくなった。その代わりに毛沢東に浣腸を施すことが李銀橋の大事な仕事の一つになり、五九年まで続いた。その頃になると、毛沢東の食事が改善され、便秘が治り、浣腸の仕事がなくなったからである。
長征をモーゼの出エジプトにたとえた論者がある。その当否は別として、この旅が想像を絶する苦難の旅であったことは容易に想像できる。たとえば、食べるものがなくなり、ついに荒れ寺の破れ太鼓の皮を煮こんで食べた話などは、その一例であろう。廖承志はのちに、あれはほんとうに美味しくなかったと述懐した。四つ足のものならテーブル以外はすべて、空を飛ぶものは飛行機以外はすべて食べるのが中国人流の食生活といわれるが、長征の猛者も太鼓の皮だけは、敬遠したらしい。
3、毛主席の登場
国共内戦の開始
一九四五年、日中戦争がおわった。まもなく抗日統一戦線はやぶれ、共産党軍と国民党軍との間に内戦が再開された。四六年六月、国民党軍が解放区に対する攻撃をはじめ、国共内戦がはじまった。約一年ちかくかけておこなわれた周恩来・マーシャル会談も四六年末には物別れにおわった。
四七年三月、国民党軍は延安にせまった。三月八日延安の一万余の軍民が宝塔山下の商会大会場で解放区防衛の動員大会にあつまった。その時、周恩来は政治、軍事、経済の各方面から蒋介石政府の現状を分析したあと、こうむすんだ。「われわれには毛主席の直接指導があり、かならず勝ち戦さができる。延安を防衛せよ、毛主席を防衛せよ!」ここには毛沢東神話の成立において周恩来のはたした役割の一端が浮き彫りにされている。
三月一二日、延安上空に国民党軍に雇われたアメリカ製爆撃機があらわれ、解放軍総部ちかくに大型爆弾を落としたが、そのとき毛沢東、周恩来、彭徳懐は軍用地図をひらいて、迎撃作戦を検討していた。この日、朱徳、任弼時、葉剣英は一部の機関要員とともに瓦窰堡に移転した。毛沢東、周恩来は延安にとどまったが、棗園後溝から王家坪におかれていた解放軍総部に移動した。
三月一三日払暁、国民党軍胡宗南の一四旅団は宜川、洛川から延安にむかって猛攻撃をはじめた。彭徳懐が毛沢東に延安を撤退するようすすめたところ、彼はこう答えた。「私は最後に延安を撤退しよう。胡宗南の兵隊どもがどんな具合なのか、この目で見たいからね」。
三月一八日夕刻、毛沢東と周恩来が第二縦隊司令員王震と話しているときに、東南方向じ大きな銃声がきこえ、国民党軍の先頭部隊が呉家棗園まで進撃したことがわかった。機関も、群衆もすべて撤退したことを確認するや、毛沢東はわざとゆっくり食事をして、それからジープに乗った。「同志諸君、さあ乗ろう! われわれはかならずもどってくる!」。マッカーサー流にいえば、アイ・シャル・リターンといったところか。マッカーサーはあえて一人称を主語にしたが、毛沢東のばあいは「われわれ」である。
延安を撤退して五日目に毛沢東らは瓦窰堡につき、一休みした。三月二五日昼すぎ、青化ヘンで国民党軍四〇〇〇人殲滅の勝報に接した。つづいて四月一四日羊馬河戦役、五月二~四日蟠竜戦役でいずれも勝利した。
綏徳城南の棗林溝で党中央は重要会議をひらき、毛沢東、周恩来、朱徳、劉少奇、任弼時ら書記五人の責任分担をきめた。毛沢東が全国の軍事指揮に責任をおい、周恩来がこれを補佐することになった。朱徳は党の監察工作、劉少奇は党務と白区工作、任弼時が土地改革に、それぞれ責任をおうことになった。
毛沢東はここで胡宗南の軍隊二五万を翻弄させていただけではない。遼瀋戦役(四八年九~一一月)のために、電報を少なくとも七七通かいて、戦術を指示していた。毛沢東は周恩来の協力を得て、全国の解放戦争を指揮したのであり、両者の緊密な協力は四七~四九年の解放戦争の全過程を通じて貫徹された。
中国に毛沢東があらわれた
一九四七年八月一八日のこと、かさねての敗北に激怒した劉戡は、七個旅団をひきいて毛沢東ら中央機関の数百人を追撃し、綏徳、米脂を経て、葭県(佳県)でついに黄河河岸まで追いつめた。大雨が続き、黄河は増水していた。前方には濁流渦巻く黄河、後方からは国民党軍の追撃、毛沢東、周恩来らは進退きわまった。兵力は警衛中隊約一〇〇余人、敵軍は数万人。黄河を渡河すべきか否か。
毛沢東は沈鬱な顔で二本指を突出し、煙草を吸う手つきをして、「煙草をくれ」と重い口をひらいた。衛士たちには準備がない。あちこち物色したあげく、ようやく馬丁の侯が油紙に包んで大切にしまっておいたものを分けてもらった。毛沢東はその一服を深々とすう。中央縦隊数百人の命運は、その紫煙の行方のごとくである。
銃声はますます激しくなる。毛沢東は吸殻をすてると、きっぱり断じた。「黄河は渡らない!」 そして敵軍数万の銃口の前をゆっくり歩きだした。毛沢東は黄河を渡るのは北京入城のとき、と腹にきめたのであろう。東北の戦局が流動的な状況のもとで、司令部が敗走をはじめたのでは総くずれになる。ここは大バクチを打って、強気のパフォーマンスが必要であったとおもわれる。なによりも味方を勇気づけるために。
奇蹟が起こったのは、そのときだ。数万の敵軍は突然射撃を停止し,追撃を止めた。国民党軍が毛沢東、周恩来らをここまで追いつめながら、なぜ殲滅の機会を逸したのか、よくわからない。毛沢東は丘を上り、白竜廟で一休みし、一息つくと突然京劇「空城計」をうなった。丘をのぼる毛沢東の後姿を見つめながら、任弼時が感慨深げにつぶやいた。「中国に毛沢東があらわれた」。毛沢東讃歌「東方紅」の歌詞はこうである。
「東は赤い。太陽が昇る。中国に毛沢東があらわれた。彼は人民のために幸福を謀る。彼は人民の救いの星だ」。革命歌「インタナショナル」の中国語訳には「この世に救世主はいない」という一句がある。この歌を歌いながら革命をすすめてきた隊列のなかから、「毛沢東は救いの星」という歌がこだまするようになったのは、このときである。
毛沢東は下戸だった
四七年八月一八~二〇日、西北戦局に決定的な転換をもたらす沙河店戦役が戦われた。毛沢東は周恩来の協力のもとに作戦を練り、西北野戦軍司令彭徳懐に届けた。この三日二夜、毛沢東は部屋を出ず、便所に行かず、ベッドに寝なかった。茶はよく飲んだ。茶葉には三回湯を注ぎ、最後には茶葉を食べた。この習慣は若いときからのもので、終生変わらなかった。小便は便器を用いておこない、李銀橋がそれをすてた。
毛沢東は下戸であり、葡萄酒を一杯飲んだだけで、顔が真っ赤になった。そこでほとんど飲む機会がなかったが、例外があった。それは睡眠薬がきれたとき、戦闘指揮や執筆のために数晩徹夜するときであった。沙河店戦役のさいに睡眠薬がきれたので、衛士は酒を用意した。
酒を求める毛沢東に李銀橋が答える。「どんな酒がよいですか。白酒(ルビ・バイチウ)はどうですか」。「白酒はいやだ。敵の鍾松将軍は、それほど辛くない」。「では葡萄酒は?」。毛沢東はかぶりをふり、「今回は敵は十数万、葡萄酒みたいに弱くはない。容易ないくさじゃない。……ウム、ブランデーはあるかね」。「あります。外国ものです」と李銀橋。
結局、毛沢東は煙草を五箱すい、茶を数十杯のみ、彭徳懐に命じて鍾松の三六個師団を殲滅させ、六〇〇〇人を捕虜にとる戦闘を指揮した。戦闘が勝利におわるや、毛沢東は彭徳懐のために「誰敢横刀立馬、唯我彭大将軍」(誰か敢えて刀を横たえ馬を立てん、ただわが彭大将軍あるのみ)の一二字をかいて、武功をたたえた。
この詩の前半は「山高路遠坑深、大軍縦横馳奔」(山高く路遠く坑深く、大軍は縦横に馳せ奔る」であり、元来は一九三五年九月、彭徳懐が岷山蝋子口の敵軍一個旅団を撃破し、紅軍長征の最後の壁を突破したとき、彭徳懐をたたえてつくったものである。
彭徳懐は長征と、延安防衛戦でかさねて大活躍し、毛沢東はこれを激賞したのであった。このような経緯があったからこそ、彭徳懐は建国後も毛沢東を対等に同志としてつきあう態度を保ち、「主席」とよびかけることをしなかった。遠慮なしに毛沢東に直言し、後に五九年の廬山会議で激突することになる。
黄河を越える
一九四八年三月二三日、毛沢東ら中央機関はついに黄河を渡った。岸辺には十数艘の木槽船が並んだが、毛沢東は最初の船に乗り、周恩来、任弼時が第二の船、陸定一と胡喬木らが第三の船に乗りこんだ。上機嫌の毛沢東は上流を眺めながら一人口ずさんだ。「君見ずや黄河の水、天から来るを。奔流海に到りて復た帰らず……源はいずこなりや?」(李白「将進酒」)。毛沢東は博覧強記であり、名詩名詞をたくさんおぼえていた。また機嫌のよいときは、その状況に応じた京劇の一節を口ずさむクセがあった。
四八年五月、毛沢東ら中央機関は晋察冀軍区司令部の所在地へ阜平県城南荘につき、そこで中央工作会議をひらいた。周恩来、朱徳、任弼時、陳毅、粟裕、李先念、張際春、李濤らが出席し、一〇日間ひらかれた。会議後の毛沢東は上機嫌で、大別山の劉伯承、鄧小平に長い電報をかいたり、全国政治協商会議開催の通知を起草したりした。
一九四八年九月八~一三日、西柏坡の機関小食堂で政治局拡大会議がひらかれた。七名の政治局委員(毛沢東、周恩来、劉少奇、朱徳、任弼時、彭真、董必武)のほか、鄧小平を含む一九名の中央委員、候補、さらに華北、華東、中原、西北の党と軍隊の主な責任者が出席した。
ここで解放軍が最後の勝利を獲得するうえで、決定的な戦いとなった三大戦役(遼瀋戦役、淮海戦役、平津戦役)と揚子江渡河作戦(解放軍は東北、華北を解放したあと、揚子江をこえて、華南、西南、西北に進撃したが、この戦略のなかで、揚子江渡河作戦は大きなカベであった)への動員令をきめた。
党中央は前述のように五大書記の分担をきめており、全国の軍事指揮は毛沢東が周恩来の補佐を得て行うことになっていた。しかし、このときは毛沢東はこう決意を語った。「いまや最後の決戦の段階になった。戦いはいよいよ大きくなり、全国全局にかかわる大戦争になってきた。私一人で決定するわけにはいかない。重大な意思決定は集団で研究して決定しなければならない」。こうして書記処は毎日会議をひらくことになった。ここでの毛沢東は集団指導の長としてたいへん民主的であり、晩年の独裁と対照的である。
徹夜で仕事を行い、昼に眠ることは毛沢東の長年の習慣であらためにくい。そこで他の書記たちが毛沢東の習慣に合わせて、夜型にすることになった。陝北を転戦したさいは周恩来、任弼時も毛沢東に合わせて夜型になっていたが、今回は朱徳と劉少奇もそれにしたがった。
朱徳総司令は長年来、早寝早起きの習慣を守っており、夜一〇時には就寝し、早朝に起床し、散歩や太極拳をやる習慣であったが、すでに還暦をすぎていたこの老司令も夜型にあらためた。毛沢東が気づかっていわく「総司令よ、あなたは高齢だから、早く休んでほしい」。朱徳が答えていわく「大事な時だ。もどっても寝つけんよ」。とはいえ、会議が半分あたりまで進んだころ、朱徳はこっくりこっくりやることが多かった。
任弼時は高血圧なので、過度に緊張すると頭がくらむ。椅子によりかかって目を閉じていた。毛沢東、劉少奇、周恩来は元気にあふれ、とりわけ周恩来は軍事委員会総参謀長として、毛沢東を補佐し作戦を指揮した。夜中毛沢東のそばを離れず、昼は外交、華僑対策、統一戦線、新聞宣伝などの仕事を大量に処理した。周恩来の精力的な仕事ぶり、事務能率の高さにはみなが驚かされた。
白髪一本で三大戦役の勝利
東北地方を解放する遼瀋戦役が始まると、いっそう緊張した。毛沢東はここで非凡な気魄を示した。一つは錦州攻撃である。錦州攻撃は少数の兵力で一挙に四〇万の大軍と戦う形であり、容易に決断しにくかった。
毛沢東は国民党の大軍を相手にするだけでなく、林彪の異論をも説得しなければならなかった。林彪は軍事に有能で、毛沢東に面とむかって異論を唱えることが少なくなかった。こうした態度を示す点で、彭徳懐と林彪は突出していた。だからこそ毛沢東は林彪を信頼していたのだと李銀橋は証言する。
錦州攻撃の場合、林彪は錦西と瀋陽の敵に挟撃されるのを恐れた。もっぱら東北戦場における戦略的観点から、北から南へ追撃する方が容易だと判断していた。しかし毛沢東は全国的戦略から問題を考え、関外の敵を関内にいれてはならぬと決意していた。毛沢東は単なる勝ち戦さではなく、前代未聞の大殲滅戦を考えていた。毛沢東は十数通の電報を打って林彪を説得し、長春を撤退して北寧線を南下し、錦州を攻撃し、東北の敵を全滅するよう指示した。
ある日、毛沢東が腫れぼったい顔に笑みを浮かべていう。蒋介石が瀋陽に飛んできた、こうなるとわれわれの勝利に展望が見えてきた。周恩来が解説していう。蒋介石が到るところ、戦いやすくなる。いつもデタラメ指揮をやるからね。まもなく錦州解放のニュースがとどいた。
遼瀋戦役を始めたとき、もう一つの大事は国民党華北地区の責任者・傅作義の十数万の大軍であった。蒋介石は瀋陽へ飛んで督促する途中、傅作義に緊急にあって、東北支援を命令した。傅作義は関外へ出ることを望まず、「魏を囲んで趙を救う」故事を考え、石家荘や西柏坡を囲んで、瀋陽を救おうとした。中共軍は北平以南から石家荘まで主力部隊がいないのに対して、傅作義の騎兵部隊は行動の迅速なことで響いていた。周恩来は汪東興と中央警衛団幹部のひきいる歩兵中隊二コ中隊を派遣して警戒させ、毛沢東と党中央の安全を図るとともに、中央各機関の疎開を計画した。
毛沢東はここで新華社のために評論を書いてユーモア混じりに傅作義に警告した。「われわれはすでに十分な準備が出来ているから、あなたが(石家荘に)やってきても得るところはない。やはりもう少し真面目に考えた方がよい」。この放送を聞いた傅作義は北平を空けるのが心配になり、保定駐屯の部隊まで北平に移した。
こうして一篇の評論で傅作義の大軍を撃退した毛沢東は、ことのほか上機嫌で京劇『空城計』を湖南訛りでうなった。「我まさに城楼から山景を観るに、たちまち城外の乱れるを聞く。旌旗はためき、営は空なり。元来は司馬の発する兵なり……」。うなりおわると、今度は『三顧茅廬』の諸葛亮の段である。「我はもと臥竜崗におりしが……」
遼瀋戦役が勝利におわり、瀋陽が解放された夜、首長たちは祝杯をあげたが、毛沢東は大いくさの後は脂身の「紅焼肉」をたべて脳味噌に栄養を補うのが常であった。その夜はほかにビーフン肉と酸菜炒肉糸、コ沱河の魚、警衛兵士の捉えた斑鳩があった。
遼瀋戦役、淮海戦役から平津戦役まで四カ月余り、首長たちは毛沢東の二〇平米足らずの事務室で過ごし、三大戦役を指揮したのであった。
当時毛沢東は五五歳、身体は壮健で髪は黒々としていた。毛沢東は髪をとかすのは按摩の一種で血液循環をよくし、疲労をとるということで李銀橋がとかそうとすると、一本の白髪に気づいた。李銀橋が小声でぬきますかと聞いたあと、小心翼々と、しかし力をこめてぬく。これを眼鏡越しに眺めた毛沢東の一言。「白髪一本で、三大戦役の勝利とは! もうけたな」。
III 皇帝と宰相
1 中華人民共和国の成立
革命家のめざしたもの
北京入城以後の毛沢東は当初、集団指導体制におけるまとめ役的な存在であった。しかし、大躍進政策が失敗し、調整政策を余儀なくされて以後、毛沢東は意識的に個人崇拝を利用して、権力を固めようとするようになり、特に文化大革命期には個人崇拝は極点に達し、あたかも皇帝のごとく全中国に君臨した。
周恩来は建国当初は宰相として切り盛りしていたが、毛沢東が「皇帝化」するにしたがって、しだいに宰相から執事に転落していった。
正式な肩書きは、毛沢東は中国共産党中央委員会主席、中共中央軍事委員会主席、国家主席(五八年まで)であり、周恩来は中華人民共和国国務院総理、外交部長(五八年まで)であった。そのポストを彼らは死ぬまで保持した。
新中国が生まれる契機となった四九年革命は新民主主義革命とよばれる。革命前の中国は、帝国主義列強による半植民地であり、その社会構造は「半封建的」社会とよばれた。前者はインドのような完全な植民地ではないこと、後者は封建社会が半ばくずれ、資本主義経済が一部でしか発展していないことを指している。前者から、革命の目的は対外的にはまず列強からの独立と統一であった。後者から、国内的には反封建を内容とするブルジョア民主主義革命であった。中国では弱体なブルジョア階級にかわって、プロレタリア階級、半プロレタリア階級を基盤とする共産党が指導したので、旧民主主義革命と区別して、新民主主義革命とよばれた。ただ、中国革命においては、工業労働者が主役を演ずることはなく、農民を立ち上がらせて土地革命を推進することが中心になった。
革命家たちにとって権力の奪取は始まりにすぎない。彼らは獲得した権力をもちいて旧社会を変革し、豊かな平等な新社会を建設することを夢みた。新社会へむかって人民を動員するためには、なによりもまず新たな統治体制を再建しなければならない。ところがこの統治体制が人民の自由を抑圧する体制に変質し、意図とはまるで逆に、人民から新社会建設への意欲を奪うことになった。
毛沢東の理想
毛沢東はマルクス主義者として、社会主義経済の内容を生産関係と生産力の両面から考えていた。生産関係の面では、私有制を廃絶し、集団所有制という過渡的段階をへて全人民所有制の彼岸にいたることが目標である。生産力の面では、イギリスをおいこし、アメリカにおいつくことが具体的目標であった。
マルクス主義では、生産力の発展の桎梏となったときに、生産関係の変革、スローガン革命がおこなわれると説く。スターリンはこの命題をロシアに適用したとき、トラクターという生産力に適応した生産関係がコルホーズ(農業協同組合)であると説明して、農業集団化を強行し、数百万の餓死者を出している。
毛沢東はこの現実を横目でながめながら考えた。中国ではトラクターを生産する工場がないから、トラクターの生産を待つことはできない。話はむしろ逆ではないか。農業集団化をおこない、生産の規模を拡大してこそあとでトラクターを導入できるのだ。個別農家を農業合作社あるいは人民公社に組織することも生産関係の変革であり、中国ではむしろこの方法によってこそ生産力を発展できるのだ、と。
この考え方にたって、毛沢東は所有制変革の道をひたすら追求した。まず数個の農家からなる互助組(隣組の協力)、ついで数十個の初級農業合作社(部落単位の組合)に拡大させ、さらに高級農業合作社(自然村単位の組合)をつくるよう呼びかけた。最後にはこれを人民公社(行政村単位の組合)に発展させた。
周恩来は当初、現実主義的な立場から、毛沢東の理想追求にはじまった大躍進に懐疑的であったが、毛沢東からその動揺性をきびしく批判されたあと、毛沢東の急進路線に追随した。大躍進の失敗を率直に批判した彭徳懐が、その見解を受けいれられるどころか解任されたとき、周恩来らは彭徳懐を支持することをしなかった。
毛沢東は大躍進の失敗から正しく教訓をひきだし総括することができず、理論は正しいが、力関係のゆえに一時的に失敗したにすぎぬとうけとめた。そして大躍進からなんらかの教訓をひきだそうとした人々を修正主義者と誤認し、追放する作戦にでた。これが文化大革命である。毛沢東はこうして文化大革命において、大躍進の失敗を拡大再生産することになる。
文化大革命において周恩来をはじめとする毛沢東の同志たちはどのようにこれを助け、抵抗したのか、それが本章の課題である。
二人でつくった新政府
一九四九年三月二五日、中共中央機関が北平(のち北京と改称)に入った。かれらは凱旋将軍のように、西郊飛行場で各民主党派代表の歓迎をうけたが、この盛大な歓迎式を演出したのは周恩来である。歓迎式の場所、時間、参加者名簿など細々した実務はすべて周恩来が決定した。周恩来はこのような仕事を、精緻なコンピューターのように処理するのを得意とした。
共産党は抗日戦争期から民主諸党派に対して、共産党の独裁政府ではなく、他党との連合政府の樹立を約束していた。そこで五月二四日、周恩来は北平の民主人士をまねいて政治協商会議をひらき、連合政府を樹立する問題について協議した。
六月中旬、新政治協商会議準備会一次会議がひらかれた。新しい中国政府はこの会議を通じてつくられることになっていた。周恩来はこの準備会常務委員、副主任になり、かつ共同綱領起草小組の組長として、中華人民共和国政府の方案づくり、共同綱領づくりをおこなった。
こうした準備をへて、中国人民政治協商会議第一次全体会議(九月二一~三〇日)がひらかれた。開幕の辞のなかで毛沢東は「人類の総数の四分の一を占める中国人がここに立ちあがった」と有名な宣言をおこなった。周恩来は共同綱領の起草経過を報告し、「独立、民主、平和、統一、富強の新中国を建設しよう」とよびかけた。
日本の内閣にあたる政務院(国務院の前身)および日本の各省にあたる各部、委員会などの主な責任者のリストは大部分周恩来がリストをつくり、毛沢東と協議をかさねたのち、正式に任命された。極言すれば、周恩来と毛沢東が二人で新政府をつくったようなものである。
ここで周恩来が特に気配りを見せたのは、共産党員ではないが、そのシンパである民主人士にたいする扱いであった。たとえば傅作義水利部長がそれである。程潜、張治中、龍雲、傅作義など国民党の著名な将軍は少なくなかったが、北京平和解放の功績を高く評価して傅作義を抜擢する反面、副部長には中共党員の李葆華を配することによって実務への障害をさけた(非共産党の著名人をおもてにたて、裏で共産党員が糸をひくやり方は、周恩来流の統一戦線の典型的スタイルであり、民主諸党派との協力としてもてはやされたが、のちには共産党独裁の隠れ蓑に堕落した)。
こうして四名の副総理は中共党員二対非党員二、二一名の政務委員(閣僚)のうち中共党員一〇名、非党員一一名、政務院管轄の三〇機関の責任者九三名のうち中共党員五一名、非党員四二名となり、共産党をリーダーとする四九年革命に協力した他の党派、あるいは著名人たちの労にむくいた。
しかし、五七年の反右派闘争のさいに、これらの非党員閣僚たちのほとんどが右派分子とされ、その地位からはずされた。共産党と他の党派の蜜月はあまりにも短く、共産党は単に民主諸党派を権力獲得のさいに利用しただけとする批判も少なくなかった。
建国式典当日の毛沢東
一九四九年一〇月一日午前六時、周恩来はすでに三度も衛士当直室に電話をかけてよこし「主席は寝られたかね」と確認していた。そのたびに「まだです」の答えが返ってきた。「君たちが催促して早く休んでもらいなさい。午後二時に開会し、三時には天安門に登楼しなければならない。手立てを考えて早く休んでもらわなければ」と周恩来。
李銀橋が催促すると、毛沢東は文書を書きおえ、ようやく立ちあがり、中庭に散歩に出た。一〇分ほど散歩したのち、用便を済ませ、衛士(ボディガード)に体をふかせ、床についた。その日は按摩はやらなかった。「午後一時に起こしてくれ」。
衛士の当直班は毛沢東づきの正班、江青づきの副班各二名ずつからなっていた。枕元のベルが当直室につながっており、副班は寝てよかったが、正班は不寝番と決まっていた。午後一時、ベルは鳴らなかったが、李銀橋は寝室へ入り、毛沢東を起こした。ぬれタオルを手渡し、例のごとく李銀橋が湿布摩擦を始めると、ようやく目がさめた。毛沢東は、目ざめてから一時間前後はベッドで茶を飲んだり、読書したりするのが常で、その日もこの習慣を変えなかった。
毛沢東がその日にきる「礼服」は中山服(いわゆる人民服)であり、生地は生活秘書の葉子龍が届けてくれたカーキ色の米軍将校用のもので、李銀橋が王府井の仕立屋王子清に頼んでつくってもらった。
毛沢東は朝飯をす早く食べたあと、二時に勤政殿へ歩いて行った。そこには朱徳、劉少奇、周恩来、任弼時、張瀾、李済深、宋慶齢、高崗などの指導者があつまっており、中央人民政府委員会第一次会議をひらくことになっていた。会議後の二時五〇分、彼らは勤政殿から自動車にのり、中南海東門をぬけて、中山公園から天安門城楼の後ろまで南下した。当時、天安門の地下道はまだつくられておらず、李銀橋は毛沢東をささえて城楼西側の階段をのぼり、三時きっかりに天安門楼上に姿をあらわした。
式典が開始されると毛沢東はマイクの前にすすんで広場を眺めわたしたたあと、「中華人民共和国中央人民政府は成立した!」と宣言した。その瞬間、広場には嵐のような歓声が巻きおこった。
毛沢東が電気のスイッチをおすと、五星紅旗がするするとあがり、五四門の大砲から礼砲がとどろいた。毛沢東が第一声を発するとき、傍らにいた周恩来がマイクの向きを毛沢東のために調節している映像が印象的であった。ここに以後の毛沢東と周恩来の上下関係が凝縮されていたように私には思われてならない。
自宅が執務室
天安門にむかって左隣に紅色の厚く、高い壁でかこまれた一角があり、中南海とよばれる。元来は中海と南海という池の呼称で、南海の入口が新華門である。天安門が中華人民共和国の象徴であるとすれば、中南海は共産党と政府の象徴であり、その入口が新華門である。「人民に服務せよ」と書いた毛沢東の大きな文字が見える。
ここには中共中央と国務院の弁公室がそれぞれおかれている。中共中央主席毛沢東はまず清朝時代からの由緒ある建物・豊沢園(菊香書屋)にすみ、六六年夏から新居に移ったがそこにはプールが付設されていたので、周辺の人々は毛沢東の住まいをプールと俗称していた。自宅の書斎がすなわち毛沢東の執務室である。いわば自宅が党主席弁公室であり、個人事務所のようなものである。
周恩来のばあいも同じである。自宅が総理弁公室であり、決裁をあおぐ書類はメッセンジャー・ボーイが回りもちした。ここで決裁された書類が党務なら中共中央弁公室、政務なら国務院弁公室をつうじて、全国に発出された。
建国後まもなく、劉少奇、楊尚昆が中共中央や中央軍事委員会の名で通達をだして、毛沢東のきびしい叱責をうけたことがある。当人にしてみれば、別に毛沢東に隠れてやろうとしたのではなく、会議で決定済みのものを通達したにすぎないが、毛沢東はこう叱責した。「およそ中央の名で発出する文件、電報は私が決裁したものでなければ無効である。注意されたい」「過去に数回、中央の会議決議を私が決裁するまえに勝手に発出したのは誤りであり、紀律破壊である」。劉少奇らがどう受けとめたかわからないが、毛沢東は党主席であり、しかも党の最終意志決定に責任をもつという四三年政治局決議は有効であったから、彼らは毛沢東の指示にしたがうほかなかった。毛沢東の決裁権はこのようにして確立されていった。
中南海西花庁──これが周恩来の住まいであり、執務室である。付近には鬱蒼とした松柏がしげり、清い香りをはなつ海棠などの樹木にかこまれていた。周恩来はここに二五年間すんだ。朝、衛士がおこすと寝室のうしろの手洗い室にいく(私は毛家湾の林彪旧居をたずねたことがあるが、手洗い室といっても二〇平米以上あったとおもう)。これを秘書たちは「第一事務室」と俗称した。
