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Sunday, July 8, 2012

the disinformation of kanto earthquake Korean massacre and socialists

http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20110829/1314626040
今年も関東大震災、朝鮮人6,000人虐殺というウソが流されるか


社会, 報道
関東大震災で朝鮮人6,000人虐殺はウソ。

今年も9月1日が近づいてきました。だいたいこの時期になると「関東大震災でデマがとんで朝鮮人6,000人が虐殺された」という大嘘が垂れ流されるのですが、次のようなニュースを見つけました。
横浜の県立高校 女性教諭が日本史授業でハングル指導 「朝鮮人虐殺現場」見学企画も
2011.8.25 02:07
横浜市にある神奈川県立高校の地理歴史科の女性教諭が日本史の授業で生徒にハングルを教えていたことが24日、県教委への取材で分かった。県教委では授業は学習指導要領に定められたものといえず教育内容として不適切と判断。こうした授業をしないよう学校側を指導した。教諭はこのほか、「関東大震災のさいに起きた朝鮮人虐殺現場」を見学するよう企画し、生徒に参加を募っていたことも判明。県教委はこれも指導対象とした。
県教委によると、問題の授業があったのは昨年12月下旬、学期末試験終了後の2年生の「日本史B」の時間。1コマ45分を使って、生徒に自分の名刺をハングルで作らせる授業を2クラスで行ったという。
今年8月上旬、授業内容について県教委の考え方をただす電子メールがあり県教委が事実関係を確認。その結果、この教諭は日本史の授業でハングルを教えた以外にも夏休みに希望する生徒を対象に行う「夏期講習」の一環で「関東大震災時に起きた朝鮮人虐殺の現場」の見学を校外学習として企画。参加者を募っていたことも分かった。
この教諭は県教委に「日朝貿易に関連して、輸入品の木綿についてハングルの発音のモクミョンが日本語と似ていることを教えたところ、生徒が関心を示した。韓流のドラマなどもはやっていた」などと授業の背景を説明したが、県教委は「学習指導要領を発展させた授業を行う場合はあるが、今回は生徒や保護者、県民に疑義を持たれる行為だった」と判断。校外学習については希望生徒がおらず、実施しなかったが「歴史事象に対して多様な考え方がある中で、一方的な解釈は望ましくない」として、いずれも校長に対し口頭で指導した。これを受け、校長が教諭に是正を求めたという。
県教委は「校外学習は実行されなかったので教諭本人への指導や処分はしない」(高校教育指導課)と話す。
この教諭は通常、学習指導要領に基づく年間の授業計画で授業を進めているという。
msn産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110825/edc11082502070000-n1.htm
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110825-00000089-san-soci
とんでもない教師がいたものですが、やはり今年も「朝鮮人虐殺」とう大嘘が垂れ流されそうな気配がします。
実際には政府は朝鮮人を保護したものの、自警団、青年団による過剰防衛があり、殺害された朝鮮人は233人おり、日本人367人が起訴されています。朝鮮人と間違えられて殺害された日本人の数は57人。福田村事件のように、方言を話す地方出身の日本内地人が殺害されたケースもあります。支那人は4人殺害されています。一般の善良な朝鮮人は千葉の習志野、警察署や神奈川県庁、目黒競馬場に保護されました。
不逞朝鮮人というのはデマではなく、本当にいて推定800人です。彼らの放火により日本人が虐殺されたというのが史実です。越中島の空き地には三千人が避難していましたが、不逞朝鮮人の放火により全員焼け死にました。
現在まきちらされている朝鮮人虐殺というような捏造話は従軍慰安婦や強制連行と同じ類のもので、ナショナル・アイデンティティー・ウォーの一環であり、情報戦なのです。現代は武器を使わない戦争の時代です。プロパガンダによって日本人の国民意識、誇りを破壊し、日本を弱体化し、日本からカネをむしりとり、日本を解体する目的があります。ちゃんと反撃しておかなければ戦争に負けます。これは常識です。


http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20110905/1315175188
2011-09-05