ここで五分から一〇分体操をしたり、用をたすが、この機会をとらえて秘書たちは急いで処理すべき要件の決裁をあおぐ。また周恩来は内外の重要ニュースや秘書が赤丸をつけた重要資料をよんだが、これが彼の長年の習慣だった。執務室と文件の保管箱のカギを、周恩来は四六時中、身につけていた。通常はポケットにいれ、寝るときは枕の下においた。外国へ行くときだけ、二つのカギを鄧穎超夫人にわたした。日本の主婦権の象徴はしゃもじだが、中国ではカギである。「カギをもつ人」(原文=帯鑰匙的)とは主婦のことである。二つのカギを手放すことのなかった周恩来はまさに中華人民共和国の「主婦」のイメージそのものである。
毛沢東の「批語政治」
毛沢東はどのように政府や人民に指示をあたえたのか。その一端は『建国以来毛沢東文稿』から知ることがでる。この資料集には毛沢東の講話や電報、書簡などが収められており、事実上の『毛沢東全集』である。ただ、いまのところ四九~五四年分を収めた四冊しか出ていない。これをもとに毛沢東の活動スタイルを分析してみよう。
これら四冊には計一七一三篇の文件が収録されている。これらの文件数を見ると、毛沢東が四九年から五二年まで全精力を傾けて建国の体制作りに取り組んだ過程が分かる。毛沢東が一息ついたのは、朝鮮戦争が終わった五三年のことである。
各年ごとに文件の種類を見ると、四九年は電報類が六割を超えている。全国解放戦争の指揮をとるために、電報を多用したことが分かる。電報による指令は五〇年も続いた。
しかし、五一年以後は「批語」の形による指示が多くなる。「批語」とは下級組織から上げられた稟議書に、指示を書きこんだものである。たとえば「そのとおりおこなえ」といった単なる決裁から、具体的な注意事項にいたるまで細かく指示したものなどさまざまである。
一例をあげよう。新華社は四九年一〇月二四日、新疆に進駐した解放軍が旧国民党軍隊の一部を逮捕したというニュース原稿をかいた。それを人民政府新聞総署署長の胡喬木が毛沢東にとどけて指示をあおぐ。毛沢東の「批語」にいわく、「この種のニュースは全国発表すべきでない。西安、蘭州の放送局から放送すべきでもない。ハミなど地方紙に発表すればよい。この件を彭徳懐(当時第一野戦軍司令)、甘泗淇(同政治部主任)に電報でつたえよ。毛沢東」。
このような形で実に細かな点にいたるまで指示をあたえているが、この「批語」類は五一年五割、五二年七割弱、五三年五割、五四年四割弱を占め、五年余を通じて三分の一を占めている。ここから毛沢東流の政治は「批語政治」であることが分かる。
電報数と書簡数を比較すると、五二年までは電報が多いが、五三年からは書簡数が電報数を上回ってくる。各年ごとの電報類の比重を見ると、四九年の六割五分から五三年の一割まで急速に減少し、国家体制が整ってきたことを示している。
行政機構、国家機構がととのったあとは、それぞれの機関から出る令や布告などが重要になるが、建国初期はその形成過程であり、毛沢東の批語が大きな役割をはたしたのである。
ここで問題が二つある。一つは、「決定」や「決議」と、法体系の関係である。共産党は革命政党として、法治国家を指向しつつもそれに徹しきれない。レーニンのいうように革命とは、決定しつつ行動する過程であり、立法過程をまつことなく、共産党の決定に依拠して政治をおこなうことになる。
これが共産党独裁の一つの側面である。独走をチェックするものがなく、多くのばあい、速戦即決であるから共産党は朝三暮四をくりかえした。毛沢東の政策の誤りを根本的に改めるためには、毛沢東の死を待つほかなかった。法治によって人治の欠陥を補完することに失敗したのである。
もう一つは、ひとたび形成されはじめた行政機構、官僚機構の動きと毛沢東の理念が衝突する例がしばしばおこったことである。革命の時期から日常の時期に入り、官僚体制がととのってくると、毛沢東は強い違和感をおぼえた。彼は革命の理念が消えようとしていると危機感を抱いた。そのたびに毛沢東は官僚機構、行政機構を破壊しようとした。
毛沢東のこころみた大躍進運動(一九五八~五九年)、文化大革命(一九六六~七六年)は、整いはじめた機構を破壊し、「革命化」しようとした典型的事例にほかならない。
2.大躍進=暴走する毛沢東
実務家と理想家の対立
革命期の毛沢東は土地を約束することによって農民を味方にひきつけた。その約束を実行して全国的権力を奪取したあと、土地改革をおこない、地主や富農の土地を没収して、土地のない貧農にあたえた。
農民革命、農村革命のなかで権力をえた毛沢東にとって、農民を貧しさから解放することこそが目標であり、その道筋は農業集団化(合作化)の道以外にはありえなかった。毛沢東の強いよびかけもあって、五五年夏に農業集団化は急速に発展したが、これに鼓舞された毛沢東は五五年一一月に「農業一七カ条」をつくった。
そこには、六七年までに食糧生産量を五億トンにしようと書かれていた。ちなみに五五年の食糧生産量は一・八億トンであり、近年の実績が四億トンであることを見ただけでも、六七年に五億トンにするという目標が現実離れしたものであることはよくわかる。
中共中央が五六年に予定している第八回党大会の基調を「右翼偏向反対、保守主義反対」に置く方針を決定した時、周恩来はこれを間接的に批判して「実際に合わないことをやってはならない。われわれの計画は実行可能なものたるべきであり、デタラメ冒進の計画であってはならない」と強調していた。冒進とは、猪突猛進というほどの意味である。
ここで周恩来はおもてむきは毛沢東の方針を尊重しつつも、「実行可能」かどうかを重視している。こうした考え方にもとづいて周恩来は二月一〇日、五六年計画の指標を押さえる方針を提起した。
たとえば設備投資にあたる基本建設投資を減らした。しかしそれでも、周恩来の見るところ、五六年計画はいぜん目標が高すぎる。そこで五月一一日、周恩来は予算報告を説明するなかで「あせり冒進の偏向にも反対」せよ、と強調した。
五六年後半から周恩来は李富春(国家計画委員会主任)、李先念(財政部長)、陳雲(副総理)らとともに、経済工作における「あせり冒進反対」に精力的にとり組んだ。周恩来らの意見は六月の全人代三次会議で採用され、『人民日報』社説「保守主義に反対するとともに、あせりムードにも反対せよ」が発表された。
五六年七月、周恩来は第二次五カ年計画建議の作成に着手した。一一月にひらかれた八期二中全会で、第一次五カ年計画(五三~五七年)の成果について「成果はたいへん大きいが、誤りも少なくなかった」と周恩来は総括した。「五三年は小冒進、五六年は大冒進をやってしまった」というのが周恩来の基本的評価であった。
こうした観点から、長期計画の見直しと、五七年の基本建設投資額の二割削減を提起した。長期目標としては三つの五カ年計画の最終年たる六七年(第一次=五三~五七年、第二次=五八~六二年、第三次=六三~六七年)の鉄鋼の生産目標を、三〇〇〇万トンから二〇〇〇~二五〇〇万トンに引き下げる案を提起した。
追随を始めた周恩来
周恩来に代表される現実主義的な実務家たちの動きを毛沢東はにがにがしい気持ちでながめていた。経済の実務担当者たち多数派の意見であるから、理想に燃える毛沢東も一応は、周恩来の提案を了承した。しかし、こう釘を刺すことを忘れなかった。「不均衡、矛盾、闘争、発展は絶対的であり、均衡、静止は相対的である」。
現場の幹部や大衆に冷水を浴びせるような態度はやめよと毛沢東は強調したが、彼はこのころ農業集団化をつうじて農村社会を根本的に変革することを夢想していた。
こうして毛沢東の右翼偏向反対と、周恩来の冒進反対とは鋭く対立していく。とはいえ、五七年の前半を通じて周恩来らの「反冒進」のムードが優勢であった。
冒進反対から右翼偏向反対(反冒進反対)へと風向きが一変したのは、五七年六月八日、中共中央が右派への反撃を指示したときである。今日、中国社会主義の転落の第一歩といわれる反右派闘争が始まった。風向きに敏感な周恩来は全人代で行った政府活動報告のなかで、みずからのスタンスを変えて、毛沢東のそれに近づいた。
毛沢東はのちに五八年五月一七日の講話で、この周恩来報告をほめあげ、「たいへん素晴らしい。プロレタリア階級の戦士の姿で、ブルジョア階級に宣戦したもの」と激賞した。周恩来は毛沢東に追随する道を歩みはじめたのである。
自己批判の理由
五七年九月にひらかれた八期三中全会以来毛沢東はきわめて精力的に行動した。毛沢東が奮闘しはじめた契機の一つは、彼や共産党が「功利を急ぐもの、将来を迷信するもの」という批判をうけたためである。
毛沢東はソ連のスターリン批判に際して、中国では民衆の不満に耳をかたむけ政策に反映させることによってスターリンの誤りをくりかえすことを避けたいとの考えから、「百花斉放、百家争鳴」の方針を提起して、共産党や政府に対する不満を率直に述べることを呼びかけていた。ところがそこで出てきた不満は毛沢東の予想をはるかに超えたきびしいものであり、なかには共産党が権力の座から下りることを要求するものさえあった。
きびしい批判に驚いた毛沢東は、これらの批判は同志的な意見ではなく、敵側の批判であるとして、批判者たちを批判者を「ブルジョア右派」と断定し、弾圧の対象にふくめた。もう一つ、毛沢東は経済の実績を楽観した。五七年建設の実績は財政収支でも、工農業総生産額で見ても満足すべきものと毛沢東はうけとめた。実は周恩来らから見れば、これはまさに五六年の冒進の欠点を補ったことによって得られた成果にほかならない。現状から、毛沢東は冒進論の根拠を、周恩来らは反冒進の論拠を、それぞれ引き出していたのである。
五八年一月の南寧会議で、毛沢東は再び五六年の反冒進を批判した。「反冒進と右派は五十歩、百歩だ。こんごは反冒進という言葉は使わないようにしよう。これは六億人民の士気をくじく」「(五六年六月の反冒進の社論をさして)読まぬ、と批語を書いた。私の悪口を書いたものを読めるものか」。毛沢東の鼻息は荒い。
まもなく南寧会議の精神が伝達され、以後反冒進という言葉はタブーとなった。この結果、歯止めが失われ、暴走がくりかえされることになった。
毛沢東の反冒進批判は五八年三月の成都会議、四月の漢口会議と続き、五月の中共八全二次会議でピークに達した。大躍進路線を正式決定したこの会議で、周恩来、陳雲、薄一波、李先念らは自己批判を迫られ、周恩来はこう自己批判した。
「私は、五六年の成果と躍進のなかであらわれた若干の欠点と困難について、誤った評価を行い、小さな欠点を誇張した。五六年の年度計画を冒進だといい、五七年の建設規模を圧縮せよと述べた」「反冒進の誤りは重大である。幸いにも党中央と毛主席の正しい領導と是正によって、また党内外の幹部と大衆の抵抗によって、あらためることができた」。まさに全面降服である。
今日の時点で回顧すれば、周恩来側が正しく、毛沢東が誤っていた。周恩来がこの発言を行った背景について、発言稿の起草を助けた周恩来の理論秘書范若愚は当時を回顧して、周恩来の自己批判は迫られたからだけではなく「誠心から行ったもの」と証言している。もしこの証言が真実だとすれば、周恩来の予見能力の限界をしめすものといえよう。
延安時代以来、毛沢東の判断の正しさを全党的にうけいれる慣行ができていたこと、毛沢東と異なる意見に遭遇したとき、皆は習慣的に毛沢東の側に傾いたこと、当時の周恩来は大躍進が災難をもたらすとは予想していなかったこと、などのためだと叢進『曲折発展的歳月』は分析している。
周恩来らが毛沢東に追随することになったことについてほかの理由をあげる論者もある。一つは、党中央が一九四三年三月「重大問題に対しては毛沢東が最終的決定を下す」ことを決めており、この決定は建国後も有効であったこと、もう一つは、帝国主義の軍事的威嚇、経済上での封じ込め政策により「新中国が扼殺される」という危機意識があったことである。
人民公社化の夢と現実
五八年夏、毛沢東は農業集団化問題を研究していた。五五年以来の農業集団化運動で成立した農業生産合作社を、「工、農、商、学、兵」をふくむ「公社」(コミューン)に組織し、それを共産主義社会にいたる基層組織とする構想がひらめいた。八月に北戴河でひらかれた政治局拡大会議で、「人民公社設立についての決議」を採択し、農業合作社の合併による人民公社化をよびかけた。
この決議が発表されると、一一月初めまでの約三カ月間で、全国農村の七四万の農業合作社は、二・六万の人民公社に改組された。農家の圧倒的多数が人民公社に参加し、その数は一・二億戸にたっした。当時は下からの盛りあがり、熱狂的な大衆運動が喧伝されたが、のちにこれは単に人民公社の看板をかかげたたぐいや、農民の意志を無視して農村の幹部が誇大報告する例がすくなくないことが明らかになった。
人民公社数二・六万という数字は何を意味しているか。中国は約五万の郷=行政村からなっているから、一時は二つの行政村を合わせた戸数六千、七千からなる大人民公社がモデルとされたことがわかる。
しかし、これでは規模が大きすぎて管理ができない。いきおい管理不在の無責任体制とならざるをえなかった。また人民公社設立にさいして、旧生産隊や農民の財産を無償で公社所有に帰するなど、私有制の残滓の一掃という名目で農民の利益を侵害する例がしばしばみられた。
第一に規模を大きく、第二に私有制を公有制に(原文=一大二公)が人民公社の理念を象徴していたが、これこそが農業における社会主義の道と考えられたからである。人民公社化によって大衆の生産への意欲が高まり、生産の大躍進がもたらされたと喧伝されたが、その大部分は誇大報告(原文=虚報)であり、実際にはそんなに豊作ではなった。
食糧生産量が一挙に倍増したという報告を聞いた毛沢東が豚の餌にしても余ってしまうと、その処理方法に頭を悩ましたという挿話がある。誇大報告ではないかと県の幹部が現地調査にいくと、現場では隣村から食糧をはこんで実物をみせたり、あるいは倉庫の見える部分にだけ本物をおいて、見えないところは藁でごまかしたという話もある。
目標がいつのまにか実績にスリ変わり、またその数字も釣り落とした魚のように、どんどん大きくなった。現場の幹部たちと上級の幹部たちがたがいに自分の業績を飾るために水増し数字を創作していく過程は、落語の花見酒に酔ったかのごとくである。上は毛沢東から下は農民にいたるまで共産主義社会実現の夢と現実を混同していたといえる。
人民公社設立と同時に、全国で一〇七〇万トンの鉄つくりのために約九〇〇〇万人が動員された。粗鋼生産量でイギリスにおいつくスローガンのもとで、土法製鉄(近代的製鉄に対する伝統的製鉄方法)の大衆運動がおこなわれた。しかし、そこで生産された鉄は、大部分が品質がわるくて使いものにならず、壮大な損失がもたらされた。
人民公社化運動も、鉄つくり運動も大失敗におわり、五九~六一年は食糧危機におちいり、一〇〇〇~二〇〇〇万人の餓死者さえ出た。毛沢東の失敗は明らかであり、彭徳懐がこの問題をとりあげた。
「野人」激突
「野人」彭徳懐が、廬山会議で「野人」毛沢東と激突した。李鋭(元毛沢東秘書)は、彭徳懐の剛毅な性格をこう評している。彭徳懐総司令は「山野の人」であり、終始「ゲリラ作風」を保持しており、「毛沢東万歳」を唱えず、「東方紅」を歌わず、「主席」とよばなかった。李鋭の証言は彭徳懐の性格をよくつかんでいる。
毛沢東の権威は四五年におこなわれた七回大会前後から大いに高まり、かつての同志たちに君臨するようになった。ここで党文書のなかに初めて「毛沢東思想」の五文字が書きこまれた。しかしひとり彭徳懐だけはかつての「ゲリラ仲間毛沢東」としてつきあっていた。彭徳懐はまた自分を『三国志』の豪傑、粗野な張飛になぞらえている。
もっとも彭徳懐の野性を口にするなら、毛沢東も似たようなものと李鋭は書いているところがおもしろい。毛沢東は寝巻を着てベッドに横になったまま客と話をすることが珍しくなかったし、またフルシチョフをむかえたときはプールサイドで会談した。寝巻のまま来客をむかえた毛沢東のイメージは、足を洗いながら儒者をむかえた劉邦を想起させる。
もう一つ、品の悪さを象徴する例がある。彭徳懐は廬山会議で激昂して、「お前は俺の母親と四〇日強姦したのだから、俺がお前の母親と二〇日強姦してなぜ悪いのか」(原文=ニイ操了我四十天娘、我操ニイ二十天娘不行?)とどなった。この言葉をそっくりつかって毛沢東は彭徳懐を反批判している。ここで二〇日間というのは、四〇年八~一二月のいわゆる百団大戦作戦の欠点をかつて毛沢東批判したことを踏まえている。
野人同士の激突にさいして、スマートな周恩来はいかに身を処したのか。彭徳懐が「意見書」を出した直後、李鋭が夜のダンスパーティの機会に周恩来の顔色をうかがったところ、「あれはどうということないよ」と語り、大躍進の結果について異論が出るのは当然という態度だった。
周恩来の予想に反して、毛沢東は七月二三日意見書を印刷し会議に配付した上で、きびしくこれをしりぞける大演説をおこなった。彭徳懐を弾劾するこの演説のなかで、毛沢東は周恩来にこう言及している。
「総理よ、あなたはあの時は反冒進の立場だったが、今回は腰がふらついておらず、意気ごみが強い。あのときの教訓を学んだ。あのとき周恩来、陳雲を批判した者が今回は逆の立場に立った」。ここには廬山会議における周恩来の立場がよく出ている。「あの教訓」とは、毛沢東の冒進に反対した周恩来が逆に批判され、以後毛沢東の追随したことを指している。もはや周恩来は毛沢東に対して異議を申し立てることができなくなっており、毛沢東にとり込まれている。
歴史の皮肉
こうした微妙な立場のなかで、周恩来は一歩退いて、いつものように会議の舞台つくりのために小まめに働いた。毛沢東演説をうけて彭徳懐弾劾に会議の基調が変化するなかで、七月二六日、周恩来は長い演説をした。
会議のメモをとった李鋭はこう証言している。総理は管理人(原文=当家人)であり、廬山では終始、実務的であった。彼には北京からやってきた幹部たちの心理がわかっていた。気がかりなのは今年の生産指標をどう設定し、達成するかであった。彼は心配でならぬおもむきであった。言葉の端々に内心の矛盾があらわれていた。
批判がエスカレートし、事柄から個人に及ぶに際して、周恩来は一方では主席の指示と意図に従いつつ、他方で工作の正常な進行を保証しようとしていた。巨大な嵐の到来を感じつつ、皆に工作をしっかりやらせようとしていた。
八月二日、中央委員全体会議がひらかれることになり、前夜に周恩来は会議の趣旨を説明した。彭徳懐、張聞天の意見書は、右翼日和見主義が党中央、毛主席に進攻したものである、と。この認識は毛沢東の危機意識をそのまま敷衍したものである。周恩来をはじめとして、劉少奇、その他の指導者たちは毛沢東の独走に掣肘を加えることに失敗した。
李鋭は後日、周恩来の述懐を紹介している。彭徳懐とともに処分された黄克誠(総参謀長)がもっと早く廬山に来ていれば、毛沢東との激突は避けられたであろうという仮定である。黄克誠は富田事件のさいにAB団(アンチ・ボルシェビキ団、すなわち反革命組織)と誤認されて、危うく毛沢東の部隊によって粛清されそうになったところを、彭徳懐に助けられた経歴をもつ。そこで物事の処理にたいへん慎重になった。だから、かりに彼が周辺にいたならば、彭徳懐に思いとどまるよう説得したに違いない。
実に深刻な歴史の皮肉である。一つは周恩来が毛沢東の酷薄な性格を最初に感じたのは富田事件の調査を通じてであり、そこから逆に黄克誠の人柄を知った。もう一つは、東欧からの旅行疲れで気の進まぬ彭徳懐に「やはり会議には私ではなく、国防部長(彭徳懐)が参加されるのがよい」と進言したのがほかならぬ黄克誠であったからだ。こうした偶然の積みかさねのなかで、廬山会議の前半を通じて、大躍進の行きすぎの是正に力をいれていた毛沢東が意見書を契機として、行きすぎをさらに拡大する方向へ政治のドラマが転回した。
大躍進、人民公社運動は、毛沢東晩年の「空想的社会主義」の実践であったと李鋭は総括している。彭徳懐や張聞天は、総路線自体が誤りだと認識していた。毛沢東は彭徳懐の後ろにフルシチョフの影を発見し、ソ連修正主義の使者と錯覚したのであろう。
フルシチョフは一方で平和共存政策をすすめ、他方で中国の人民公社政策を「空想的」ときびしく批判していた。毛沢東はフルシチョフのこのような態度はアメリカ帝国主義に屈伏し、修正主義者に転落したことをしめすと受けとめた。ここから中ソ対立は一挙にすすみ、六〇年夏のソ連の援助引き揚げまでエスカレートしている。
こうした文脈のなかで、毛沢東には盟友彭徳懐の率直な意見でさえも、素直にうけいれることができなかった。こうして廬山会議の結果を総括するなかで、内外の修正主義という観念にとりつかれた毛沢東は、これを過渡期の階級闘争として理論化し、文化大革命という実践に乗り出した。
彭徳懐の述懐
廬山会議で外交部副部長を解任された張聞天は、当時こう感想をもらした。毛沢東はたいへん英明だが、粛清もひどい。スターリンの晩年と同じだ。彼は中国史から少なからず良いものを学んだが、支配階級の権謀術策も学んでいる。
これに対して彭徳懐は当時こう述懐した。毛沢東はスターリンの晩年とは異なる。毛沢東は社会主義社会の矛盾を二種類、すなわち人民内部の矛盾と敵味方の矛盾にわけた。スターリンは敵味方の矛盾という概念を否定しておりながら、実際には人民内部の矛盾にすぎないものを敵味方の矛盾にしてしまった。毛沢東は中国史に精通しており、いかなる同志も及ばない。毛沢東は皇帝とは本質的に異なる。
彭徳懐はこのように、毛沢東=スターリン論をしりぞけている。ただし毛沢東への不満をこう述べた。主席は自分で誤りを犯しながらそれを認めず、自己批判せず、逆に他人を責めている。革命と建設の勝利によって頭脳が幻惑され、傲慢になった。
これは彭徳懐が廬山会議で衝突した前後の印象であるにすぎない。彭徳懐はその後文化大革命で辛酸をなめ、ついに惨死した。死への旅路において、彭徳懐がそれでも「毛沢東はスターリンの晩年と異なる」と信じていたかどうかは疑わしい。
毛沢東は五九年四月の全国人民代表大会で、国家主席を劉少奇にゆずり、第一線をしりぞく。六二年一月、中共中央は工作会議(七千人大会)をひらき、大躍進政策の責任問題を論じた。毛沢東は、中央が犯した誤りは、直接的には私の責任であるし、間接的にも相応の責任があると自己批判した。しかし、彭徳懐の名誉回復、すなわち彭徳懐批判の撤回にはしなかった。
第一線をしりぞいた毛沢東にかわって、党中央の日常工作をすすめたのは、劉少奇国家主席、鄧小平総書記である。彼らのすすめる調整政策のなかで、毛沢東路線への批判はしだいに強まってきた。
六二年九月、八期一〇中全会を機に、毛沢東が反撃に転じた。自己批判から半年後のことである。生産手段の所有制を社会主義的に改造したあとでも、政治上、思想上の闘争はつづく。イデオロギー面での影響は長期にわたる、と述べた。毛沢東は社会主義か、資本主義かという二つの道の闘争こそが重要だとこれを前面に押し出した。毛沢東によれば、問題は個々の政策にではなく、路線にあった。そこから間違った路線の担い手である実権派を打倒しなければならないという考え方が出てくる。打倒対象が登場したからには、いよいよ文化大革命である。
3.文化大革命のなかの周恩来
文革の3段階
毛沢東と文化大革命の関係については現代新書シリーズに『文化大革命』を書いたので、ここではくりかえさない。ただ、文化大革命とはなにか、について最も簡単な説明だけは必要であろう。
文化大革命とは、毛沢東がおこした運動だが、その目的は共産党や国家機関の指導部から「修正主義者」を排除して、社会主義革命を発展させていく体制をつくることにあった。毛沢東のいう修正主義者とは、最初はフルシチョフを初めとするソ連指導部を指していたが、六〇年代前半の調整期に現実的な政策を推進した中国の党官僚、行政官僚たちを指すようにしだいにエスカレートしていった。特に農村でおこなわれた社会主義教育運動の過程で、一部の幹部は「資本主義の道を歩む実権派」になったと毛沢東は断定し、これを排除することが文化大革命の目的だと主張した。一〇年にわたるこの運動はほぼ三つの段階にわけることができる。
第一段階=文革の発動から第九回党大会まで(六六年~六九年)
六六年五月の政治局拡大会議で「五・一六通知」が採択され、反党集団の摘発がはじめられた。ついで八月の八期一一中全会(中央委員会全体会議)で、「プロレタリア文化大革命についての決定(十六カ条)」が採択され、標的が劉少奇・鄧小平司令部にむけられた。当時、劉少奇は国家主席、鄧小平 は共産党総書記として、日常的に党務活動を処理していた。文革の直前、政治局常務委員は毛沢東、劉少奇、周恩来、朱徳、陳雲、鄧小平、林彪の七名であるが、大躍進が失敗したあと、毛沢東を積極的に支持したのは林彪ただ一人にすぎなかった。したがって、もし周恩来が劉少奇、鄧小平 らを断固として支持したならば、毛沢東は文化大革命を展開できなかったはずである。これは政治局全体をみても同じことであり、当時の政治局委員二三名のうち、毛沢東、林彪、周恩来、陳伯達、康生の五名をのぞく一八名が実権派として攻撃された。
文化大革命を推進する役割をはたしたのは、中央文革小組(組長=陳伯達、副組長=江青、顧問=康生)であり、この組織が毛沢東の権威のもとで政治局常務委員会にとってかわるほどの権力を行使した。実権派攻撃に動員されたのは、高校生、大学生からなる「紅衛兵」たちであった。つまり、毛沢東の戦略は、毛沢東イデオロギーに忠実な学生たちを利用して、党機関、国家機関の修正主義的な官僚を打倒し、毛沢東の理念に忠実な人々によっておきかえることであった。
全国各部門、各地方の党政指導機関において奪権闘争がおこなわれ、軍幹部、旧幹部(文革前の幹部ののうちよい幹部と認められたもの)、造反派(実権派追及で活躍した労働者たち)代表からなる革命委員会が成立し、六九年四月の第九回党大会で文革は一段落した。
第二段階=第九回党大会から第一〇回党大会まで(六九~七三年)
第九回党大会でえらばれた中央委員の構成は、約四割が軍人、三割が旧幹部、三割が造反派代表であった。これは奪権連合にすぎず、文革の担い手となった林彪派と江青ら“四人組”との間、そして旧幹部を代表する周恩来グループとの間で深刻な権力闘争がおこった。この結果、林彪派は武装クーデタを計画するところまでおいつめられ、亡命途中で墜死した。林彪事件以後、周恩来が党中央の日常工作を統括するようになったが、周恩来グループと四人組との対立が激化した。毛沢東自身は林彪事件に大きな衝撃をうけ、急速に老いこんだ。
第三段階=第一〇回党大会から四人組粉砕まで(七三~七六年)
党大会以後、周恩来は鄧小平 の力をかりて、脱文革の方向で経済の再建にとりくもうとしたが、七四年初め、江青ら四人組はさまざまな形で妨害し、主導権を奪おうとした。老齢の毛沢東は周恩来と四人組との間でゆれつづけ、今日は周恩来を批判したかとおもえば、明日は江青を叱責する日々がつづいた。晩年の毛沢東は革命の継続こそが重要だと考えており、それを推進する役割を四人組に期待したが、彼らの指導力の限界は明らかであった。そこで文革イデオロギーの鼓吹者の役割を彼らに期待し、現実の経済建設の実務を周恩来を初めとする実務派に期待する形にならざるをえなかった。
周恩来の死を契機として第一次天安門事件がおこり、鄧小平 は再度失脚した。しかし、毛沢東の死を契機として、四人組は華国鋒によって逮捕された。こうして、毛沢東の死を契機に、文革の旗手・江青未亡人が逮捕されることによって文化大革命がおわった。六九年の九回大会で選ばれた政治局メンバーは二五人いるが、このうち一八人は後に文革派として批判された。では実権派として追及されたが生きのこり、また文革派として追及されることもなかった七人とは誰か。周恩来、李先念、葉剣英ら周恩来グループ、さらに朱徳、董必武、劉伯承ら政治的に無害な長老組、そして南京軍区司令員許世友であった。
火消し屋、周恩来
一〇年にわたる文化大革命のなかで、毛沢東のはたした役割はよくしられている。では周恩来はどのような役割を演じたのか。
一九六六年八月下旬から一二月中旬までの三カ月余に、周恩来は紅衛兵の大型報告会、座談会などに四〇回以上出席している。小型の、個別の会見談話になるともっと多い。これらの会議、会見は時には四、五時間におよび時には徹夜になることさえあった。周恩来は紅衛兵や造反派たちの攻撃をたくみに交わしつつ、建国以来の一七年間、党と政府の工作は欠点よりは成果の方が大きいこと、方向の誤り、路線の誤りを犯した実権派は「黒い一味」(文革の最大の標的とされた実権派たち)と同義ではなく、反革命ではないと説得につとめた。
六六年国慶節の『人民日報』社説原稿を審査した際には、人民内部の矛盾と敵味方の矛盾という二種類の矛盾をはっきり区別しておかないと悪影響をあたえるとして自ら朱筆をいれた。一〇月に毛沢東が「ブルジョア反動路線を徹底的に批判せよ」と提起した際に、周恩来は毛沢東を訪ねて、異議を申したてた。これまで中共の政治に「ブルジョア反動路線」といういい方はなかった、と指摘したが、毛沢東は聞きいれなかった。
そこで周恩来は作戦をかえ、「ブルジョア反動路線」の誤りは、人民内部の矛盾に属すると強調することによって、実権派攻撃をやわらげようとした。
こうした周恩来の態度は、江青、陳伯達ら文革推進派から「まるめこみ屋」と攻撃された。また文革初期のイデオローグ、王力、関鋒の執筆した『紅旗』社説に、「折衷主義反対」論があらわれたことがしめすように周恩来は「折衷主義」「消防隊長」などと文革推進派から攻撃された。しかし流石は不倒翁、倒れない。逆に周恩来を倒そうとした王力、関鋒らが極左派として失脚した。
六七年一月の上海一月革命に際しては、周恩来は徐向前、聶栄臻、葉剣英など軍事委員会幹部たちとともに「中央軍委命令」をつくり、二種類の矛盾を区別すること、勝手な逮捕や体罰を厳禁するよう命令した。
また二月中旬にはある会議で譚震林、陳毅、葉剣英、李富春、李先念、徐向前、聶栄臻らが文革のやり方に強い不満を表明したときに、周恩来は文革小組の張春橋、姚文元、王力らを詰問した。このため、江青らから周恩来は「二月逆流の総黒幕」と攻撃された。
六七年八月七日、王力が陳毅外交部部長を追放し、外交部の権力を造反派が奪えと呼びかけたさいは、その矛先は陳毅外相の上司・周恩来に向けられていた。このころ、江青は「文をもって攻撃し、武をもって防衛する」(原文=文攻武衛)のスローガンを提起し、全国の混乱は頂点に達した。
文革派のやり方に不満を強めた武漢軍区指導部は、造反派を弾圧するだけでなく、実権派を支持する一部の大衆は、視察におとずれた毛沢東を軟禁する事件さえおこった。周恩来の機転で毛沢東はようやく危地からのがれることができた。この事件を経て、毛沢東は文革の収拾を決意し、八月末、周恩来の報告を批准し、王力、関鋒の隔離審査を命じた。こうして外交の大権は中央に属すること、周恩来が責任をおうことが確認された。
毛沢東は文革の第一段階で中央文革小組をアクセルとして用い、周恩来の行政処理能力、実務能力をブレーキとして用いてきた。しかし両者が激突したとき、毛沢東は周恩来の行政能力を選ばざるをえなかった。そしてこのような形で、自らの実力を静かに示し圧力とするのが周恩来一流の仕事のやり方、そして抵抗の仕方なのであった。
「伍豪啓事」問題
一九六七年一二月二三日、北京大学私書箱六四〇六号気付で、ある者が毛沢東に宛てて周恩来を密告した。それは一九三二年二月上海の新聞を賑わした「伍豪等脱離共産党啓事」事件であった(伍豪は周恩来の党活動用の名)。これは周恩来が共産党から脱党したとデマ宣伝し、共産党の影響力をそぐことをねらった陰謀事件である。しかし当時の上海の白色テロのもとで、共産党はこの記事を否定しようにもてだてがなく、大いに苦慮させられた。
これについて毛沢東は六八年一月、「これはかねてはっきりしており、国民党のデマである。毛沢東、一月一六日」と批語を書いた。しかし火種はこれで消えなかった。六八年五月、文革の混乱が拡大し「すべてを打倒せよ」の風潮が強まると、またもやこの問題を持ち出す者があらわれた。そこで周恩来は五月一九日、毛沢東に宛てて事情を説明する書簡を書かざるをえなかった。
毛沢東は周恩来書簡を閲読したのち、「文革小組の各同志に渡して閲読、保存せよ。康生、江青同志はすでに閲読済み」と批語を書いて、周恩来の主張をみとめた。
しかし一件落着したわけではなく、周恩来は一九七二年六月二三日、この問題についてわざわざ報告を行い、鄧穎超に録音を整理させている。そしてこの記録書類に七五年九月二〇日、周恩来は第四回目の手術台に上る前に震える手で署名したのであった。江青グループが周恩来打倒を意図しているため、周恩来は死後にこの問題が再燃することを防ぐ措置を講じていたのである。
周恩来は自らに降りかかる火の粉を払うためにたいへんな努力をしている。文化大革命がなかりせば、むろんこのような努力は不要なはずであった。周恩来のように名望のある革命家でさえも、捏造記事に悩まされたのであるから、無実のために泣いた革命家たちは大量にいたはずである。
幹部保護に奔走
ある論者は、文革期の周恩来の姿をつぎのようにえがいている。周恩来は絶妙の闘争技術をもって、多くの幹部を保護した。周恩来は一群、一群と闘争・批判にかけられる指導幹部を中南海に住ませたり、あるいは安全なところに隠した。彼はくりかえし、紅衛兵や造反派に対して宋慶齢など著名な人物を尊重するよう説いた。
彼は造反派に武闘ではなく、文闘をやるよう説いた。政協機関、民主人士の保護を指示し、一群の上層の民主人士に対しては直接保護する措置を採った。彼はパンチェン・ウルドニなど宗教界の指導者を保護した。サイフジンなど少数民族の代表を保護するよう電報で指示した。
銭学森、李四光、華羅庚など著名な科学者を方法を講じて保護した。闘争・批判にかけられ、あるいは解任された党内外の幹部にも、賃金待遇などを変えてはならないと批示し、かれらの生活を保証した。
時には周恩来は、毛沢東の幹部保護の批示にもとづいて、保護者のリストをつくったことがある。時には幹部保護の措置を採った後で、事後に毛沢東の支持をとりつけたこともある。たとえば周恩来は傅崇碧に命じて、李井泉、王任重、江渭清ら二〇数人の大区、省レベル責任者を秘密裡に保護したことがある。
しかし、このような努力にもかかわらず、文革期に党政軍幹部は大きな損失をこうむった。周恩来がすべてを処理することは不可能であったし、扱った場合もすべてが理想的というわけにはいかなかった。二月逆流以後、中共中央政治局は中央文革小組によって代替され、軍委常務委員会は軍委弁事組によって代替され、林彪、江青らが党政軍の大権を奪取した。このとき、幸いにも周恩来は、政治局常務委員会と文革ポン頭会に参加していたので、会議内部で道理を尽くして争い、損失をできるだけ減少させることができた。
いくつかの例をみてみよう。
六六年一二月から六七年一月までの五〇日間に、周恩来は外交学院造反派を計五回、累計二〇数時間接見した。そのうち半分の時間は陳毅(外交部部長)を正しくあつかうよう説得するためであった。造反派は陳毅打倒を通じて周恩来打倒にむすびつけようとしていたのであるから、周恩来が陳毅擁護に全力をあげたのは当然である。
賀竜(国家体育委員会主任)の保護にも大きな努力をした。六六年七月、賀竜は北京に軍隊をいれ、二月クーデタをおこそうとしている、と康生が誣告した。一二月、周恩来は賀竜が休息できるように国務院新アパートに移転させた。六七年一月七日、林彪がみずから賀竜を攻撃し、つづいて賀竜宅が紅衛兵によって家宅捜索された。
そこで周恩来は賀竜を中南海西花庁に移した。まもなく中南海にも二つの造反派組織がうまれ、中南海もまた安全を保証できなくなった。そこで周恩来は賀竜を西山某所に移した。
二月二二日、江青は賀竜問題について周恩来の態度表明をせまったが、周恩来は拒否した。しかし林彪、江青らは賀竜の隠れ家をつきとめ、周恩来の知らない場所にかくしてしまった。賀竜は迫害され六九年六月九日死去した。周恩来は林彪事件のあとで賀竜の死去をようやく知った。宰相周恩来はコケにされ、賀竜は惨死したのである。
宰相の限界
彭徳懐のばあい、六六年一二月、江青が造反派に指示して成都から北京に連行させた。彭徳懐の所属組織から中央に請訓があったので、周恩来は成都軍区の兵士が紅衛兵に同行すること、彭徳懐の安全を保証すべきことなどを指示した。彭徳懐に対して六七年七月審査委員会ができるまでは、監視中とはいえのちのような迫害拷問はなかった。彭徳懐保護も龍頭蛇尾におわり、彭徳懐は拷問により惨死した。
劉少奇の場合はどうか。六六年八月四日、政治局生活会で江青は劉少奇、鄧小平 批判をはかったが、終始沈黙をまもったのは周恩来と陶鋳(当時中央宣伝部部長)だけであった。九月紅衛兵万人大会がひらかれたさい、周恩来の講話中に「劉少奇打倒」のシュプレヒコールがあがると、彼は聴衆に背中をむけて反対の意を表明した。一〇月中旬、天安門に劉少奇打倒の大字報が貼られると、童小鵬を派遣して、やめさせた。
六七年一月、江青の煽動のもとで清華大学井岡山兵団のカイ大富が劉少奇夫人王光美を清華大学につれだすと、周恩来はただちにカイ大富に電話をかけて、王光美を帰宅させるよう指示した。七月、江青、康生、陳伯達らが一〇〇余の造反派組織五〇〇〇人を動員して中南海西門外にテントをはり、劉少奇を中南海からつまみだせとスピーカーでがなりたてた。周恩来は造反派組織の指導者にみずから電話をかけてやめるよう説得した。劉少奇は六九年一一月一二日開封で惨死した。
周恩来の幹部保護には大きな限界のあったことはあきらかである。そもそも文革をはじめなければ、幹部保護の必要はなかったはずである。文革の発動にはなすすべなく、その後標的の保護にまわり、しかも結局はそれに成功していない。文革期の周恩来の役割はほとんどピエロのような印象をあたえる。
このように幹部保護も結局は失敗し、あるいは紅衛兵との実りのない対話のために、莫大なエネルギーをついやしている。周恩来は文革期に、連続して工作すること一七、八時間から二十数時間におよぶことがしばしばあった。時にはその間食事をとる時間さえなかった。
周恩来自身医者に「文革のために寿命が一〇年ちぢまった」とのべている。六七年二月三日、気分が悪くなり、心臓病が発見された。にもかかわらず、この夏徹夜で仕事をするはめになった。六八年九月、総理弁公室が廃止され、周恩来のもとには二人の秘書がのこされただけになった。それでも七〇歳の周恩来ははたらきつづけた。
「もし周恩来が職務を放棄すれば内戦情勢の悪化は必至であった。もし周恩来が公然と自己の態度を表明すれば、英雄になれたであろうが、その境遇は予想だにできないほどのなのとなったであろう」と忖度した論文もある(力平論文)。寿命を一〇年もちぢめながら、文革の嵐に翻弄されている老周恩来の姿に、私はこの宰相の力量の限界を感じないわけにはいかない。
林彪事件への的確すぎる対応
林彪は文化大革命を推進し、毛沢東の「親密な戦友」とたたえられ、ナンバーツーの地位にまでのぼりつめたが、権力闘争にやぶれ、クーデタまでおいつめられた。林彪派のクーデタ計画書といわれる「五七一工程紀要」は毛沢東独裁をこう批判している。「彼(毛沢東)は真のマルクス・レーニン主義者ではなく、孔孟の道を行うものであり、マルクス・レーニン主義の衣を借りて、秦の始皇帝の法を行う、中国史上最大の封建時的暴君である。(毛沢東の説く社会主義とは)実質的には社会ファシズムである。彼らは中国の国家機構を一種の、相互殺戮、相互軋轢の肉挽き機に変え、党と国家の政治生活を封建体制の独裁的家父長制生活に変えてしまった」。
当時記録された限りで、最も厳しく毛沢東を弾劾したものである。独裁者毛沢東の酷薄さを十分に剔抉した発言である。毛沢東の片腕として林彪事件を実際に処理したのは、周恩来であった。
林彪派が南方を巡視する旅行中に毛沢東を謀殺する陰謀に失敗し、広州に独立王国をつくるべく、専用のトライデント機二五六号を山海関空港にうつした秘密裡の行動は、林彪の娘林立衡によって周恩来に密告されたとされている。この密告が、北戴河に駐屯する八三四一部隊(要人警護の特別部隊)の将校を通じて、周恩来のもとにとどいてからの彼の対応は、まさに精緻なコンピューターが始動したごとくであり、幹部保護にみせた弱々しい姿とは別人のようである。
周恩来は二五六機を北京にもどすよう指示するとともに、追及をはじめた。周恩来は空軍司令、総参謀長、そして周恩来総理の連名の許可がなければ同機の離陸を許さぬよう命じた。しかし、林彪機は強行離陸した。
周恩来は人民大会堂の執務室(文革期には人民大会堂にも執務室をもうけていた)から中南海の毛沢東に報告するとともに、安全のために毛沢東を人民大会堂に移し、事件が一段落するまでの三日三晩、周恩来は一睡もせずに人民大会堂の執務室で指揮をとりつづけた。
まず華北地区のレーダー基地に監視を命じ、さらに全国にむけて飛行禁止命令をだした。七一年九月一三日午前一時半ころ、空軍司令呉法憲が電話で指示をもとめてきた。専用機はまもなく国境をでるが、妨害すべきか、それとも見逃すのか、と。周恩来が毛沢東の指示をあおぐ。毛沢東いわく「雨は降るものだし、娘は嫁に行くものだ。どうしようもない、いくにまかせよ」。レーダーの機影は一時五五分に突如きえた。
一四日朝、モンゴル政府外交部は中国大使許文益をよび、中国機の領空侵犯、墜落事件について抗議した。一五日、許文益ら中国大使館関係者は墜落現場をおとずれ、単なる不時着の事故として処理し、九つの遺体は一六日モンゴルの習慣にしたがって火葬せずに現場に埋葬された。
林彪事件に対する周恩来の処理は、あまりにも的確であったために、かえってその後、さまざまな憶測がくりかえしあらわれることになった。秘密保持が徹底していたために、中国政府外交部でも党核心小組の符浩(元日本大使)らごく一部の者しか事情をしらなかった。実は許文益大使をはじめ、モンゴル駐在大使館の一人として、だれの遺体かをしらずにモンゴル政府と折衝し、遺体を現場に埋葬したのであった。
皇帝の一声
林彪事件後、毛沢東は文化大革命の失敗を自覚して軌道修正を図ろうとしていた。七二年一月六日文革派の標的となった陳毅が死去し、一〇日に追悼会がひらかれた。毛沢東は病をおしてこれに出席するとともに、「文革の被害者鄧小平」の名を口にした。
この直後に鄧小平 は二通の自己批判書簡を書いた。七二年八月三日付鄧小平 書簡に対して、毛沢東は八月一四日付で次の批語を書いた。
「総理に閲読してもらったのち、汪主任(汪東興中央弁公庁主任)に手渡して印刷し、各同志(政治局委員)に配付されたい。鄧小平 同志の犯した誤りは重大である。しかし劉少奇とは違いがある。
1)彼は中央ソビエト区で闘争にかけられたことがある。すなわち鄧小平 、毛沢覃、謝唯俊、古柏、四罪人の一人であり、いわゆる毛派の頭として失脚した人物であった。彼を闘争にかけた材料は『二つの路線』『六大以来』の二書に収められている。彼を闘争にかけたのは張聞天である。
2)彼には歴史問題はない。すなわち敵に投降したことはない。
3)彼は劉伯承同志を助けて戦い、戦功があった。
このほか、都市の解放以後、良いことをしなかったわけでもない。たとえば代表団をひきいてモスクワに行き交渉したが、彼はソ連修正主義に屈伏しなかった。これらの事を私は過去にいくども語ったが、いまもう一度言っておく。毛沢東。七二年八月一四日」
この二〇〇字足らずの「毛沢東批語」によって鄧小平 の復活が決定したのであるが、もし周恩来の機転なかりせば、鄧小平 復活はもっと遅れた可能性がある。陳毅の告別式における毛沢東の態度から心中を忖度し、王震を通じて鄧小平と密かに連絡をとり、自己批判の書簡を書くようすすめていたのであった。
こうした舞台裏を毛沢東がどこまで承知していたかはわからないが、皇帝毛沢東の片言隻句は、すべて政治的なメッセージとうけとられていた。毛沢東晩年の政治のあり方を示すヒトコマである。
鄧小平 復活
七三年二月、鄧小平 は家族ともども三年半の監視生活を送った江西省南昌から北京に戻り、三月七日党の組織生活と国務院副総理の職務を回復した。八月の第一〇回党大会では中央委員に選ばれた。
七三年一二月一二日、中南海の毛沢東書斎で政治局会議がひらかれた。書斎によびつけられて毛沢東の発言に耳を傾ける政治局委員たちの態度は、党の会議に参加したというよりは、長者の訓導と教誨をうける姿に似ていた。
毛沢東は「政治局は政治を論議せず、軍事委員会は軍事を論議しない」と、政治局および軍委を批判しつつ、こう宣言した。
「いま、一人の軍師に来てもらった。鄧小平 だ。政治局委員、軍委委員になってもらうので通知されたい」「政治局に秘書長をもうけてはとおもうが、この名称がよくないならば、参謀長になってもらおう」。在席の政治局委員は静かに聞くのみ。
毛沢東が傍らの鄧小平 にむかっていう。君は人さまからいくらか恐れられている。君の性格をしめす二つの言葉は「柔中に剛あり、綿中に針を蔵す」だ。外面は穏やかだが、シンは鉄のように堅い。
風が吹けば桶屋が儲かるような論理だが、林彪事件のゆえに、陳毅が名誉回復し、鄧小平 の復活に連動した。そして、復活した鄧小平 は「巻き返しはやらない」といった自己批判はかなぐり捨てて、再び脱文革路線を進めた。一九七六年四月五日の第一次天安門事件を契機として、またも失脚したが、“四人組”粉砕以後返り咲いて、改革開放の路線を大胆に進めることになる。
鄧小平 はその後、記者の問いに答えて次のような周恩来論を語っている。「われわれは早くから知り合いになり、フランス苦学時代には一緒に暮らした。私にとって終始兄事すべき人物であった。われわれはほとんど同じ時期に革命の道を歩いた。彼は同志と人民から尊敬された人物である。文化大革命の時、われわれは下放したが、幸いにも彼は地位を保った。文化大革命のなかで彼のいた立場は非常に困難なものであり、いくつも心に違うことを語り、心に違う事をいくつもやった。しかし人民は彼を許している。彼はそうしなければ、そう言わなければ、彼自身も地位を保てず、中和作用をはたし、損失を減らすことが出来なかったからだ」。
鄧小平 は宰相周恩来にも言論の自由がなかった、と言いたいごとくである。これは一体どうしたことか。無数の革命家たちの累々たる死屍の上に樹立されたこの政治体制の不条理をよく物語るものであろう。
スターリン「大粛清」と文化大革命
毛沢東は五六年一二月にスターリンの反革命粛清のやり方を批判してこう述べたことがある。「われわれはソ連の経験を学ぶよう提起しているが、ソ連の遅れた経験を学べといったことはない。ソ連には遅れた経験はあるか? 然り、たとえば大粛清である。ソ連では公安部門が実行したが、中国では機関、学校が実行し、地方党委員会が指導した。公安部門が主な責任を負ったのではない」。
毛沢東はここで建国直後に行われた反革命粛清工作がソ連のマイナスの経験を教訓としつつ、成功裡に行われたと総括している。しかし、問題はこれで終わらなかった。この一〇年後に文化大革命が行われたが、これは反革命粛清工作の継続の側面をもっていた。
文化大革命とソ連の大粛清の比較を論じた興味ふかい論文がある。
「大粛清と文化大革命の悲劇には、共通の歴史的原因、社会的原因がある。両者ともに集権体制、個人崇拝、経済的後進性、思想認識の一面性、封建独裁制の残滓などの要素がかさなって作用した結果である」(銭澄、孟咸美「“大粛清”と“文化大革命”」『揚州師院学報』八九年一期)。
この論文は、両者に共通する要素として、1)政治体制の面では個人崇拝、集権体制、官僚主義などの矛盾が激化していたこと、2)社会主義建設の過程で、経済的後進性という条件のもとで農業集団化、工業化を加速しようとして矛盾が激化したこと、3)イデオロギー面では、その理論に欠陥があったことを指摘している。
くわえて、ソ連におけるツァーリズムの遺制、中国における封建遺制がそれぞれの社会心理の基礎として存在したと分析している。
筆者の問題意識は次の一句に示されている。「歴史は改革を要求している。時代は改革をよびかけている。社会主義国は経済体制改革を行うだけでなく、政治体制改革とイデオロギー領域での改革を行わなければならない。そうして初めて大粛清と文化大革命のような悲劇の再演を避けることができよう」。
この論文の基調は、天安門事件直前の中国知識人界の風潮を反映しているように思われる。しかし天安門事件以後、政治体制改革に関わる議論は途絶えた。
4.新外交と孤独な皇帝
ソ連主敵論への転換
文革期の中国をとりまく異常な熱気をささえていたのは、ベトナム戦争である。ベトナム戦争がエスカレートし、中米戦争に拡大するという危機感のなかで、彼らは社会主義を守るための体制を強化しなければならないと考えていた。
しかし、六八年のチェコ事件(プラハの春の武力鎮圧)以後、中国はソ連を「社会帝国主義」と断罪するようになり、中ソ関係は極度に悪化し、六九年には国境衝突さえ頻発した。いまや敵国はアメリカ帝国主義だけではなく、ソ連社会帝国主義がこれに加わった、と毛沢東は判断した。古来、遠交近攻という格言があるから、遠いアメリカよりは、近くのソ連が危険な敵だと判断したのかもしれないし、ソ連の修正主義者と中国の修正主義者(文革の標的とされた実権派たち)の結託を恐れたのかもしれない。いずれにせよ、毛沢東はここで昨日の敵アメリカと手を結び、新しいより危険な敵ソ連と対決することを決めた。
毛沢東と周恩来が対米接近の秘密接触をはじめたとき、毛沢東とその親密な戦友林彪との矛盾が爆発した。林彪が毛沢東暗殺に失敗し、逃亡過程で墜死する劇的な事件が発生した。つまり、アメリカ主敵論からソ連主敵論への転換のためには、親密な戦友という犠牲が必要だったことになる。
ニクソン訪中秘話
周恩来・キッシンジャー間の秘密外交をへて、七二年二月二一日、アメリカ大統領リチャード・ニクソンは北京を訪問し、毛沢東、周恩来と会見した。
ニクソンが毛沢東の書斎に入室したとき、彼は秘書に助けてもらって立ちあがるほど健康が衰えていた。毛沢東は「もううまく話せない」と弁解する。傍らの周恩来は後で気管支炎のためと説明したが、ニクソンには中風ではないかと思われた。当初は一五分間の予定だったが、毛沢東が議論に熱中し、ついに一時間に及んだ。
キッシンジャーがハーバード大学で教鞭をとったとき、学生に毛沢東の著作を読ませたことに言及すると、毛沢東は「私の書いたものはどうということはない。学ぶべきものなどない」と謙遜した。ニクソンが「主席の著作は一つの民族を突き動かし、世界全体を変えた」と言ったところ、「私には世界は変えられない。北京郊外のいくつかのところを変えられるだけだ」と答えた。
ただ、毛沢東の頭脳は明晰であった。「われわれ共通の老朋友蒋介石委員長はこれが嫌いだ」といい、手を動かした。そのジェスチャーは米中会談を指したのかもしれないし、大陸を指したのかもしれない。「彼(蒋介石)はわれわれを共匪と呼んでいる。最近彼がしゃべった講話を読んだかね」「蒋介石が毛主席を匪と呼ぶとき、主席は彼をどう呼ぶのですか」とニクソンがたずねたところ、毛沢東は笑い出した。
周恩来が答える。「一般的にいえば、われわれは“蒋幇”と呼ぶ。われわれが彼を匪と呼ぶと、彼は逆にわれわれを匪と呼ぶ。要するに、われわれはたがいに罵倒しあっている」。ここで、毛沢東がすかさず釘を刺す。「実はわれわれと彼(蒋介石)の交際はあなた方と彼の交際よりもはるかに長いのだ」と。毛沢東はここで後に「上海コミュニケ」に盛り込まれた「中国は一つ」という考え方を表明していた、とニクソンは解釈した。
ブッシュのみた毛沢東
ブッシュ大統領は、かつて中国駐在連絡事務所(大使館の前身)代表を務めたことがある。毛沢東との会見に二回同席している。一回目はキッシンジャーの訪中時(七五年一〇月二一日)、もう一回はフォード大統領の訪中時(七五年一二月二日)である。
キッシンジャー一行が毛沢東の書斎にはいると、八一歳の毛沢東はソファに腰掛けていたが、王海容、唐聞生に助けられて立ちあがった。
キッシンジャーが健康状態を聞くと、毛沢東は頭を指さして「この働きは正常で、食べることも寝ることもできる」といい、今度は太ももをたたいて「これは使いにくい。歩くときに立てない。肺にも病気がある」と説明した。「要するに私は訪中者のために準備された陳列品にすぎない」と冗談をいった。
部屋を見渡すと、机上にはたくさん本がおいてあり、部屋の対面の机上には注射針や小型の酸素マスクなどが置いてあった。毛沢東いわく、「もうすぐ神に会いに行く。神の招待状をうけとっている」。キッシンジャーが笑いながら「うけとってはなりませぬぞ」という。毛沢東が紙切れに苦労して数文字書いた。王、唐が立ちあがって読むと「DOCTORの命令を聞く」と書いてあった。DOCTORの命令と書いたのは、キッシンジャー博士と嫌いな主治医の双方をさしていた。
毛沢東は話題をかえて片手で拳骨をつくり「あなた方はこれだ」といった。ついで別の手から小指一本を突きだし「われわれはこれだ」といい、「あなた方には原爆があるが、われわれにはない」といった。中国には一〇年も前から原爆はあるのだが、彼はアメリカの軍事力の強大さを強調したつもりなのだろう。