今年は大人しかった関東大震災、朝鮮人6000人虐殺捏造


社会, 報道
今年は関東大震災で朝鮮人6000人が虐殺されたという捏造話が少なかったように思います。

関東大震災:大川署長顕彰碑に鶴見朝鮮学校の子供たち献花--横浜・東漸寺 /神奈川 毎日新聞 2011年9月2日 地方版
横浜市鶴見区の東漸寺で1日、関東大震災で虐殺の危機にあった朝鮮人らを救った鶴見署の大川常吉署長の顕彰碑に、地元の鶴見朝鮮初級学校の子供たちが献花した。
顕彰碑は大川署長の墓のある同寺に戦後の1953年に在日朝鮮人団体が建てた。石碑には「流言により激昂した暴民が朝鮮人を虐殺しようとした危機に際し、大川氏が死を賭して三百余名の生命を救護した美徳を永久に讃揚する」と感謝の念が刻まれている。
制服の子どもたち23人は顕彰碑の前に整列し、黙とう。金学用校長(47)が花束を備えた。4月に赴任した金校長は「震災の混乱の中で同胞を救った勇気ある人だよ、と子どもたちに教えている。献花は長らく続いており、これからも大川署長のことを忘れず、伝えていきたい」と話した。【網谷利一郎】
http://mainichi.jp/area/kanagawa/news/20110902ddlk14040272000c.html
大川常吉署長が善良な朝鮮人を救った話は本当ですが、暴徒の朝鮮人が多数いたことは事実です。流言ではありません。その数推定800名です。主に放火によって日本人が大量虐殺されました。暴徒朝鮮人から民衆を守るため自警団、青年団による過剰防衛がありました。殺害された朝鮮人は233人おり、日本人367人が起訴されています。朝鮮人と間違えられて殺害された日本人の数は57人。福田村事件のように、方言を話す地方出身の日本内地人が殺害されたケースもあります。支那人は4人殺害されています。
今年、虐殺捏造話の報道が少なかったのは少し前に横浜の県立高校で女性教諭が日本史授業でハングル指導し、「朝鮮人虐殺現場」見学を企画したニュース(※1)があり、非難を浴び、初っ端でこけてしまったからかもしれません。しかし、再来年の平成25年(2013年)が関東大震災90年の年にあたりますから、再び日本人に贖罪意識を持たせるための情報戦、プロパガンダ攻撃が始まる可能性があります。日本人はちゃんと免疫をつけておく必要があるでしょう。以前、関東大震災時の新聞記事の切り抜きを掲載していたサイトが廃止になっていましたので、ダウンロードしていた残りの画像を掲載しておきたいと思います。(※2)



http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/26426991.html
三・一運動から関東大震災へ
2010/8/31(火) 午前 7:10明治・大正時代歴史
不審火は不逞朝鮮人と社会主義者の仕業だった。


1919年、日韓合邦時代の朝鮮半島で三・一独立運動が起こりました。運動というより暴動で放火などによる役場全壊19、一部破壊29、警察署・警察官駐在所・憲兵分隊・同分遺所・同駐在所については全壊16、一部破壊29、郵便局の全壊2、一部破壊9と被害が出ています。朝鮮人の死者は405名、負傷者903人。日本の憲兵死者2人、負傷者33名。山川の教科書には根拠のない朝鮮人死者7509名という数字が出ているそうなので注意が必要です。

三・一独立運動は3月1日からはじまり、5月には終息していきました。しかし、この嵐は社会主義運動と合流し、内地に飛び火します。

「15万円強奪の不逞鮮人の片割れ 神戸にて捕はる」大正9年(1920年)2月11日 大阪朝日新聞
現金輸送車を襲撃した不逞朝鮮人が神戸で捕まりました。社会主義運動の活動資金調達が目的の強奪。

「首相邸を襲はんとした鮮人の大陰謀 --爆弾数個と陰謀書類」大正9年(1920年)4月17日神戸新聞
3・1独立運動の記念の日に首相官邸を襲撃しようとして上海より爆弾を密輸したものの、時機を失い、露見。

「在阪鮮人の宅に爆弾数個を発見」大正9年(1920年)10月9日大阪朝日新聞夕刊
独立云々の不穏文書が配布されており、調べたところ、朝鮮人宅に爆弾数個を発見。

「変名して早大に入り上海間島方面と連絡をとる」大正10年(1921年)3月3日大阪朝日新聞夕刊
上海の仮政府(大韓民国臨時政府)の要人が名前を変えて東京に入り込み、早稲田大学に入学して上海、京城、間島と連絡を取っていた。