キッシンジャーが「中国側は軍事力がすべてを決定するわけではないという。米中双方は共通の相手(ソ連)をもっている」と指摘したところ、毛沢東はまた紙に向かって「YES」とかいた。
毛沢東は台湾問題について「時期が来れば解決できる。おそらく百年あるいは数百年必要だろう」と述べた。ブッシュはこのとき、中国人がこのような表現を用いるのは外国人に深い印象をあたえようとしてのことである。彼らは時間と忍耐心という武器を用いて性急な西洋人に対処しようとしている、と判断した。毛沢東は話しているうちにますます興に乗った。頭を動かし、ジェスチャーを示していう。「神はあなた方を助けてくれるが、われわれを助けてくれない。われわれが戦いを好む者であり、共産主義者であるからだ」。
周恩来外交の高評価
国務院総理としての周恩来の活動はさまざまな分野にわたる。とりわけきわだっているのは外交活動である。新中国の外交を周恩来をぬきにして考えることはできないほどである。これは『周恩来外交文選』におさめられた八〇篇の講話や談話がよくしめしている。
『研究周恩来──外交思想と実践』と題する研究書もある。これらの本から、五四年のジュネーブ会議、平和共存五原則の提起、日中関係正常化、台湾問題と米中関係改善、国連の議席回復問題、など新中国の外交的課題のほとんどすべてにおいて、周恩来が大活躍したことがわかる。では周恩来外交の核心はなにか。
王文博は中仏国交回復の例から、つぎの四カ条にまとめている。1)各国を区別してあつかうこと、働きかけをたくさんおこなうこと。2)相違点を棚あげしつつ、共通点をさがすこと。3)平等な態度で協議をすすめ、相手側の選択を尊重すること。4)原則を堅持しつつ、たくみに妥協すること。
1)ではフランスの立場がアメリカやイギリスとは異なることに着目し、フォール首相の訪中のためにさまざまな働きかけをおこなったことをさしている。周恩来は国内において統一戦線づくりにたくみであったが、外交は中国からみた国際的統一戦線づくりであり、逆にいえば敵陣営に対する各個撃破である。
周恩来の才能と知性に感服した外国人はすくなくない。キンシンジャーは、いままでに会った人物のなかでもっとも深い感銘をうけた二、三人のうちの一人にかぞえ、「上品で、とてつもなく忍耐つよく、並々ならぬ知性をそなえた繊細な人物」と評している。ハマーショルド(元国連事務総長)は「外交畑でいままで私が出あった人物のなかで、もっとも優れた頭脳の持主」と断言している。
これらの証言を引用しつつ、『周恩来伝』を書いたジャーナリスト、D・ウイルソンはケネディやネルーと周恩来をくらべ、「密度の濃さが違っていた。彼は中国古来の徳としての優雅さ、礼儀正しさ、謙虚さを体現していた」と最高級のほめ方をしている。周恩来にほれこんだ日本人もすくなくないが、代表的な一人をあげるとすれば、故岡崎嘉平太(元日中経済協会顧問)がいる。私はいくどか岡崎老の周恩来への傾倒ぶりに接する機会があった。
周恩来の才能が外交面でとくに目立つのは、周恩来の個性とかかわっているようにおもわれる。周恩来の才能はあたえられた戦略のなかでどのように戦術を駆使して目的をたっするか、という仕事のすすめ方のなかで最もよく発揮され、その過程と結果はだれをも感服させるようなたくみさであった。米中接近への思惑は、脱文革の意図を秘める周恩来と継続革命をねらいつつ方向転換を模索する毛沢東の間に矛盾があるし、また米中間には台湾問題という実にやっかいな争点がひかえていた。これら錯綜した糸のもつれを一刀両断ではなく、根気よく解きほぐしていくような仕事を、周恩来は用意周到にすすめて成功させたのである。
毛沢東の江青批判
一九七二年秋、アメリカの女性中国研究者ロクサヌ・ウイトケ(ニューヨーク州立大学助教授)が訪中した。彼女は中国のウーマン・リブについての本を書く予定で、中国対外友好協会は、鄧穎超(周恩来夫人)、康克清(朱徳夫人)など、この分野の先達との会見を予定していた。ところが江青がこの話を聞きつけ、自ら周恩来に電話をかけ、ついに六日間つきあい、六回にわたってしゃべりまくった。
江青の談話記録は十数冊のタイプ稿に整理され、周恩来、張春橋、姚文元のもとに審査のために回された。周恩来は数十万字の原稿を読んだが、機密にかかわる部分があるので毛沢東のもとに回覧し、封印措置をとった。著者ウィトケは『江青同志』の名で出版をすすめていたので、中国側は外交官を使って版権を買いとり、中国に送った。
毛沢東は江青をたいへん怒り、「孤陋にして寡聞、愚昧にして無知。直ちに政治局を追い出し、袂をわかつ」と批語を書いて、周恩来のもとにもどした。とはいえ、毛沢東は怒りはしたものの、実際に江青を処分する決意を固めたものではないと判断した周恩来は、しばし執行を延期するほかなかった。
七四年七月一七日、毛沢東は政治局会議を主宰したさい、面と向かって江青を批判した。「江青同志、君は注意しなさい! 他人は君に不満があっても面と向かっては言いにくい。君はそれを知らない」。夫婦間のこうしたやりとりのあと、毛沢東は在席の政治局委員たちにこう言明した。「聞いたかね。彼女は私を代表していない。彼女は自分を代表できるだけだ。彼女に対しては一を分けて二となす、の態度をとる。一部はよいが、一部はよくない」。
政治局会議での夫婦喧嘩というのも妙なものだが、実際には別居してすでに一〇年であるから、元夫婦の対話である。ここでの議題は、イタリアの映画監督アントニオーニの映画であった。周恩来が許可してこの映画の撮影が行われたが、江青はこれに難クセをつけ周恩来を陥れようとしていた。最後に毛沢東はこう言った。「彼女は上海幇だ。君たちは注意したまえ。四人の小セクトをつくってはならない」。
四カ月後の一一月一二日、毛沢東は江青への書簡にこう批語を書いた。
「あまりでしゃばるな。文件を批准してはならない。お前が(黒幕となって)組閣してはならない。お前は怨みを買うこと甚だしい。多数の者と団結しなければならない。申し渡す」「人は己れを知る明をもつことを尊しとする」。
なぜ老人が皇帝たりえたのか
江青は四月二七日の政治局会議で自己批判し、さらに後日自己批判書(原文=書面検査)を書いた。これに対して毛沢東は七五年五月三日こう指摘した。「“四人組”問題は(七五年)前半に解決できなければ、後半に解決する。今年中に解決できなければ、来年解決する。来年解決できなければ、再来年に解決する」。毛沢東のいう「解決」の意味はよくわからない。ただし、華国鋒はこの批語にもとづいて四人組逮捕を敢行した。
晩年の毛沢東は四人組と周恩来、鄧小平らの間でゆれていた。とくに最後の批語は未練たっぷりであり、解決したいのか、したくないのかよくわからない。毛沢東の老衰ぶりがよくあらわれている。
林彪事件以後、毛沢東は急速に老けこみ、ニクソン訪中前後から外国賓客の接見はすべて自宅書斎でおこなっている。七三年八月の一〇回党大会には人民大会堂に顔をみせたが、通常の政治局会議はこの部屋にメンバーを呼びつける形でおこなわれた。七四年一〇月から七五年二月まで一一四日間を故郷の長沙で暮らしたのを除けば、外出は北戴河へ静養にいく程度であった。
このような老人が権力の座にすわりつづけることができたのはなぜか。制度的には党の主席として、軍隊の指揮権を含む権限を一手に掌握していた。文革を通じて、毛沢東の権威はほとんど神格化していた。地位をおびやかすライバルは、惨死するか(彭徳懐、劉少奇、林彪など)、あるいは去勢されていた(たとえば周恩来)。
要するに、毛沢東は中南海の厚い壁の外にほとんど出ることなく、そこは要人警護の八三四一部隊によって厳重に守られていた。権力奪取の直前、毛沢東自身が集団指導を呼びかけていた党内民主主義はすでに片鱗さえなく、毛沢東は皇帝そのものであった。
宰相の不自由な晩年
江青をはじめとする四人組の執拗な攻撃に周恩来はどのように対処したのか。一九七五年三月二〇日、周恩来は毛沢東宛てに病状を知らせる書簡を書いた。
「今年の会議後(七四年一二月~七五年初めの四期全国人民代表大会を指す)、大便に毎日潜血が混じり、便通もよくない。そこで三月のヒマを見てバリウム検査を行い、大腸の肝臓に近い部分に腫瘍を発見したが、クルミほどの大きさである。もしこの腫瘍が大きくなれば腸を塞ぐことになる。この大腸内の腫瘍の位置は、四〇年前に私が沙窩会議(三五年八月、毛児蓋ちかくでひらかれた政治局会議)のさいに患った潰瘍が治ったところであり、まさに主席がわれわれを導いて草地を通過したとき以来、今日まで生きてきたものである。治った瘡蓋がいま腫瘍になった。良性であれ悪性であれ、手術して採るほかに治療方法はない。政治局の四人の同志(王洪文、葉剣英、鄧小平、張春橋─周恩来原注)は医療組報告を聞き、レントゲン写真とビデオを見て手術に同意している。以上を報告し、主席の批准を求める……」。
宰相の手術ひとつでさえ、許可が必要なほど皇帝の権力は肥大化していた。周恩来は中国人民を革命に動員するシンボルをつくるために、毛沢東神話の形成に尽力したが、その神話は文革期に決定的に成長し、変態し、いまやこのような形で周恩来を呪縛するにいたっていた。
周恩来は七五年末に一三回目の手術を行ったが、病状は進む一方であった。見守る葉剣英に対してこう遺言した。「闘争の方法に注意しなければならない。たとえどんなことがあれ、大権を彼らの手に渡してはならない……」。彼らとはむろん四人組をさしていた。
七六年一月八日午前九時五七分、周恩来の心臓が停止した。停止までの十数時間、周恩来の病状は、不断に毛沢東の許に報告されていた。このとき毛沢東はベッドに横たわり、『魯迅選集』を読んでいた。正午に昼食をとったあと二時間寝て、午後三時すぎに政治局から逝去訃告の清刷りが届いた。
孟錦雲は毛沢東の精神状態が悪くないことを見届けてから周恩来の訃報を告げた。彼女はいつものように読みあげた。「中国人民の偉大なプロレタリア階級革命家、傑出した共産主義の戦士周恩来同志は、癌のために薬石効なく……」。毛沢東はゆっくり目を閉じて眉を固くし、まもなく涙が溢れ、頬に流れ、首にまで流れた。毛沢東は一言も発しなかった。
周恩来の葬儀は、七六年一月一五日午後に行われた。車椅子、酸素マスク、一切の救急装置などが手配され、毛沢東が葬儀に出席する手筈がととのえられていた。しかし一四日夜、毛沢東は坐れないだけでなく、まったく立てないほどの状態だった。孟錦雲が汪東興に対して、周恩来葬儀の件を毛沢東に知らせるべきかどうか指示をこう。汪東興は「葬儀に出席されたいとの通知を主席に出していない。君たちは出席の有無を主席にたずねてはならない」。こうして毛沢東は周恩来の葬儀を知らされさえしなかった。
毛沢東の欠席はさまざまの憶測をよんだ。「毛沢東は他のいかなる者にも、毛沢東の威望を超えることを許さない」「周恩来が病院から出て四期全人代の政府工作報告を行ったとき、人民大会堂の爆発的な拍手は数分つづいた。毛沢東は現場でその熱烈な場面を見て嫉妬の念を禁じえなかった」などなど。これらの憶測について孟錦雲から、晩年の毛沢東を取材した郭金栄は、こうコメントしている。
「晩年の毛沢東がほんとうに嫉妬深くなったとしても、彼の良心、ヒューマニズム、感情が嫉妬によってなくなるものであろうか」。周恩来死後の一時期、毛沢東の顔から笑みが消え、沈黙の続くことが多かった。
遺骨は祖国の山河にまくべし
七六年一月一五日、周恩来の追悼会のあと、鄧穎超未亡人は身辺の人々、医療関係者などに、遺骨は祖国の山河にまくこと、そうすれば肥料となり、魚の餌にできる。また遺体は解剖用に献体せよといいのこしたことを明らかにした。遺骨を空中からまいた経緯はこうである。
一月一一日、周恩来の遺体は大衆の見守るなかで北京西郊の八宝山で火葬され、遺骨は北京労働人民文化宮の霊安室に安置された。一月一五日午前、二台の紅旗乗用車が中南海西門を出て通県張家湾付近の三間房空港に着いた。下りたのは空軍副司令員、北京衛戌区司令兼八三四一部隊政治委員であり、会議室に消えた。
そこに待機していた空軍某特運団一大隊副隊長胥従煥、二中隊飛行員唐学文に対して、張副司令員は、周恩来の遺骨をまく飛行任務を命じ、「この任務は機密性が高い。ごく些細なことも他言無用」と厳命した。
その日の夕刻、王洪文が釣魚台一一号楼から電話で計画の執行を命じた。その頃労働人民文化宮の正門前には数千の市民があつまっており、人ごみの中には私服の警官も多数含まれていた。何者かが周恩来遺骨を強奪しようとしているとのウワサも公安部に届いていた。
六時四〇分、一台のベンツが五台のオートバイに守られて文化宮を出ると群衆が追うが、これはオトリである。ついで中古のジープが文化宮をでる。護送する偽装警察車が後を追う。ジープはまもなく三間房空港につき、七二二五号機のそばに停車した。三〇×二〇センチの白い布袋四個が飛行機につまれ、離陸した。機長が王洪文の命令通りに密雲ダム上空で高度を五〇〇メートルにさげ、農薬散布器のハンドルを回すと、四個ともに密雲ダムに落ちて行った(未名「周恩来的骨灰撒在何処?」『中国之春』一九九〇年八月号)。この記述は高振普「最後の使命」(『人民日報』九一年七月二一日)によってうらづけられている。
周恩来は遺骨をまくことを遺言して死んだが、ここには周恩来の最晩年の苦悩が象徴されているようにおもわれる。四人組から執拗な攻撃をうけていた周恩来は死後に墓をあばかれるような危険さえ憂慮していたのではないか。「遺骨強奪のウワサ」などは、周恩来後の指導権をめぐって四人組と鄧小平ら実務派との権力闘争がつばぜり合いの段階にあったことを示唆している。民衆は四人組に対する嫌悪の情と周恩来追悼の念とをかさねて、慈母周恩来をしのんだ。特に、墓をつくることさえ禁じた周恩来の遺言は民衆の琴線に触れ、清明節の天安門事件(第一次)として爆発した。
老人、毛沢東
毛沢東の晩年身辺の世話をした女性が二人いる。張玉鳳(七一~七六年に毛沢東の生活秘書、機要秘書を務めた)と孟錦雲である。張玉鳳は回想録「毛沢東、周恩来二三事」をかいており、孟錦雲の回想は郭金栄『毛沢東的黄昏歳月』として一冊の本になっている。
孟錦雲は七五年五月二四日から七六年九月九日までの四八九日間、日夜使えた。張玉鳳との四時間おき、六交替シフトである。つまり、毛沢東が寝ているときも起きているときも、絶えず張玉鳳か孟錦雲がそばにいる形である。彼女たちは四時間以上つづけて寝ることは許されなかったので、睡眠薬を飲んで寝ることが普通だった。
毛沢東は七四年春に眼病を患い、診断したところ「老人性白内障」と診断された。このニュースは極秘にされ、周恩来、汪東興らごく少数の者にしか知らされなかった。七五年八月本人の同意を得て、手術が行われ成功した。
この手術を成功させたのは眼科医唐由之である。一時間ちかくの手術の間、毛沢東は京劇「李陵碑」のレコードをかけて気をまぎらした。この手術をうけるよう毛沢東を説得したのは孟錦雲であった。眼の癒えた毛沢東は、孟錦雲がカーキ色のスカートをはいてあらわれたのをとがめて「色がよくない。赤いスカートをはきなさい。赤いバラのような。私がプレゼントしよう」と提案した。孟錦雲が言いつけ通りにしたところ毛沢東はたいへん喜んだ。
あるとき孟錦雲は美容院に行くが、どんな髪型にしたらよいかとたずねた。毛沢東の答えは「短髪がよい。前髪は切り揃え、後髪はきっちりととのえるとよい」と実に具体的に指示した。後日、毛沢東好みの髪型のイメージは最初の夫人楊開慧の髪型だとわかった。
孟錦雲が身辺で仕えるようになったとき毛沢東はすでに病気がちの老人であった。「毎日一三、一四時間働き、往々深夜二、三時になってからようやく寝る」生活はもはや過去のものとなっていた。薬を飲み、食事をたべさせてもらい、眠り、本や文件を読んでもらい、決裁すること、そういう生活になっていた。
毛沢東は脳系統の病のために食事を飲み込むことが難しく、また手もひどく震え、箸も持てないので、張玉鳳が食べさせていた。毛沢東が水を飲み、薬を飲み、果物を食べるときは、孟錦雲が助けるという役割分担であった。
七二年に毛沢東が重病になったさい、別の病院から動員された看護婦兪雅菊が静脈注射したところ、少しも痛くなかった。毛沢東は大いに気にいり、以来注射は兪雅菊と決め、看護婦長にした。
毛沢東、晩年の読書『資治通鑑』
毛沢東は『資治通鑑』を愛読し、一七回読んだと語り、孟錦雲相手に皇帝論を展開している。いわく「中国の皇帝は面白いね。ある皇帝はデキるが、ある者はまるで大バカだ。だが仕方がないな。皇帝は世襲だから親父が皇帝なら息子がどんなにバカでも皇帝になる。これは息子をせめても始まらない。生まれたら即皇帝なのだから。二、三歳で皇帝になるという笑い話さえある」
「中国史には三歳の皇帝がいるが、三歳の赤ん坊が車を引いたという話は聞いたことがない。六歳でも車は引けない。皇帝になることと車引きになることと、どちらが難しいと思うかね。皇帝がバカだと、大臣どもがデタラメをやり、民百姓から掠めとる。民百姓が文句をいうと鎮圧するが、その方法は残酷極まる。『資治通鑑』にこう書いてあるよ。当時の刑罰の一つだが、囚人の腹を割いて腸を引っ張って歩かせるものだ。その苛酷さに民百姓が我慢できなくなれば造反だし、皇帝が鎮圧できなくなれば、それでオシマイだ」。
孟錦雲がたずねる。王安石と司馬光は仇同士でありながら、友人だったとはどんな意味ですか。毛沢東いわく、「この二人は政治的には仇同士だった。王安石は変法をやろうとしたが、司馬光は反対した。しかし学問上では二人は良き友であり、互いに認め合っていた。これは学ぶべきだね。政見を異にするがゆえに人さまの学問を認めないのは、あってはならない」。それが容易じゃないと孟錦雲は文革期の内ゲバの例をもちだす。
毛沢東は説得を試みたあと持論をくりかえす。「中国には二大史書がある。『史記』と『資治通鑑』だ。ともに才気はあるが政治的に志を得なかった境遇のなかで書かれたものだ。どうやら人は打撃をこうむり、困難にぶつかるのはまんざら悪いことでもなさそうだ。むろん、その人に才気があり、志がある場合の話だがね」。
ここで唐代の武則天の石碑の話になる。彼女が墓前の石碑に何も刻ませなかった故事は有名だ。私は八七年秋の訪中のさい、この碑の前で同行の人々とその理由を穿鑿しあった記憶がある。白紙のような碑面は、文字に書ききれないほど功徳が大きい意味だと解釈するのが通例である。
毛沢東は「功罪は後人に論評せしめよ」の意と解釈した。中国では由来「棺を蓋いて論定まる」という。毛沢東は武則天に托して自らの功罪評価を歴史にゆだねたのかもしれない。
毛沢東は読書が大好きであり、生命の最後の瞬間まで書物を手離さなかった。七六年九月七日、毛沢東は危篤になり、混迷状態にはいった。このときも意識がもどると、本を読みたいと語った。毛沢東の発音は曖昧で声は微かだった。慣れている張玉鳳や孟錦雲でさえも聞とりにくいことがあった。
毛沢東が紙と筆を求め、震える手で書いたのは「三」の文字。孟錦雲はすぐ理解した。「三木の本」であった。当時、日本で三木下ろしが始まっていた時期で、毛沢東は『三木武夫』(中国で独自に編集した人物紹介であろう)を手にしてうなずいた。
しかしその本を支えるだけの力がすでに失われていた。孟錦雲が支えてやると数分間読んだあと、ふたたび混迷に陥った。これが毛沢東、最後の本であり、読み終えることのなかった唯一の本となった。九月九日きことである。
毛沢東神格化を数字でみる
毛沢東が死んだとき、民衆はどう受けとめたであろうか。「救いの星」が落ちたのであるから、前途への不安を感じたであろう。テレビは泣きじゃくる人々の顔をクローズ、アップした。しかし、漠然とした開放感を感じた人々も少なくなかったはずである。特に、文革期に毛沢東思想に背いたカドで批判され、迫害されていた人々はそう感じたようである。とはいえ、毛沢東はほとんど神格化されていたから、いぜんとして神の祟りにも似た恐れを抱いていた。中国人はその心理を「余悸」(事後にまだ残っている恐怖)と表現した。
一九六六年三月から七六年八月までに全国一八二〇の印刷工場はすべて『毛主席語録』『毛沢東選集』『毛主席詩抄』を印刷する政治的任務をあたえられた。この一〇年間に『語録』六五億冊、『選集』八・四億セット(すなわち三三・六億冊)、『詩抄』四億冊、大きさの異なる五種類の「毛沢東肖像」二二億枚を印刷した。このほか党政府機関、企業、大学などの付属印刷所で一七億冊が印刷された。
中国の人口を八億として計算すると、一人当り毛沢東バイブル一五冊、毛肖像三枚になる。このために四〇〇万トンの紙を使用し、紙および紙パルプの輸入額は、一〇年のうち六年間、外貨使用の二位から五位を占めた。
ちなみに『バイブル』は一九世紀から二〇世紀末八〇年代までの一五〇年間に四〇億冊印刷されただけであるから、毛沢東バイブルは世界記録である。
一九六六年五月から六八年八月までの二年三カ月で全国二万の工場で毛沢東バッジが八〇億個以上製造され、六〇〇〇トンのアルミニウムおよびプラスチックを使用した。ちなみに五〇年代から七〇年代までの三〇年間に世界中で製造された各種記念章は二五億個にすぎない。八八年のソウル・オリンピックに際して各国で製造された記念メダルは一・八億個であるから、毛沢東バッジはオリンピック・メダル四四回分に相当する。
Ⅳ 巨星、落ちて
1 毛沢東の評価
天安門事件と四人組追放
一九七六年一月一五日に人民大会堂で追悼会が催され、鄧小平 が弔辞をのべた。二月三日毛沢東の提案により、華国鋒が国務院総理代理に就任した。これは鄧小平 が四人組との抗争にやぶれ、再失脚することを示唆ししていた。
四月四日の清明節に、天安門広場に数十万人があつまった。人民英雄記念碑の周辺で周恩来の遺影を前にして花輪を捧げて追悼し、あわせて四人組への抗議の意志を表明した。その花輪を深夜、当局が撤去したため、激昂した大衆が民兵や警官と衝突するという前例のない大衆暴動事件が広場でおきた。約三〇〇人が逮捕されたが、死者はなかった。この第一次天安門事件(四五運動ともよばれる)の黒幕は鄧小平だとして党中央は四月七日付で一切の職務から解任した。鄧小平 をみずからの後継者にしようとした周恩来の願いはひとまずついえた(毛沢東の死後、再復活した)。
当局はこれを「反革命事件」として処理しようとして、広場に掲示されたある詩の一節を引用した。
中国はすぎし中国にあらず
人民も愚かきわまるものにあらず
始皇帝の封建社会はふたたび返らず
われらはマルクス・レーニン主義を信奉する
マルクス・レーニン主義を骨抜きにした
秀才どもよ、引きさがれ!
毛沢東を秦の始皇帝になぞらえる評価が天安門広場にあらわれたわけである。毛沢東神話の崩壊、毛沢東時代の終焉をつよく印象づけるものであった。
九月九日、毛沢東が死去した。中国革命史の栄光と矛盾を一身に担ったかのような八三年の生涯であった。この巨星が落ちたとき、中国の民衆は前途への不安を感じると同時に、いくぶんかの開放感をおぼえたという。前者と後者の交錯するなかでその後の中国はいきつもどりつすることになる。
毛沢東の死後一カ月もたたない七六年一〇月六日、四人組が突然逮捕された。翌七日政治局は華国鋒を党中央主席と軍事委員会主席に任命した。華国鋒をしてこのような選択に導いたのは葉剣英、李先念ら故周恩来に近い指導者であったことはいくつかの資料からわかる。
四人組の逮捕を中国の民衆は、爆発的な歓声でむかえた。街中が人々の喜びで溢れたと伝えられる。毛沢東の継続革命という夢は、毛沢東が最後までこだわった革命の後継者問題さえ解決できないまま、音をたててくずれはじめた。
巨星評価の変容
二人の死去から五年後の八一年六月、一一期六中全会がひらかれ、「建国以来の党の若干の歴史問題についての決議」を採択した(以下「歴史決議」と略称)。毛沢東の功罪はこうかかれた。「毛沢東同志は偉大なマルクス主義者であった。文革において重大な誤りを犯したが、功績のほうが誤りよりも大きい。功績第一、誤り第二、である」と。
その後、改革開放の政策がすすむにつれて、中国の立ち遅れが人々によく理解されるようになり、毛沢東評価はますます厳しくなる方向へかたむいた。しかし、八七年初めに胡耀邦が失脚し、ついで八九年に趙紫陽が失脚するという揺れもどしのなかで、毛沢東評価はいくらか回復した。これは中国の国内政治をみるバロメーターとなっている。改革派が優勢なときは、毛沢東株が落ちて、保守派が優勢になると毛沢東株があがる形である。
「歴史決議」において、周恩来は、まず南昌蜂起の指導者としてあげられ、ついで五〇年代に知識人対策をうちだしたこと、文革期に林彪事件を処理したこと、党中央の日常工作を処理したことなどが言及されている。「歴史決議」当時は毛沢東の功罪評価がホットな論点であり、周恩来ら他の指導者についての記述はすくない。周恩来評価の変容はどうか。二つの型があるようにおもわれる。一つの型は、毛沢東株が落ちるときに、それを埋めあわすかのように、周恩来株があがるばあいである。周恩来をほめあげることによって、毛沢東をくさすのもこの類に属する。
もう一つは、毛沢東株、周恩来株が連動してさげるばあいである。長期的にはこの傾向がすすみ、それが民主化、近代化のメルクマールになるものと私はみている。
「両軍対戦」の思考パターン
中国のある知識人の毛沢東評価を紹介してみたい。李沢厚は中国社会科学院哲学研究所研究員であり、美学研究で知られている。彼の「一九四九~一九七六:中国イデオロギーの反省」は、毛沢東思想論の白眉だと私はおもう。
李沢厚はまず四九年革命までの毛沢東の努力が極左路線批判であったにもかかわらず、四九年以後の毛沢東の努力は右傾路線批判に重点が置かれた事実をあげる。革命前の極左批判は「革命の現実から出発したもの」であるのに対して、革命後の右傾批判は「主観的な願望、理想に基づくもの」にすぎなかった。つまり、極左批判の毛沢東は唯物論者だが、右傾批判の毛沢東は観念論者である。革命後の毛沢東の基本的立場は革命前の毛沢東が批判してやまなかった極左的観点そのものであったと李沢厚は分析する。
毛沢東思想の源泉は、建国に至るまでの戦争経験にほかならない。毛沢東は解放区で政治教育を通じて紅軍兵士に階級意識を植付け、苦しい闘争のなかでも恨み言を言わずに黙々と戦う戦士を養成した。つまり毛沢東は政治工作によって敵との決戦に勝利したが、この勝利体験が革命後に絶対化された。
こうして、「両軍対戦モデル」が思考パターン化した。たとえば唯物論と観念論の「両軍対戦」、地主階級と農民階級の「両軍対戦」、文芸上の現実主義と反現実主義の「両軍対戦」などである。彼の論文に「戦役、戦略、制高点、突撃、突破口」など軍事用語が多用されたことは、この間の事情を物語っている。
李沢厚はここで具体例をあげていないが、たとえば、毛沢東が文化大革命を根拠づけた論理、資本主義の道を歩む実権派という考え方などは、恰好の事例であろう。この観念が毛沢東の頭脳にひらめいたとき、昨日の同志劉少奇は、悪い同志ではなく、憎むべき仇敵に化したのではないか。さらに、中ソ対立が激化したとき、毛沢東はソ連をきっぱりと社会帝国主義と断定して、アメリカとの関係改善をはかったのであった。
李沢厚の紹介をつづけたい。四九年以後の毛沢東戦略は唯物史観にそむいている。たとえば農業集団化においては、集団化により生産関係を変革してこそ、トラクターを利用し、生産力を発展させられるとした。政治という上部構造を突出させてこそ経済という下部構造を統帥できるとした。
また思想改造によって共産主義の新人を育成できるとしたのは、すべて唯物史観にそむいている。スターリンは唯物論の著作を書いたあと、唯物史観の著作を書いたが、毛沢東が書いた『実践論』『矛盾論』『人民内部の矛盾』などはいずれも唯物史観の著作とはいえないし、また唯物論の直接的援用にすぎない。
毛沢東は生産関係とイデオロギーの変革を強調したが、現代的生産力、生産方式に求められる科学・法制・経営管理の合理化・大量の知識人の養成に向かうのではなく、逆の方向に向かった。毛沢東は自分で習熟している農業小生産と軍事闘争の経験、理想にもとづいて、大衆運動、犠牲精神を強調し、世界を変革しようとしていた。毛沢東は革命の対象をブルジョア階級、資本主義としていたが、その概念は終始曖昧なままに残された。
「両軍対戦モデル」においては、悪いもの、悪い現象はすべて資本主義範疇に、逆に良いもの、良い現象はすべて社会主義範疇に含めるという単純化が行われ、労働と搾取、公と私、善と悪の対立と闘争に矮小化された。特定の歴史的内容をもつはずの唯物史観は超時代的道徳倫理に変質させられた。「政治は道徳に、道徳は政治に」変質した。
封建政治の再生
くわえて高度に中央集権的な計画経済と各方面の一元化領導体制のゆえに、生産、分配、消費から就職、転居、恋愛、結婚などのプライベートな事柄に至るまで政治に属することになった。現実の生活のなかで人々は、社会の動力は経済ではなく政治なのだと錯覚するようになった。共産主義社会も経済発展の産物というよりは政治的、道徳的発展の結果だと錯覚するに至った。これはもはやマルクスの唯物史観とはひどく違ったものであり、小生産を保護する封建政治と封建道徳が新装をまとってあらわれたに等しかった。
毛沢東にとって文化大革命の目的は複雑であった。一方で新たな世界を追求する理想主義の一面があるかと思えば、他方で権力再分配のための政治闘争の側面がある。一方で官僚機構粉砕の夢があるかと思えば、他方で大権を誰か実権派に簒奪されたとする欲求不満がある。天の理を説くかと思えば、人の欲に妥協している。階級闘争をカナメとする闘争哲学、「闘私批修」の道徳主義、貧農下層中農に学ぶナロードニキ主義──これらが毛沢東晩年の思想の基本的特徴を構成している。
文革は理性を失った狂気のような革命運動とみられがちだが、その主体は普通の理知を基礎としていたのであり、公と私、義と利、集団と個人、共産主義の理想と二つの階級の闘争、など「普通の理性がうけいれた理性信仰、道徳信仰」である。
文革は理知の主宰下で理知を通じて行われたゆえに、精神的に絶大な苦痛、拷問をあたえたのだ。かくて人格の分裂、精神的傷跡、この世の惨劇が行われた。いいかえれば、マルクスの名において、理性の支配のもとで、自らが積極的に参加して行われたところにこそ、文化大革命の真の悲劇性がある。
建国後の毛沢東思想に対する内在的分析として、李沢厚の分析から教えられるところはたいへん多い。四九年までの奪権闘争においては唯物論者である毛沢東が全国的権力の奪取後は、自らは唯物論者であろうと志しつつも観念論の世界を徘徊するに至る契機が、四九年革命の勝利そのものにあることを論じて、あますところがない。
孫悟空としての毛沢東
ロンドン大学の毛沢東研究の大家スチュアート・シュラムは、毛沢東思想を三つのレベルに分けている。第一は毛沢東自身が長い人生の中で実際に考えたことである。これは各時期の著作にあらわされている。
第二は一九五〇年代から毛沢東の死に至るまでの、正統的教理としての毛沢東思想、つまり国家的イデオロギーとしての毛沢東思想である。これは『毛沢東選集』や『毛主席語録』『最高指示』などに示されている。
第三は毛沢東著作のうち、晩年の誤りを除いた部分である。
毛沢東の四九年革命に至るまでの大きな貢献を否定する人はほとんどあるまい。その貢献とは農村でのゲリラ戦を基礎とする闘争形態を編み出して、最終的には内戦を勝利に導き、国民党を打倒したこと、土地を農民に分配したこと、中国の独立と主権を回復したことである。
これに対して、四九年以降の仕事については毀誉褒貶が激しい。この点についてシュラムは、権力奪取への闘争において、毛沢東を偉大な指導者たらしめた特色のために、社会主義中国をつくり出す毛沢東の能力が制約されたと分析している。すなわちある意味で「皇帝」、ある意味で「農民の反乱者」、ある意味で「革命の指導者」と三つの顔をもった毛沢東は、「権力をめざす闘争」で人々を動員するうえでは非常に有効な象徴であった。しかし、中国が四九年以後に必要としたのは、「経済上、文化上、技術上の革命」を推進する指導者であり、毛沢東はそれにはむいていなかった、とシュラムは分析している。
農民の子・毛沢東の農民への愛着は、ゲリラ闘争時代の「農村革命」には有効であったが、愛着にひきずられて毛沢東は、農民に内在する理念と価値感から離脱できなくなってしまった。毛沢東はいわば、二〇世紀前半の中国にどっぷりつかっていたために、二〇世紀後半の問題を解決することができなかった、というのがシュラムの見方である。これらの点に毛沢東の歴史的限界を認めつつも、世界における中国の地位の復活は晩年の毛沢東の貢献だとして、シュラムは特にニクソン訪中の例を挙げている。
シュラムはまたいう。一九三五年の遵義会議から文化大革命直前の六五年までに毛沢東が発展させた思想、すなわち毛沢東思想とは、西欧に起源をもつ革命思想、西欧化を実現するための媒体であった。しかし、毛沢東が数十年にわたって努力してきた統合体系は特に文革の一〇年間に、その大部分が瓦解してしまった。
毛沢東は一九五八年、孫悟空を論じて「孫悟空は無法無天である。どうして皆は彼に学ばないのか。孫悟空は教条主義反対を断固としてやった」とほめあげたことがある。毛沢東自身、エドガー・スノウとの対話で「無法無天」を自任したのは有名なエピソードである。毛沢東=孫悟空のイメージにふれてシュラムはいう。孫悟空のイメージは、いかなる譬喩よりも、毛沢東の政治的役割の神髄とその深い二面性をあらわしている。毛沢東は永遠の反逆者であり、神の法であれ人の法であれ、自然法であれマルクス主義法であれ、いかなる法にも縛られることを拒絶しつつ、人民を三〇年間にわたって、一つのビジョンの追求にみちびいた。このビジョンは最初は雄大で、しだいに妄想となり、ついには悪夢となった。まさに竜頭蛇尾であり、無残な結末である。
毛沢東の読んだマルクス・レーニン主義
シュラムが毛沢東思想を「西欧に起源をもつ革命思想」ととらえたのと対照的に、中国の論者には、毛沢東思想全体に中国の封建的文化の伝統が色濃く投影されているとする見方が多い。
毛沢東思想についてシュラムのように「西欧に起源をもつ革命思想であり、西欧化を実現するための媒体であった」というばあい、問題は「起源」からの乖離であり、「西欧化」の内実であろう。
.先知によれば、毛沢東が中国語訳『共産党宣言』を読んだのは一九二〇年のことである。一九二六年には間接的な引用を通じて、中国語に訳されたレーニン『国家と革命』の内容を部分的に知った。一九三二年四月、紅軍が福建省第二の都市ショウ州を攻略したときに「一群の軍事、政治、科学の書物」が没収され総政治部に届けられた。彭徳懐と呉黎平の回想によれば、そのなかにはエンゲルスの『反デューリング論』、レーニン『二つの戦略』『左翼小児病』などの中国語訳が含まれていた。
延安時代に毛沢東の図書を管理していた史敬棠の回想によれば、毛沢東は延安でよく『二つの戦略』『左翼小児病』の中国語訳を読んでおり、これは中央ソビエト区から運んできたもので、ボロボロになっていた。これら二冊は少なくとも三回は読んでいた。
延安に着いて以後、毛沢東はマルクス・レーニン主義の書籍を広く集めるようになった。『資本論』(マルクス)、『空想から科学へ』(エンゲルス)、『レーニン選集』(ソ連で出版された中国語版)、『国家と革命』(レーニン)、『レーニン主義の基礎について』『レーニン主義の諸問題』(ともにスターリン。ソ連出版の中国語訳)、『マルクス・エンゲルス・レーニン・スターリン芸術を論ず』などであった。
解放戦争期に毛沢東がよく読んだのは『国家と革命』『左翼小児病』であり、四八年六月に中央宣伝部は毛沢東の指示にもとづいて、全党的に『左翼小児病』の第二章を学習せよと命じている。五四年に毛沢東は再度『資本論』を読んだ。その後『経済学批判』をいくども読んだ。五八年の大躍進で商品生産を否定する極左的観点があらわれた際、毛沢東はスターリン『ソ連における社会主義の経済的諸問題』を研究している。
毛沢東は「革命」を理解していたか
この経緯からわかるように、毛沢東が比較的落ちついてマルクス・レーニン主義を学んだのは延安時代である。毛沢東が何を学びとったのかを『毛沢東選集』第一~四巻について調べると、レーニンを三三箇所引用している。その大部分は、『実践論』『矛盾論』のなかで『哲学ノート』『弁証法の問題について』からの引用である。
毛沢東がくりかえして引用している言葉が二つある。一つは「革命の理論なくして革命の運動なし」という『何をなすべきか?』の名文句で、これを三回引用している。もう一つは、「理論は具体的状況を踏まえた具体的分析」たるべきであり、これこそ「マルクス主義の生きた魂」だという箴言であり、これも三回引用されている。
スターリンの引用箇所を数えると、二一箇所であり、レーニンよりも三割方少ない。1)理論と実践の結合を主張した「レーニン主義の基礎について」の一句を三回引用している。2)「中国では武装した革命が武装した反革命と戦っている」を三回引用している。3)幹部問題について「幹部がすべてを決定する」という言葉を四回引用している。
スターリンからの引用は二一箇所のうち八カ所、すなわち半分近くがスターリンの言葉を引用したものではない。スターリン独自の見解というよりは、レーニンの思想をスターリンが祖述したものを孫引きした形である。
ここからわかるように、毛沢東の学んだマルクス・レーニン主義の核心は、中国語訳のレーニン『哲学ノート』およびスターリンの祖述したレーニン主義である。毛沢東はマルクスやエンゲルスのものを読む機会はきわめて少なかった。毛沢東はまた四九年と五七年にソ連を訪問したのを除けば、外国を訪問したことがなく、むろん欧米の資本主義社会の生活を体験することは全くなかった。したがって毛沢東の理解する資本主義とは、植民地側の現実から帝国主義の一面を認識したものにとどまり、帝国主義の心臓部に対する理解は欠いていた(この点で、周恩来や鄧小平は青年時代にヨーロッパ生活を体験しており、その見識ははるかに広い)。外国語も英語を晩年にちかくなってから少しかじっただけである。毛沢東の教養は基本的に中国の古典から得られた。
ここで翻訳の問題もあろう。馬克思(マルクス)、恩格斯(エンゲルス)と訳すとき、中国の人々は姓は馬、恩であり、名が克思、格斯と中国流の観念で理解している。カール・マルクスからカールの名が蒸発し、マルクスという姓だけがあたかも姓と名であるかのごとくうけとられる中華世界において、毛沢東の観念における「階級闘争」とマルクス主義のClass Struggle、毛沢東の「革命」とマルクス主義のRevolutionは、相当にニュアンスをことにするのではないか。
毛沢東の民主主義観
シュラムが想定しているように、起源や方向性で説明しきれるかという疑問が残る。中国における「易姓革命」観念とレボルーション概念が奇妙に交錯したまま中国マルクス主義が形成され、国家イデオロギー化していった。毛沢東思想を「中国化されたマルクス主義」というとき、「マルクス主義」を強調するシュラムとは逆に、「中国化」を強調する見方もそれなりに説得的であろう。
中国の人民民主主義と欧米デモクラシーとの距離も大きい。四九年六月、全国的権力奪取の直前に書かれた「人民民主主義独裁について」のなかで、「反動派の発言権を奪い、人民にのみ発言権をもたせる」のが「人民民主主義独裁」だとしているが、ここで反動派と人民の区別が曖昧になるならば、民主主義は行方不明になり、独裁だけが残る。同じ論文で毛沢東は、人民は民主主義的方法で自己を改造するとしているが、ここでは民主主義はすでに「改造の方法」に矮小化されている。
五七年二月の「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」では「民主主義というものは、一見して目的のようだが、実際には手段にすぎない」と断定している。文革期には「大鳴、大放、大弁論、大字報」のいわゆに「四大民主」が喧伝された。これは壁新聞をどこにでも貼りだして実権派の悪事を暴露しようとする運動であったが、民主主義の発揚というよりは、すでに党内闘争の手段に転落していた。むしろファシズム的なやり方だとのちに批判されている。
このような「訓政主義的」民主主義観は、ヨーロッパの市民社会を前提としつつ、その止揚としてマルクスらの考えたものとは相当にへだたったものである。これはもはや西欧起源のデモクラシーというよりは、むしろ中国古代の「君主主義」の「君」を「民」で置き換えただけ、すなわち君主主義の亜流にすぎないのではないか。もっともこれまたスターリン流の「民主集中制」に対する毛沢東なりの敷衍にすぎないと見ることもできる。
二つの権力基盤
では毛沢東の党内的地位、軍内的地位を保証したものはなにか。第一は民主集中制である。トロツキーがスターリン独裁を批判して「代行主義」と名付けた現象がある。大衆の意思を前衛党が代行し、前衛党の意思を中央委員会が代行し、中央委員会の意思を書記長個人が代行する。したがって、スターリン独裁こそが人民大衆の意思だという飛躍した論理がまかり通ることになる。
この点では、毛沢東の独裁も同じである。中国共産党が中国人民の意思を代行し、中国共産党の意思を毛沢東が代行することになる。前衛党に対する批判は、ただちに現行反革命になる。
第二は教義解釈権である。これは延安の思想改造運動(整風運動)以来のことであり、第七回党大会規約では毛沢東思想が中国共産党の指導思想に格上げされた。かくて毛沢東思想とは何かの解釈権が毛沢東個人に帰属してしまった。毛沢東思想の名において人民の意志を結集する試みが神格化をもたらし、人民は逆に自らの神によって呪縛されてしまった。
毛沢東が神のような権威をもつに至る根拠は、長征以来の指導の正しさによるものである。毛沢東は遵義会議以前は右翼日和見主義と批判されてきた。たとえば、根拠地における再生産重視から出発した彼の土地政策は富農路線と批判され、正規戦を避けたゲリラ戦略は逃亡主義とされ、イデオロギー面では経験主義のそしりを受けた。しかし、これは批判者の側が基本的に間違っており、毛沢東は彼らの極左路線によってもたらされた敗北の事実をつきつけて党内権力を奪取したのであった。
問題は権威が確立されたあとの毛沢東の具体的指導の成否である。党のナンバーワンとして、党の重要会議の召集権と軍の指揮権をもつこと、イデオロギー問題の解釈権をもつこと、この二つの魔法を駆使して毛沢東は党を操縦したが、毛沢東が共産主義への移行をあせればあせるほど、目標は遠のいた。毛沢東は当初、スターリン流の個人崇拝に対して批判的な態度を表明していたが、大躍進の失敗を通じて、自らの指導権が揺らぐや、むしろ意識的に個人崇拝を利用するようになり、文化大革命においてそれは極点に達したのである。
2 宰相周恩来の功罪
周恩来顕彰文の代表的一例
一九八八年三月、周恩来の生誕九〇周年を記念して「周恩来研究学術討論会」が北京でひらかれた。周恩来秘書を七年間務めた李琦がおこなった開会の辞は、典型的な周恩来顕彰文である。
周恩来は中国人民の忠実な息子であり、生涯を通じて自己のすべてを中国人民の解放事業に捧げた。彼は自己宣伝をしたことがなく、自らのために記念碑を建てることを希望しなかたが、彼のイメージと業績は一〇億人民の脳裏に深く刻まれている。
周恩来は中国共産党の優秀な党員であった。彼は一九二一年に共産党に入党しており、最初期の党員の一人である。一九二七年から党中央の指導者の一人であり、逝去まで五〇年にわたってそうであった。
新中国成立後は政府総理を担当し、その期間は二六年に及んだ。彼は党中央の各時期の重大な意志決定の多くに参加している。周恩来のように中央での工作期間が長く、工作面が広い人物は多くはない。周恩来の歩んだ道は中国共産党史の縮図だといってよい。
周恩来は中国共産党の最初期の軍事指導者の一人である。一九二二年に「真の革命には堅強かつ組織的な革命軍を欠くことはできない。革命軍がなければ、軍閥を打倒できない」と述べている。その後彼は八一南昌蜂起を領導し、この蜂起のなかから解放軍が創立された。
第六回党大会(モスクワ、一九二八年)後の一時期、周恩来は実質的に中共中央の主な責任者であり、各地の農村ゲリラ戦争を指導し、農村革命根拠地を樹立する闘争で大きな貢献をした。一九二九年周恩来が起草した「紅四軍前委への中央の書簡」(九月来信)で彼はこう述べている。「先に農村紅軍が存在してこそ、後に都市の政権が存在しうる。これは中国共産党の特徴であり、中国の経済的基礎の産物である」。
中央ソビエト区に移って後、周恩来は朱徳とともに、第四次までの包囲討伐反対闘争を巧みに指揮した。第五次包囲討伐を反撃できずに余儀なくされた長征では、指導的な役割をはたした。
解放戦争では、中央軍委副主席兼参謀長として、毛沢東を助けて全国の解放戦争を指揮した。周恩来は四九年までの民主革命期に多くの形の革命闘争を行った。たとえば西安事変を平和解決し、抗日戦争期には国民党との交渉と党南方局の工作を領導した。抗日戦争の勝利後は内戦防止につとめた。周恩来は毛沢東、劉少奇、朱徳らとともに党・軍隊・共和国の創立者である。
建国以後、周恩来は社会主義建設のために努力した。彼は社会の生産力の発展を重視し、経済工作を国家の基本任務とみなしていた。文化大革命のような極端に困難な状況のもとにおいても、経済工作をなおざりにすることはなかった。
一九五四年に、周恩来は党中央を代表して、初めて四つの現代化目標を提起した。その後、四つの目標に新たな意味を賦与し、さらに社会主義強国の建設には、科学技術の現代化がカギだと強調した。一九七五年一月には、病をおして四期全人代の報告を行い、農業、工業、国防、科学技術の現代化をよびかけた。これは周恩来の最後の報告であり、後人への遺言でもある。
周恩来は社会主義建設を長期の任務と考えており、毛沢東と違って、過度に早く工業化の実現を宣言したり、社会主義の建設を宣言することに賛成しなかった。
社会主義建設において自力更生を堅持し、国際的協力関係を発展させる上で、周恩来は二つの誤りを批判した。一つは、基本的にととのった工業体系を自国に樹立せず、単に国際的援助に頼る依頼思想である。もう一つは、鎖国して建設しようとする孤立思想である。後者についての周恩来の予見は、一一期三中全会以後、開放政策が採用され実現することになった。
周恩来が経済工作を指導するさいに突出した重点は「実事求是」である。彼は客観的法則に照らして事を運ぶことを主張し、安定と総合均衡を重んじた。国民経済の発展速度を合理的に定めるとともに、国民経済の均衡発展を目指した。
周恩来は国際的評価の高い外交家であった。一貫して独立自主の外交政策を推進し、大国と小国の一律平等、平等互恵、主権尊重、平和共存などの精神で、国際的経済協力をおこなうよう提唱した。周恩来は新中国外交の開拓者として、一〇〇年来の旧中国の屈辱外交を葬り、外交に新風を切りひらいた。七〇年代初めに、毛沢東とともに中米コミュニケを調印し、中日国交を正常化したのは、その際立った一例である。
周恩来は党の統一戦線政策を執行した模範であった。相手を尊重し、異なる意見に虚心に耳を傾け、食い違う意見のなかから共通点をさぐる努力をおこない、忍耐強く道理を説いた。周恩来が知識人の間で声望が高いのは偶然ではない。
周恩来の最後の歳月は文化大革命の嵐のなかですごした。陳雲はかつて「周恩来がいなかったら、文化大革命の帰結は想像だにできないほどの混乱となったであろう」と述べたことがある。文革期の周恩来について『歴史問題決議』はこう評価している。「周恩来同志は党と人民に対して、限りなく忠誠、鞠躬尽瘁であった。周恩来は文革期に非常に困難な立場にあったが、大局を見て、労苦をいとわず、党と国家の工作に努め、文化大革命による損失を減らすために心血を注いだ」。
周恩来の無私の精神、並外れた智慧、該博な知識、精力的に問題を解決する能力、驚くべき工作能率、聡明かつ機知に満ちた談話、謙虚な態度などは衆目の認めるところである。周恩来は中国だけでなく、世界各国の人民や政治家の尊敬をかちえている。
むろん周恩来にも過失は避けがたかった。しかし彼は誤りを隠すことはなく、いわんや他人になすりつけることはせず、みずから責任を引きうけた。周恩来にも弱点はあったが、古人の言うように「君子の過ちなり。日月の蝕のごときもの」であった。周恩来は終始翼を広げた雄鷹のイメージであった。
愚忠をつらぬいた宰相
このような周恩来讃歌に真向から挑戦して、周恩来のもう一つの顔を描こうとしたのが、香港の政論家金鐘である。
金鐘によれば、周恩来は遵義会議以後、四〇年間一貫して毛沢東に対する「愚忠」を貫いたという。文革においてもし周恩来の存在がなかりせば、毛沢東、林彪、江青の失敗はもっと早く、かつもっと徹底したものとなったであろう。文革における周恩来の役割は結局のところ、毛沢東の独裁的統治に有利であった。
文革期に湖南省省無聯が「中国はどこへ行くのか?」を書いて、周恩来を「中国の赤色資本家階級の総代表」と攻撃したが、まさにその通りであり、周恩来こそ共産主義官僚体制の集大成者であり、この体制の凝固化を助長した人物であった。
周恩来は自己の私欲を抑えることヒューマニズムに反するほど甚だしく、党派性と徳性のほかには自我のなかったような人物であって、まさに現代の大儒にふさわしい。
金鐘はこのように辛辣な周恩来評価を行っている。実は大陸の知識人の間にも、類似の厳しい周恩来評価が存在している。たとえば呉祖光(劇作家、八七年の胡耀邦事件以後、共産党を離党した)は、かつて来日した際にズバリこう述べている。
「周恩来は宰相であり、皇帝の地位にはいなかったが、宰相としての職責を果していなかった。皇帝(毛沢東を指す)が過ちを犯した場合、宰相(周恩来)が諌めるべきだが、そうしなかった。しかし、諫言していれば、彭徳懐(元国防部長)と同じ運命をたどったであろう」。
奇妙なことに、毛沢東批判に関するかぎり、中国大陸でもかなり深い分析が行われるようになってきたが、周恩来についてはまだ厳しい批判が少なくとも活字には登場していないようである。その理由として考えられるのは、次の事情であろう。
まず第一に、社会主義建設期の二つの大きな誤り(大躍進政策と文化大革命)は毛沢東の提唱したものであるから、この点で毛沢東はいわば「主犯」である。周恩来は「従犯」にすぎない(むろん、ここで周恩来が協力したからこそ、矛盾の爆発、顕在化が遅れたとして、周恩来の役割を強調する、省無聯や金鐘のような見方もある)。
第二に、ソ連では長らく、レーニンの権威に依拠して、スターリンの誤りを批判する時期がつづいた。レーニンを含めてソ連社会主義を、全体として批判的に総括する動きが出てきたのは、ゴルバチョフのペレストロイカ以後のことである。
中国では革命と建設双方の当事者だという意味で、毛沢東はレーニンとスターリンの役割をかねていた。そこで中国ではレーニンの役割をはたした毛沢東を評価しつつ、スターリンの役割をはたした毛沢東を批判するという使いわけがおこなわれてきたのである。肝心の毛沢東評価でさえ、このように曖昧さを残したものである以上、矛先が周恩来まで届かないのも当然であった。
それだけではない。長きにわたって神格化された毛沢東を批判することに伴う心理的動揺を、周恩来の存在によって補償しようとする心理状況が、広範に存在していたことも否めない。この場合、過ちを犯した厳父と対照して、周恩来は慈母のごとくである。周恩来に関してはとくに「棺を蓋うて論定まる」段階にはまだ到っていないことがわかる。
統一戦線の功績
周恩来の個性と能力が、もっともよく発揮されたのは、国内においては統一戦線工作、国際的には外交工作であったのは衆目の一致するところであろう。
西安事件をたくみに処理し、事件後の国共合作交渉を成功させた周恩来の功績は不滅である。もしこれが失敗していたら、延安の解放区が消滅し、中国共産党の火種がなくなる危険性さえあった。
張学良らによる蒋介石兵諫の背景として、共産党側が張学良の東北軍に対してさまざまな統一戦線工作を働きかけた事実があることはよく知られている。しかし、そこでおこった突発的な兵諫事件をたくみに利用して、一〇年にわたる内戦をやめさせ、抗日統一戦線を形成するうえで周恩来は決定的な役割をはたした。毛沢東と協力しつつこれを行ったことはいうまでもないが、蒋介石に直接引導を渡したのは周恩来その人であり、この種の仕事は周恩来にもっとも適していた。
周恩来のおこなったもう一つの大きな仕事は、政治協商会議の組織である。共産党は他の民主諸党派との連合をつうじて、連合政府を約束して全国的権力を奪取した。この戦略は、毛沢東の「連合政府論」(四五年四月)によって提示されたものではあるが、さまざまな戦術を駆使しながら、みごとに具体化させたのは周恩来の功績である。
周恩来の個性、個人的な人脈がここで大きな役割をはたしている。統一戦線とは、共産党と他の政治勢力との間をつなぐ国内外交ということもできる。師爺周恩来のもっとも得意とするところであった。
四九年以後、総理となり、しかも外交部部長を兼ねるようになると、国際的な場での統一戦線が必要となった。かつては共産党を代表して他の政治勢力と折衝をかさねたが、今度は中国政府を代表して外国との間に統一戦線交渉を展開することになった。