このころ、上海では独立運動を進めていた活動家、李承晩、呂運亨、金九などが大韓民国臨時政府をたちあげて民族運動というかテロなのですが、その一味が内地で上海と連携しながら活動していました。以下見出しだけ記載。

「不逞鮮人崔の自白から判明した事実/上海仮政府の計画も明察し、内地在住の一味も知れた」大正10年(1921年)11月11日神戸又新日報
「総督府投弾の犯人は田中大将を狙撃した男」大正11年(1922年)5月20日大阪朝日新聞
「友禅職工に化けた不逞鮮人の一旗頭/上海仮政府の隠密/同志の統合に失敗し何れへか姿を晦す」大正12年(1923年)2月2日九州日報
「大仕掛けの武器密売 拳銃1万挺、爆弾90万発」大正12年(1923年)5月9日大阪朝日新聞

そして大正12年(1923年)9月1日午前11時58分32秒、神奈川県相模湾北西沖80kmを震源として発生したマグニチュード7.9、海溝型の大地震が発生します。横浜市内は壊滅状態となり、火災と余震に襲われ続けました。そんなとき不思議なことが起こります。

明治大正見聞史
「お向かいの家では、奥さんとお嬢さんとで雑巾を持って板塀を拭いていた。私はちょっとそれが不思議に思われたので失礼とは思ったが立ち止まっていた。奥さんたちは私に会釈して『まあ、おそろしいじゃございませんか。これが放火のしるしなんですと。そんな真似をされちゃたまらないから、今一生懸命消している所なんですよ』私はその印を見せてもらった。英語のKという字を左向きに書いたような、得体の知れぬ符牒だった。朝鮮の文字かもしれぬ、と後になってみながいっていた」

東京市内(当時は東京市)でも大火災が起こっていましたが、9月1日の夜から2日以降も風上から突然火事が起こります。不審火は市内各所、牛込、四谷、市谷から起こり、多くは空家、小学校、印刷所、商業ビルでした。あちこちで放火が起こったのです。


参考文献
「歴史を捏造する韓国」中川八洋著
「関東大震災」工藤美代子著
参考サイト
WikiPedia「三・一独立運動」「李承晩」

関連記事
三・一独立運動の隠された事実
http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/25817795.html
添付画像
関東大震災直後の丸の内(PD)



http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/25817795.html



三・一独立運動の隠された事実
2010/7/6(火) 午前 8:37日韓史歴史


1919年(大正8年)朝鮮半島。大韓帝国初代皇帝高宗の死がさまざまな憶測を呼び、前年の李光洙(イ・グァンス)らによる二・八独立宣言の流れを受けて民族代表33人による独立運動が展開されました。独立万歳運動や万歳事件ともいいます。注意したいのは独立を叫びながらも日本に対し真の友好関係樹立を呼びかけている点です。

この暴動について日本の言論空間が隠し続けていることが多々あります。ひとつは日本人の憲兵6人と警察官2名が殺害されたことで花樹里警察官駐在所で川端豊太郎巡査が石と棍棒で殺害され、耳と鼻をそぎ落とされ、陰具を切断した惨殺事件があったのに裁判は「報復」的なことは一切しなかったことがあげられます。放火などによる役場全壊19、一部破壊29、警察署・警察官駐在所・憲兵分隊・同分遺所・同駐在所については全壊16、一部破壊29、郵便局の全壊2、一部破壊9、となっており、運動というよりも暴動です。しかし、裁判では死刑も無期懲役もいません。懲役15年以上の実刑になったものもいません。朝鮮固有の拷問も行っておらず、証拠主義に徹して多くの被疑者が無罪放免となっています。

このとき朝鮮半島に住んでいた私の祖父はこの運動を以下のように記しています。
「この運動は幼稚なもので『或る呪文を唱えたえら弾が当たらない』と教えて無知な大衆を騙してマンセー(万歳)、マンセー、と騒がした。初めのうちは殺すまでの事もなかろうと空砲で威嚇したものだから『それ見ろ弾はあたらんぞ』と瞬く間に騒ぎが大きくなったので、やむを得ず先頭の5,6人を射殺したら蜘蛛の子を散らす様に逃げて騒ぎが収まったそうだ」