中国外交の基本戦略自体も一定ではなく、時に応じて変化したが、これらの与件を十分にふまえつつ、周恩来は中国のかかえるさまざまな外交案件を、それぞれみごとに解決した。五四年のジュネーブ会議における国際舞台への初登場、五五年バンドン会議における平和共存五原則の提唱、六〇年代におけるフランスとの接近、七〇年代における日中正常化、米中接近、これらの外交交渉は、周恩来の横顔とふかく結びついて人々の記憶にのこっている。
周恩来外交の限界
外交実務の処理というレベルで考えると、おそらく周恩来外交は、欠点を探しにくいほど優れていると評価できよう。しかし、歴史的視点から再考してみると、別な評価もありうるであろう。
まず第一は朝鮮戦争への出兵である。出兵は毛沢東が「三日三晩」熟考して決断したといわれる。周恩来はその決断を実行にうつすための実務を大量にこなした。建国後のソ連一辺倒路線と朝鮮戦争への出兵はメダルの表裏である。もし、一〇年先の国際情勢を予見していたならば、この決断は別なものとなりえた可能性がある。中ソ蜜月はきわめて短く、五〇年代後半には中ソ対立がはじまり、六〇年代末には国境での武力衝突がおこるほどのはげしい敵対関係となったからである。
アメリカ帝国主義と対決し、ついでソ連社会帝国主義と対決してはじめて中国は独立国たりえたという弁明がおこなわれているが、二つのスーパー・パワーとの対決は必要不可欠のものであったかという疑念がのこる。むろんこれは歴史の仮定にすぎない。ただ私の指摘したいのは周恩来も毛沢東も万能ではなかったことである。あるときは世界の時流を的確につかみ、現代史をたくみに転回させたが、ときには失敗して大きな愚行を演じたと私はみている。
第二に、日中関係に即して考えてみると、戦後ようやく再開された日中貿易を中断させた、五八年の長崎国旗事件への対応にはじまり、日中貿易界をキリキリ舞いさせた周恩来四原則などはその一例である。大躍進という国内的熱狂を背景として、強硬な対日方針がとられたが、もしこのような試行錯誤がなかったならば、日中貿易はもっと順調に展開し、日中の政治関係ももっとはやく改善された可能性があるし、周恩来四原則がある日突然蒸発し、正直な会社がバカを見て中国嫌いになるのも避けられたかもしれない。
これは周恩来だけの責任というのではないが、四九年以後の中国指導部の対日認識が妥当なものであったかどうかを私は疑っている。革命先進国の驕りから革命後進国日本を見下すような態度(「小日本」)が長くつづき、そのために戦後日本経済の高度成長や政治面での民主主義を的確に認識できなかったことは、中国にとってばかりではなく、日本にとっても大きな不幸であった。
いま二つの例だけをあげたが、周恩来外交(統一戦線工作)にも大きな限界があることの例証とはなろう。
結びにかえて
毛沢東と周恩来──この両巨星は、現代中国の生んだ傑出した革命家、政治家であるばかりでなく、二〇世紀の傑出した人物というモノサシで評価しても、屈指の人物である。半植民地中国を独立させ、第二次世界大戦後の植民地独立、民族解放という歴史的潮流をつくったことからして、彼らの功績は明らかである。
しかし、建国以後の中華人民共和国四〇年の歩みは、勝利意識に幻惑されて大きな失敗をくりかえした。その責任はなによりもまず毛沢東に帰せられるべきだが、毛沢東を補佐した周恩来の責任も小さなものではない。周恩来もやはり勝利意識に幻惑されており、毛沢東の指導能力の限界を見極める目を曇らされていた。
特に一九五六年の冒進反対論を堅持できず、五九年の廬山会議で彭徳懐解任を許してしまったことは、後の文化大革命に直結する政治的失敗となった。むろん周恩来一人の責任ではなく、毛沢東の暴走を止められなかったすべてのトップ・リーダーたちの責任でり、暴走を許した政治システムの欠陥にこそより大きな責任がある。
両巨星は傑出した指導者とはいえ、彼らの個人的限界は明らかだ。ただ彼らの失敗に深くかかわっているのは、彼らが導きの糸としたマルクス主義、そして社会主義理論の欠陥であることに注目すべきであろう。
本書の冒頭でソ連のヤコブレフが「ソ連社会主義の完全な敗北」をみとめたこと、「不幸の原因はマルクス主義(レーニン主義)の教義にある」としたことを紹介した。ここでマルクス主義の教義の中身と考えられているのは、政治面では前衛政党論、民主集中制論、プロレタリア独裁論であり、経済面では私有制廃絶論、計画経済論であり、イデオロギー面では思想改造を通じての社会主義的人間の養成などであろう。
中国に即してこれらの議論を検討してみると、まず第一に、権力の奪取以後、人民という大海原で泳いでいたはずの共産党員が、いつのまにか人民の頭上に君臨するものに変質していた。中国共産党がレーニン主義からまなんだ前衛政党論は、党員が「指導」の名において、人民大衆を支配し、君臨することを正当化した。
第二に、共産党すなわち前衛政党の内部においても、民主主義が欠如していた。民主集中制論のもとで、集中が強調されすぎて、民主は圧殺されてしまった。共産党の組織は、大会で中央委員がえらばれ、中央委員のなかから政治局委員がえらばれ、政治局委員のリーダーが党主席をつとめるヒエラルキーになっている。ところが民主集中制のもとで、下から上への民主主義ではなく、上級が下級を代行し、支配する構造に逆転した。つまり、党大会を中央委員会が、中央委員会を政治局が、政治局を党主席が代行することになり、共産党内部に専制主義的、一元的支配構造が成立した。
第三は人民民主主義論の欠陥である。これは元来、人民に対しては民主主義を、革命の敵や反動派に対しては独裁をおこなうものである。しかし文革期の「全面的独裁」がしめすように、地主・富農・反革命分子・悪質分子・右派分子・叛徒・特務・実権派・反動的学術権威なる九つのレッテルが用意され、人民はいつでも独裁の対象になりかねなかった。こうして「人民による独裁」を想定した人民民主主義論は、「人民に対する独裁」に転落し、封建社会よりもはなはだしいといわれるほどの専制主義体制がつくりあげられた。
第四は私有制廃絶論である。エンゲルスは『空想から科学へ』のなかで資本主義の基本矛盾を「生産手段所有制の私的性格と生産の社会的性格」の矛盾にもとめた。ここから生産手段所有制の社会化、公有化によって労働力の搾取を廃絶する構想がうまれた。中国はこの考え方にもとづいて農業集団化や工商業の社会主義的改造をすすめたが、農民は生産への意欲を喪失し、労働者もまた生産への意欲をうしなった。こうして生産関係の変革によって搾取を廃絶し、生産力を拡大しようとする試みは失敗におわった。
第五は計画経済論である。資本主義経済では、生産物の需要と供給は市場をつうじて事後的に調節される。そこでは一定のムダがさけられない。計画経済によって需給を事前に調節するならば、浪費がさけられるだけでなく、より合理的な経済発展が可能であると考えられていた。
しかし、生産手段の公有化を基礎とした計画経済こそが資源の最適分配を可能にし、人民のための富を豊かにするとの教義は、国営企業の非効率と赤字をもたらした。計画経済のもとで企業は独立した経営体であることをやめ、生き生きとした組織体であることをやめた。親方日の丸的な企業管理が横行し、技術革新の動機を喪失した。このため生産力発展の競争において先進国との格差が拡大しただけでなく、より深刻な衝撃をあたえたのは中国周辺のアジア・ニーズとの競争において決定的に敗北した。
何が勝ち、何が負けたのか?
このように、政治的民主主義の面でも、生産力発展の面でも、中国社会主義は資本主義そして途上国との競争ににやぶれた。中国の人々の経済活動の現実(下部構造)に適合しない、計画経済体制や政治体制(上部構造)が袋小路に陥ったのはこのためである。
では「中国社会主義の敗北」は何を意味しているか。中国社会主義が唯物史観を語りつつ、実は観念論体系を構築してきたものが崩壊したにすぎないという点では、むしろ観念論の誤りであって、唯物史観の誤りではあるまい。とはいえ唯物史観を根拠とした社会主義論が根本的な挑戦をうけていることは、いうまでもない。
もう一つは「資本主義の勝利」の意味である。現代資本主義が現代社会主義の挑戦を撃退したことは、疑うべくもない事実であろう。第二次大戦以後、先進資本主義諸国はいずれも、社会主義に対抗する形で、社会保障制度を充実させ、経済運営に計画性をとりいれるなど自己革新をとげてきた。貧困の撲滅のように、かつて社会主義が理念としてきたものは、むしろ資本主義の側が積極的にとりいれたといってよいほどである(貧しい社会主義には、理念を具体化する客観的条件が欠けていたことも事実である)。
しかしながら現代資本主義の資源浪費的文明はまだ矯められるにいたっておらず、経済発展はいまや地球環境の限界に直面している。南北問題はますます激化している。現代社会主義が資本主義経済の矛盾を解決する能力をもたないことは、すでにはっきりした。もはや地球環境問題や南北問題などの解決を社会主義には期待できないのであるから、資本主義がみずから解決しなければならないことになる。
いや、むしろ、こう言うべきであろう。資本主義か、社会主義か、あるいは資本主義の矛盾を解決するものとしての社会主義、という問題のたて方は二〇世紀末をもって終わった。二一世紀の人類は、地球環境問題や南北問題などの解決のために、競争、協調しなければならないのだ、と。
現代に残る「臣民の心理」
毛沢東にせよ、周恩来にせよ、決して愚昧な皇帝、凡庸な宰相であったわけではない。にもかかわらず、彼らをかなりの程度まで「愚昧」「凡庸」にしてしまったのは旧中国から引き継がれた社会構造、権力構造、意識構造である。ここで特に指摘しておきたいのは、「臣民の心理」である。皇帝をして皇帝たらしめるのは、臣民だからである。
謝天祐(元華東師範大学歴史系教授)の遺著『専制主義統治下の臣民心理』は、天下の一切を主宰する皇帝、しかも喜怒哀楽の常ならざる皇帝のもとで、臣民がいかに戦々恐々として生きてきたかを専門の歴史的知識を駆使して描いてみせた。そこに描かれた古代世界は、中華人民共和国の人民の心理と同じだというのが、故謝天祐の結論である。
謝天祐はいう。法家の説く法治とは、君主を拘束するものではなく、君主は権力を独占している。法律は君主を拘束することはできず君主は法律を超越している。この点で、君主の権力を拘束するものとして発展してきた近代的法治主義とはまるで異なる。
韓非子は身に危険がおよぶ七つの例をあげた。君主の内心を見破ったばあい、君主の内心を知らずに進言したばあい、などなどである。また君主の猜疑心をまねく八つのケースを列挙している。
このようなジレンマのなかで、君主に進言して、かつ殺されるのを避けるためには「ウソを言い、心と違うことを言う」しかないが、韓非子はその極意を一三例あげている。たとえば、君主が得意に感じていることを誇張し、君主が恥ずかしいと感じている部分を覆い隠すこと。君主が私利私欲をたくらんでいるときは、それが大義にかなうと弁じて、大胆におこなうよう進言すること。君主が露骨な賛美を好まないばあいは、類似の人を挙げて、間接的にほめること。君主がある決断をしたばあいには、その欠点を指摘しないこと、などである。
このように韓非子の極意を紹介したあと謝天祐はこうコメントしている。「ウソを言い、心と違うことを言う」のは、個人の品性の問題であるばかりでなく、より重要なのは、社会制度の問題であることだ。このやり方は実際には、専制独裁を恐れる心理状態にほかならない。
毛沢東は楽観的すぎた
「ウソを言い、心と違うことを言う」という表現は、鄧小平が文革期の周恩来の行動を弁護して述べた言葉である(本書152頁)。謝天祐はそれを用いて、文革期の中国が韓非子の世界と同じだと主張していることになる。現代中国の歴史学者がその遺著のなかにおいてさえも、「奴隷の言葉」でみずからの見解を表明するほかない事実のなかに、私は人民中国における臣民の心理の一端を読みとることができるとおもう。毛沢東を皇帝にしたのは、このような臣民の心理である。しかも、毛沢東自身が「皇帝を馬から引きずり下ろす」気概をもて、と大躍進期にアジっていた事実を想起すると、神格化否定の容易ならざることがわかる。
四九年の建国までは毛沢東、周恩来らは中国の旧社会を変革することに成功しつつあったが、建国以後はその努力にもかかわらず、成功率は著しく低下した。階級闘争の理論は、革命を勝利に導く原動力となったが、スターリン流社会主義経済の理論の限界を超えられなかった中国的社会主義経済の理論は、経済発展を順調に進める上で大きな欠陥をもっていた。それが実践面で暴露されたのはポスト毛沢東期であり、いまやポスト鄧小平期を迎えて、その限界はますます明らかになってきた。
中国は世界の潮流から目を背け、「国情」の違いをくりかえし強調している。確かに、日本の二六倍の国土をもち、一一億五千万の人口をもつ国には、それなりの固有の事情はあろう。しかし、国情を口実として改革開放の路線を後退させるならば、世界の孤児になり、「球籍」はますます危うくなるであろう。
毛沢東自身はかつてこう語ったことがある。「未来の青年たちは、彼ら自身の価値基準に基づいて、革命の成果を評価するであろう」「今から千年後には、マルクス、エンゲルス、レーニンさえも含めて、われわれすべてがおそらく馬鹿げて見えるであろう」。
毛沢東はいささか楽観的にすぎたようである。千年どころか、談話の時点から十余年で毛沢東の路線は鄧小平によって大転換された。さらに十余年、天安門事件を経て、中国社会主義が根本的見直しを迫られている。いまこそ建国の元勲たちに対する透徹した評価が求められているのだ。
毛沢東研究参照文献
一.毛沢東の著作
香港三聨書店『三聨書会会訊』96年8月に「毎月専題・毛沢東研究」あり。これは毛沢東生誕100周年を期して出版されたものを含み、8Y001~8Y183までの183冊を含む。書名リスト省略

[1]『毛沢東早期文稿一九一二・六~一九二〇・一一』中共中央文献研究室、中共湖南省委編輯組編、湖南出版社。

一九九〇年七月、七三九頁、正編一三二篇、副編一九篇、内部発行。

[2]『毛沢東集』全一〇巻、竹内実監修、北望社、一九七二年。第二版=蒼蒼社、一九八三年。

補巻=全一〇巻、蒼蒼社、一九八三~八六年。

[3]『毛沢東選集』第一~五巻、人民出版社、一九五一~七七年

[4]『毛沢東著作選読』甲種本(上下)、乙種本、一九六四年、人民出版社。中共中央文献研究室、人民出版社、一九八六年八月、八九〇頁

[5]『毛主席文選』一九六七?年、一二〇頁。復刻版=一九七四年七月、上尾、小倉編集企画。

[6]『毛沢東思想万歳』甲本四六頁、乙本三八頁、一九六七年四月。丙本二八〇頁、一九六七年。

復刻版=一九七四年七月、上尾、小倉編集企画。丁本一九六九年八月、七一六頁、復刻版=一九七四年七月、東京、現代評論社。

[7]『毛沢東軍事文選』中国人民解放軍軍事科学院編、中国人民解放軍戦士出版社、一九八一年一二月、六九二頁、内部発行。

[8]『毛沢東農村調査文集』中共中央文献研究室編、人民出版社、一九八二年一二月、三六二頁

[9]『毛沢東書信選集』中共中央文献研究室編、人民出版社、一九八三年一二月、六一二頁

[10]『建国以来毛沢東文稿』第一巻一九四九年九月~一九五〇年一二月。第二巻一九五一年一月~五一年一二月。

第三巻一九五二年一月~一二月。第四巻一九五三年一月~五四年一二月。いずれも、中央文献出版社、内部発行。

[11]『毛沢東新聞工作文選』中共中央文献研究室、新華通訊社編、新華出版社、一九八三年一二月、四三八頁

[12]『毛沢東詩詞』人民文学出版社、一九六三年、三七首。七六年再版。

『毛沢東詩詞選』正編四二首、副編八首、一九八六年。

旧版邦訳=『毛沢東、その詩と人生』武田泰淳、竹内実、文芸春秋社、一九六五年

[13]『毛沢東詩詞鑑賞』王臻中、鐘振振編、江蘇古籍出版社、一九九〇年一〇月、甲編三九首、乙編一二首、全二三八頁。

[14]『毛沢東詩詞全集』劉済昆編、五六首+二八対聯。香港、崑崙製作公司、一九九〇年七月

[15]『毛沢東書信手迹選』中共中央文献研究室、中央档案館編、文物出版社、一九八三年一二月、二二二頁

[16]『毛沢東手書古詩詞選』中央档案館編、文物出版社、档案出版社、一九八四年七月、二七九頁

二.毛沢東研究の資料

[17]MAO ZEDONG: Biography, Assessment, Reminiscences 鐘憲文編北京、外文出版社、一九八六年、二三八頁。逝去一〇周年記念。

[18]『毛沢東伝』ロス・テリル著、石家荘、河北人民出版社、一九八九年七月、劉路新ほか訳、六〇七頁。原書はハーパー・アンド・ロウ社から一九八〇年刊。

[19]『毛沢東和他的分岐者』克莱尓・霍林沃思著、河南人民出版社、一九八九年四月、三一九頁

[20]『毛沢東家世』李湘文編、香港南粤出版社、一九九〇年一一月、三四一頁。

[21]『毛沢東同志的青少年時代和初期革命活動』蕭三著、中国青年出版社、一九八〇年七月、一四九頁。旧版邦訳=『青年毛沢東』青銅社、一九五二年。

[22]『我和毛沢東的一段曲折経歴』肖瑜著、北京、崑崙出版社、一九八九年六月二二四頁。

MAO AND I WERE BEGGARSの中国語訳、旧版邦訳=弘文堂、一九六二年。

[23]『廬山会議実録』李鋭著、春秋出版社、一九八九年五月、三七七頁、国内控制発行。

[24]『長征の頃の毛主席』陳昌奉著、北京、外文出版社、一九五九年

[25]MAO : Great Lives Observed, Edited by Jerome CHEN, Prentice-Hall, Inc., New Jersey, 1969.