運動の指導者らは天道教、仏教、キリスト教の代表者ですから宗教的なもので無知な大衆が扇動されたということでしょう。

この運動の33の代表者のひとり朴煕道は後に近代化を目指す上で朝鮮語の全廃を総督府に申し入れています。前述の李光洙は上海に亡命し、大韓民国臨時政府樹立に加わり独立新聞の編集長に就任しています。帰国後、逮捕されますが起訴されず釈放されています。その後、東亜日報に就職しています。彼は朝鮮近代文学の父と呼ばれており、「朝鮮人を単一なものと考えるのが根本的な誤り」と延べ、「天皇の赤子として日本の国民と考えるべきである」と述べています。また彼は「創氏改名」を強く推奨し、自身は「香山光郎」としました。朝鮮では日韓合邦した頃は民族意識というのはもともと希薄で合邦後に日本語である「民族」が吹き込まれましたが、結果的には帝国主義の時代は国民主義的なもののほうが台頭しやすかったといえます。皇国民となったほうが圧倒的にステータスがあがるからです。

三・一独立宣言を起草した崔南善(チェ・ナムソン)は逮捕され2年6ヶ月の懲役刑をうけました。仮出所後は朝鮮銀行総裁・美濃部俊吉の後援を得て、雑誌「東明」を刊行し、1924年(大正13年)は「時代日報」の主幹兼社長になります。朝鮮人の文化向上と実力培養は独立に優先する、という論陣を張ります。後に総督府の朝鮮史編集委員、中枢院にも選ばれ、昭和12年(1937年)に満州建国大学教授に就任しました。彼は大東亜戦争を「世界改造の重大な機会であると同時に人類の『世界』を現出させる機縁」「英米の桎梏(しっこく)に無く、東亜十数億大衆の祈願であり、真に万邦共栄の世界秩序を確立する、アジアの解放戦争」と唱えています。


参考文献
「歴史を捏造する韓国」中川八洋著
「日本の植民地の真実」黄文雄著
参考サイト
WikiPedia「三・一独立運動」

添付画像
運動の引き金となった高宗の葬儀(PD)



http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/26438283.html




関東大震災・朝鮮人暴動はデマか?
2010/9/1(水) 午前 7:14明治・大正時代歴史
関東大震災の不逞朝鮮人の暴動は本当だった。


大正12年(1923年)9月の関東大震災で朝鮮人が暴動を起こし、井戸に毒を入れるというデマが流れ、朝鮮人が多く虐殺されたという話を聞いたことがある人は多いでしょう。

わかるヨコハマ 横浜市中学生用副読本 2009年6月2日初版
「この混乱(地震による混乱)のなかで、夜に入ると、『朝鮮人が井戸に毒を入れる、暴動を起こす』などというデマが流された。警察は地域の治安を守るという目的で在郷軍人会や青年会を母体にして、町内に自警団を組織させ、武器を貸与した。
3日、政府は戒厳令を発動し、軍隊を横浜に出動させた。理由は自警団の中に朝鮮人を殺害する行為に走るものがいたからである。横浜市内だけで多数の犠牲者を出してしまった・・・」

この朝鮮人の暴動?は横浜が発端になっています。昨年、ノンフィクション作家の工藤美代子さんが「関東大震災 ~ 朝鮮人虐殺の真実」という本(SAPIO連載)を出しています。諸評価ありますが、これまでの通説を覆しており、不逞朝鮮人の暴動は社会主義、抗日民族主義活動の背景に一致し、それは政府の政策により流言の類として押さえ込まれた、という注目すべき内容です。

「品川は3日に横浜方面から300人位の朝鮮人が押し寄せ掠奪したり爆弾を投じたりするので近所の住民は獲物(武器)を以て戦いました。鮮人は鉄砲や日本刀で掛かるので危険でした」北海タイムス 大正12年9月6日