[26]MAO PAPERS: Anthology and Bibliography, Jerome CHEN, Oxford University Press, London, 1970.

[27]『毛沢東:毛と中国革命』ジェローム・陳著、徳田教之訳、筑摩書房、一九六九年

[28]Mao Tse-tung, Schram, Revised edn. Penguin, 1967 石川忠雄ほか訳、紀伊国屋書店、一九六七年九月、三二二頁。中国語訳=施拉姆『毛沢東』中共中央文献研究室編訳、紅旗出版社、内部発行

[29]Mao unrehearsed, Schram, Penguin, 1974

[30]『毛沢東の思想』シュラム著、北村稔訳、蒼蒼社、一九八九年、三六二頁

[31]『毛沢東研究序説』今堀誠二著、勁草書房、一九六六年

[32]『現代中国の革命認識』新島淳良著、お茶の水書房、一九六四年

[33]『毛沢東の哲学』新島淳良著、勁草書房、一九六六年

[34]『毛沢東の思想』新島淳良著、勁草書房、一九六八年

[35]『毛沢東ノート』竹内実著、新泉社、一九七一年

[36]『毛沢東と中国共産党』竹内実著、中公新書、一九七二年

[37]『毛沢東』竹内実著、岩波新書、一九八九年九月

[38]『中国革命の思想』野村浩一著、岩波書店、一九七一年

[39]『毛沢東──人類の知的遺産七六』野村浩一著、講談社、一九七八年

[40]『毛沢東生平資料簡編1893-1969 』黄雨川編、香港、友聯研究所、一九七〇年一月

[41]『毛沢東──五つの戦争』鳥居民著、草思社、一九七〇年、三四七頁

[42]MAO TSE-TUNG IN THE SCALES OF HISTORY, Edited by Dick Wilson, Cambridge University Press, 1977.

[43]MAO'S CHINA: A History of the People's Republic, Maurice Meisner, The Free Press, 1977.

[44]『毛沢東の新しい制服』シモン・レイ著、現代思潮社、一九七三年

[45]『思想の積木──毛沢東思想の内容と形式』金思愷著、矢吹晋訳、龍渓書舎、一九七七年

[46]MAO TSE-TUNG: A Guide to his Thought, Alain Bouc, 1977, St.Martin's Press, N.Y.

[47]『中国共産党史──中国共産主義と毛沢東の台頭』ベンジャミン・シュオルツ著、石川忠雄訳、慶応通信、一九六四年

[48]『毛沢東主義の政治力学』徳田教之著、慶応通信、一九七七年

[49]『毛沢東』フランソワ・マルモール著、杉辺利英訳、白水社、一九七六年一二月、一四〇頁

[50]MAO: THE PEOPLE'S EMPEROR, Dick Wilson, Hutchinson, London, 1979, pp.480.

[51]『中国の赤い星』エドガー・スノー著、筑摩書房、新版、一九六四年(毛沢東との対話を含む)。

[52]『革命はつづく』エドガー・スノー著、筑摩書房、一九七四年(毛沢東との対話を含む)。

[53]『評伝毛沢東』韓作著、台北、東西文化事業出版公司、一九八七年、三〇二頁

[54]『青年毛沢東』高菊村、陳峰、唐振南、田余糧著、北京、中共党史資料出版社、一九九〇年三月、三一七頁

[55]『毛沢東的読書生活』育之、先知、石仲泉北京、三聯書店、一九八六年九月、二七二頁

[56]『毛沢東和他的秘書田家英』董辺ほか編、中央文献出版社、一九八九年一二月、三三三頁

[57]『毛沢東的艱辛開拓』石仲泉著、中共党史資料出版社、一九九〇年一一月、三三七頁。

[58]『毛主席関懐着我們』本社編、上海文化出版社、一九五八年六月、一八八頁

[59]『毛主席視察学校』(東洋文庫所蔵)、六一頁、一一篇のルポを所収。

[60]『偉大的歴程──回憶戦争年代的毛主席』北京、人民出版社、一九七七年八月、三二一頁。二四篇を収める。

[61]『回憶毛主席』北京、人民文学出版社、一九七七年九月、五八八頁。五六篇を収める。

[62]『毛沢東軼事』董志英編、北京、崑崙出版社、一九八九年三月、二七四頁

[63]『領袖泪』権延赤編著、北京、求是出版社、一九八九年四月、一八七頁

[64]『走下神壇的毛沢東』権延赤著、北京、中外文化出版公司、一九八九年四月。香港版、南粤出版社、一九九〇年八月。

邦訳=『人間毛沢東』徳間書店、一九九〇年二月。

[65]『紅牆内外──毛沢東生活実録』権延赤著、北京、崑崙出版社、一九八九年五月、二七七頁

[66]『毛沢東衛士長雑記』李銀橋述、権延赤著、香港、文化教育出版社、一九八九年七月

[67]『毛沢東和江青──在陝北』李銀橋述、権延赤著、香港、文化教育出版社、一九八九年七月

[68]『一九一五~一九七六・毛沢東人際交往実録』賈思楠編、南京、江蘇人民出版社、一九八九年六月

[69]『一九四六~一九七六・毛沢東生活実録』鄭宜、賈梅編、南京、江蘇人民出版社、一九八九年六月、二八一頁

[70]『生活中的毛沢東』海魯徳ほか著、北京、華齢出版社、一九八九年一二月、三二三頁

[71]『毛沢東的児女們』華英編著、北京、中外文化出版公司、一九八九年一二月、二一九頁

[72]『毛沢東的黄昏歳月』郭金栄著、香港、天地図書、一九九〇年、二六一頁。

毛沢東生活秘書孟錦雲の回想に基づく。

[73]『毛沢東・尼克松在一九七二』陳敦徳著、北京、崑崙出版社、一九八八年九月、三四二頁

[74]『走近毛沢東──一個外国人与新中国元首的交往』蒋建農、曹志為著、北京、団結出版社、一九九〇年一月(スノウから見た毛沢東)、一二〇頁

[75]『在歴史的旋渦中──与毛沢東有関的往事』董保存編著、北京、中外文化出版公司、一九九〇年一月、三一四頁

[76]『賀子珍的路』王行娟著、北京、作家出版社、一九八五年一二月、内部発行、二七八頁

[77]『毛沢東与斯大林──莫斯科会晤前後』力、劉寧栄ほか著、四川文芸出版社、一九八九年一二月、二〇六頁

[78]『毛沢東的生前死後』香港文匯出版社、一九九一年三月、二六三頁

[79]COMRADE CHIANG CH'ING, by Roxane Witke, Little,Brown and Company, Boston, 1977. 邦訳あり

[80]『江青秘伝』珠珊著、香港星辰出版社、一九八七年七月

[81]『趙丹与江青』泥土著、山東省中原農民出版社、一九八九年四月、二二九頁

[82]The White-Boned Demon: A Biography of Madame Mao Zedong, Ross Terrill, William Morrow and Company,Inc., N.Y. 1984.

『江青正伝』ロス・テリル著、張寧ほか訳、一九八八年一二月、三二二頁、内部発行。

[83]『毛沢東身辺的女人』関黛編、香港繁栄出版社、一九九〇年四月、一九六頁。

[84]『毛沢東的感情世界』彬子編、吉林人民出版社、一九九〇年六月、二五八頁

[85]『毛沢東早期哲学思想探源』汪白著、北京、中国社会科学出版社、一九八三年

[86]『毛沢東思想与中国文化伝統』汪白著、厦門大学出版社、一九八七年一二月、一三九頁。香港版=香港商務印書館、一九九〇年六月、二二二頁

[87]『毛沢東軍事思想研究』尚金鎖ほか著、一九八五年九月、三六〇頁

[88]『毛沢東与中国哲学伝統』畢剣横著、四川人民出版社、一九九〇年五月、二二四頁

[89]『毛沢東哲学思想的民族性探源』侯樹棟、斉士沢、劉春建著、北京、求実出版社、一九八九年一月、三八六頁

[90]『巨人的誕生:“毛沢東現象”的意識起源与中国近代政治文化的発展』蕭延中著、北京、国際文化出版公司、一九八八年一二月、二二〇頁

[91]『梁漱溟与毛沢東』汪東林編、吉林人民出版社、一九八九年五月

[92]『知識分子評晩年毛沢東』編者・中研出版事業公司、香港、中研出版事業公司刊、一九八九年九月

1序、李鋭、2李沢厚「一九四六~一九七六:中国イデオロギーの反省」、3石仲泉「マルクス“ブルジョア的権利”に対する毛沢東の誤解」、

4譚宗級「五・一六通知を評す」、5王禄林「五・七指示、初探」、6胡長水「ユートピアの荒原」、7石仲泉「艱苦の開拓:中国社会主義建設の道への毛沢東の模索、文革前」、8席宣「“文化大革命”と平均主義」、9王年一「“文化大革命”発動時の毛沢東の情勢見通し」、10朱嘉明「毛沢東晩年の経済論とその選択」、11牛軍「毛沢東、三つの世界論の研究メモ」、12蕭延中「画期的悲劇の解剖と理解:毛沢東晩年の政治哲学思考への考察」、13黎、戴晴対話「“文化大革命”に向かう道」、14何平、朱学勤「毛沢東晩年の文化思想を論ず」、15蕭延中「毛沢東晩年の政治倫理観」、16許紀震「毛沢東:ある成功者、敗北者」、二三〇頁

[93]『毛沢東論党的作風和党的組織』中共中央文献研究室

[94]『学習<毛沢東論党的作風和党的組織>』中共中央文献研究室、一九八五年

[95]『毛沢東的領導芸術』陳登才主編北京、軍事科学出版社、一九八九年一二月

[96]『毛沢東建党思想与党史研究』馬斉彬、周逸ら編、一九八四年七月、中共中央党校出版社、五〇三頁

[97]『毛沢東建党思想研究』毛沢東建党思想研究編写組、中共中央党校出版社、一九八九年三月、二〇四頁

[98]『毛沢東思想研究与探討』馮顕誠主編、上海社会科学院出版社、一九八九年三月、四七一頁

[99]『毛沢東調査研究活動簡史』孫克信、于良華ほか編、中国社会科学出版社、一九八四年一二月、二二一頁

[97]『毛沢東思想概論』王洪恩、于学仁、朱陽主編、遼寧人民出版社、一九八八年八月、四一三頁

[98]『毛沢東思想概述』陝西師範大学ほか編、新疆人民出版社、一九八六年一月、三〇〇頁

[99]『毛沢東哲学思想的民族性探源』侯樹棟、斉士沢、劉春建著、求是出版社、一九八九年一月、三八六頁

[100]『毛沢東的領導芸術』陳登才主編、軍事科学出版社、一九八九年六月、三〇八頁

[101]『毛沢東思想辞典』中国毛沢東思想理論与実践研究会理事会編、北京、中共中央党校出版社、一九八九年一〇月、六四五頁
〔周恩来文献ガイド〕
一.周恩来の著作

[1]『周恩来選集』上巻、四三七頁、一九八〇年一二月。下巻、五三五頁、一九八四年一一月、中共中央文献研究室編。

[2]『周恩来統一戦線文選』中共中央文献研究室

[3]『周恩来書信選集』中共中央文献研究室編、北京、中央文献出版社、一九八八年一月、六三六頁。一九一八年から一九七五年までの書信三〇〇通を収める。

[4]『周恩来外交文選』中華人民共和国外交部、中共中央文献研究室編、北京、中央文献出版社、一九九〇年五月、五五六頁。一九四九~七五年の重要著作八〇篇を収める。

[5]『周恩来教育文選』中共中央文献研究室、一九八四年

[6]『周恩来手迹選』中共中央文献研究室、中央档案館編、文物出版社、一九八九年一月、一九八頁

[7]IN QUEST: POEMS OF CHOU ENLAI, 香港三聯書店、一九七九年、五一頁

二.周恩来研究の資料

[8]『周恩来伝略』中共中央文献研究室、一九八六年

[9]『周総理生平大事記』懐恩編、成都、四川人民出版社、一九八六年七月、内部発行、五二二頁

[10]『周恩来伝一八九八~一九四九年』中共中央文献研究室編、北京、人民出版社、一九八九年二月、金冲及主編、八三三頁。解放前の周恩来伝の白眉。

[11]『周恩来年譜一八九八~一九四九年』中共中央文献研究室編、北京、人民出版社、一九八九年三月、八四五頁

[12]ZHOU ENLAI: A PROFILE, 方鉅成、姜桂儂北京、外文出版社、一九八六年、二三八頁

[13]『西方人看周恩来』方鉅成、姜桂儂編北京、中国和平出版社、一九八九年四月、四六六頁

[14]『周恩来一生』南新宙著、北京、中国青年出版社、一九八七年七月、五六三頁。生誕九〇周年記念出版の伝記。解放後も扱っているが、手薄。文革期はきわめて手薄。

[15]『周恩来』梨本祐平著、東京、勁草書房、一九六七年一〇月、三五五頁

[16]CHOU ENLAI: China's Gray Eminence, Kaiyu Hsu, 1968. (許芥〔日立〕著『周恩来──中国の蔭の傑物』一九七一年、刀江書院、三一一頁。アカデミックな伝記の嚆矢。

[17]『周恩来』李天民著、台北、国際関係研究所、一九七〇年。香港版=一九七五、友聯研究所。旧版邦訳、桑原寿二訳、実業の世界社、一九七三年。

[18]『周恩来評伝』厳静文(司馬長風)香港、波文書局、一九七四年三月、四〇七頁。竹内実訳、太平出版社、一九七五年一二月。

[19]『遙かなる周恩来』松野谷夫著、朝日新聞社、一九八一年三月、三六九頁

[20]CHOU: The Story of Zhou Enlai 1898-1976,Dick Wilson, 田中恭子、立花丈平訳『周恩来──不倒翁波瀾の生涯』時事通信社、一九八七年一月。中国語訳=『周恩来伝』封長虹訳、解放軍出版社、一九八九年四月。薩夏、海林ほか訳、中共中央党校出版社、一九八九年四月。

[21]『懐念敬愛的周総理』人民文学出版社、一九七七年三月、六八七頁。七九篇を収める。逝去一周年回想

[22]『敬愛的周総理我們永遠懐念』人民体育人民出版社、一九七七年六月、二三六頁。逝去一周年回想

[23]『敬愛的周総理我們永遠懐念』第三輯、人民出版社、一九七七年六月、五二七頁。逝去一周年回想。邦訳=『周恩来総理の思い出』北京、外文出版社、一九七八年三四九頁[21~[23]の抄訳)

[24]『周総理和青年一起』北京、中国青年出版社、一九七七年一一月、二〇四頁。二〇篇の回想録を収める。

[25]『周恩来和知識分子』李蔚著、北京、人民出版社、一九八五年一月、一八八頁

[26]『懐念周恩来』編輯組編、北京、人民出版社、一九八六年一月、五九八頁。逝去一〇周年回想、八九篇を収める。

[27]『不尽的思念』北京、中共中央文献出版社、一九八七年一二月、六二七頁。周恩来生誕九〇周年の回想文集。陳雲が書名を揮毫し、李先念が序文。

[28]『我們的周総理』中共中央文献研究室編、北京、中央文献出版社、一九九〇年一月、567 頁。五三篇を収める。

[29]『天上人間──憶念周総理散文集』周明、劉茵編、北京、華夏出版社、一九八八年三月、三九〇頁

[30]『星漢燦爛──<周恩来選集>上巻中的烈士伝略』中共中央文献研究室、一九八一年

[31]『光輝的歴史文献──<周恩来選集>下巻学習講話』中共中央文献研究室、一九八四年、解放軍出版社、一四七頁

[32]『建設社会主義的光輝思想──学習<周恩来選集>下巻論文集』中共中央文献研究室、一九八五年

[33]『統一戦線的珍奇文献──学習<周恩来統一戦線文選>講話』中共中央文献研究室、一九八五年

[34]『“周恩来選集”文学典故』李星編著、長春、吉林人民出版社、一九八六年九月、三六三頁

[35]『兵兵外交始末』銭江著、北京、東方出版社、一九八七年一月、一六七頁

[36]『周恩来研究文選』劉〔火3つ〕、米鎮波編、天津、南開大学出版社、一九八七年六月

[37]『周恩来対馬克思主義文芸理論的貢献』余飄著、北京、華夏出版社、一九八八年八月、三二二頁。生誕九〇周年記念

[38]『周恩来研究学術討論会論文集』北京、中央文献出版社、一九八八年一二月、六一三頁。一九八八年三月に開かれた第一次全国周恩来研究学術討論会の論文集。

[39]『研究周恩来──外交思想与実践』中華人民共和国外交部、外交史編輯室編、北京、世界知識出版社、一九八九年九月、三六三頁

[40]『周恩来和他的事業──研究選萃』中共党史出版社、1990年六月、七三七頁。周恩来研究の成果のエッセンスを知るのに便利な本。

[41]『周恩来的一生──資料選輯』香港、新中図書公司出版、上冊、一九七七年一月、二四〇頁。下冊、二月、五六八頁

[42]『周恩来専輯』香港、中国問題研究中心、上冊、一九七一年一〇月、三五一頁

[43]『周恩来故郷淮陰』楚梓著、北京、中国展望出版社、一九八八年七月、二〇〇頁

[44]『淮安郷土』編写組、淮安県中学印刷廠、一九八四年一〇月、一九三頁

[45]『淮陰農業名特優産品』淮陰市農業区画弁公室編、江蘇科学技術出版社、一九八六年四月、一四六頁

[46]『紀年与回憶』穎超著、人民日報出版社、一九八七年一〇月、二一二頁

[47]『丙辰清明詩抄』香港、草原出版社、一九七八年一月、五六〇頁

[48]『両次天安門事件』刑天、一葉編、香港、天河出版機構、一九八九年八月、一二九頁

その他関連資料

[49]『中国共産党歴史大事記一九一九~一九八七年』中共中央党史研究室編、人民出版社、一九八九年六月、四二六頁。

[50]『周恩来、劉少奇、朱徳、鄧小平、陳雲著作選読』人民出版社、一九八七年八月、六二八頁

[51]『陳雲文選一九五六~一九八五年』一九八六年六月、人民出版社

[52]『関於建国以来党的若干歴史問題決議注釈本( 修訂) 』北京、人民出版社、一九八五年、六四〇頁

[53]『共産国際有関中国革命的文献資料一九一九~一九二八』第一輯、中国社会科学出版社、一九八一年三月、六一〇頁

[54]『共産国際与中国革命関係史』黄修栄著、中共中央党校出版社、一九八九年七月、上巻四〇〇頁、下巻三七二頁

[55]『長征──前所未聞的故事』ハリソン・ソールズベリ著、過家鼎ほか訳、北京、解放軍出版社、一九八六五月、四五二頁

[56]『遵義会議的光芒──記念遵義会議五十周年』北京、解放軍出版社、一九八四年一〇月、三五三頁

[57]『遵義会議文献』中共中央党史資料徴集委員会、中央档案館編、北京人民出版社、一九八五年一月、一三七頁

[58]『遵義会議与延安整風』楊中美著、香港、奔馬出版社、一九八九年五月、四〇四頁

[59]『重慶談判紀実一九四五年八~一〇月』中共重慶市委党史工作委ほか、重慶出版社、一九八三年一一月、五〇〇頁

[60]『毛沢東的勝利与美国外交官的悲劇』伊・恩著、徐隋林、劉潤生訳、群衆出版社、一九九〇年九月、二八二頁。

[61]『廬山一九五九』彭程、王芳著、北京、解放軍出版社、一九八九年七月、二一一頁

[62]『廬山会議実録』李鋭著、北京、春秋出版社、一九八九年五月、国内控制発行、三七七頁

[63]『烏托邦祭──廬山会議紀実』蘇暁康、羅時叙、陳政著、香港、存真社、一九八九年、三一四頁

[64]『葉剣英在一九七六』范碩著、中共中央党校出版社、一九九〇年一月、三三四頁。

[65]『従毛沢東到鄧小平』金鐘著、香港冲天有限公司、一九八六年一〇月。一九九〇年三月修訂版、三七二頁。

[66]『中国現代史プリズム』竹内実編、蒼蒼社、一九八八年一二月、一九二頁。

[67]『天皇と中国皇帝』沈才彬著、六興出版、一九九〇年四月、三三七頁

[68]『中共党史風雲録』中共中央文献研究室編、人民出版社、一九九〇年五月、四四二頁。

[69]『新中国外交風雲』外交部外交史編輯室編、北京、世界知識出版社、一九九〇年五月、一九六頁

[70]『外交舞台上的新中国領袖』解放軍出版社、一九八九年一二月、二三七頁

[71]『李鵬評伝──従周恩来養子到中共次生代総理』楊中美著、香港風雷出版社、一九九一年三月、二五五頁。

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