「皆の視線は警察のほうへと曲げられた『あれ。泥棒が捕まへられてきた』と老人がつぶやいた。『ははあ、火事場泥棒だろうな』(中略)阿久津はすぐに席から駆け下りて様子を見に警察の中に入っていった。しばらくして出てきて、『放火です。朝鮮人が放火したんです』
(中略)
あれあれといううちに、また一人連れてこられた。『太い野郎だ。火つけ道具持ってやがる』と誰かが言う。なるほど、彼の手には、5月のお節句に食べる熊笹で三角に長く包んであるちまきの様な格好のものを持っていた。(中略)その後ろに従いてきた私の知っている少年が『僕、彼らの捕まるはじめから見ていたんだよ。彼ら8丁目の材木屋の倒れ掛かっている材木の中にもぐり込んで火をつけている所を近所の子供に見つけられたんだ。中々捕まらないのをやっとのことで捕まえたんだよ』」明治大正見聞史

「鯨波(とき)の声がするのでビックリしたが南千住一帯を巣窟とせる鮮人団が三河島付近の煙火(花火)製造工場を夜襲して火薬類を強奪し、婦女を陵辱し、食糧軍資金を掠奪するというので、在郷軍人、青年団が決死隊を組織し、警戒中であると聞き、私どもは非常に恐怖し、妊婦を伴れて同夜は田んぼのなかに露宿して難を逃れたが、仙台から青森に避難すべく日暮里に引き返す途中の二人の鮮人は撲殺され(中略)年増夫人が鼻梁をそがれ出血甚だしく、局部にも重症を負い昏倒していたが、78人の鮮人に輪姦されたという事で地方の青年団は極度に憤慨し、鮮人と見れば撲殺し、追撃が猛烈であった」神田区淡路町2ノ4筑波館、山瀬甚治郎談 河北新報 大正12年9月6日

「巡査の一人があご紐かけて、自転車に乗って駆けていく。それを把えて(とらえる/つかまえる)『どんな形勢ですか』と訊ねると彼は『今、鮮人の数300人程が団体を作って六郷川で青年団や在郷軍人団と闘っている。其中の5,60人が毬子(まりこ)の渡し附近から馬込に入り込んだという情報がありました。そうして毬子を渡ったところで15,6人の女や子供を殺したそうです。皆さん警戒してください』(中略)警鐘の響きが四方八方から起こる。ワーッと言うような喊声(かんせい)がどこから聴こえる」中根栄談「福岡日日新聞」大正12年9月23日

「そして仕事師連中とか在郷軍人団とか青年団とかいう側において不逞鮮人の物色操作に着手した。やがて爆弾を携帯せる鮮人を引き捕らえた。おそらく首魁者の一人であろうというので厳重に詰問した挙句ついに彼は次のごとく白状した。『われわれは今年の或時機に大官連が集合するからこれを狙って爆弾を投下し、次いで全市いたるところで爆弾を投下し、炸裂せしめ全部全滅鏖殺(おうさつ - みなごろし)をたく謀らみ、また一方二百十日の厄日には必ずや暴風雨襲来すべければその機に乗じて一旗挙げる陰謀を廻らし機の到来を待ち構えていた』」河北新報 大正12年9月6日

いくつか著書より挙げてみましたが、又聞き部分は信憑性が薄いものの、デマにしてはリアルで整いすぎているし、一般朝鮮人が間違えて殺害されたことまで書かれています。もちろん数々の証言の中にはデマもあるでしょう。しかし、ここまでのデマはデマをコントロールして流す人が必要ではないでしょうか。朝鮮人が暴動を起こしたと見て間違いないでしょう。


参考文献
「わかるヨコハマ」横浜市教育委員会/かながわ検定協議会 編  協力・横浜銀行
「関東大震災 ~ 朝鮮人虐殺の真実」工藤美代子著

当時を伝えた新聞記事
【実録】 関東大震災 不逞鮮人暴徒化
http://naver.uwakina-honeypie.com/index.php?%CE%F2%BB%CB%BB%F1%CE%C1%BD%B8%2F%B4%D8%C5%EC%C2%E7%BF%CC%BA%D2
【実録】 続・関東大震災 不逞鮮人暴徒化 
http://naver.uwakina-honeypie.com/index.php?%CE%F2%BB%CB%BB%F1%CE%C1%BD%B8%2F%C2%B3%A1%A6%B4%D8%C5%EC%C2%E7%BF%CC%BA%D2

添付画像
関東大震災(寿小学校ヨリ展望 横浜市中区にあった学校と思われる)(PD)


http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/26448521.html






関東大震災で社会主義者が殺されたのか?
2010/9/2(木) 午前 6:32明治・大正時代歴史
社会主義者が暴動を起こしていた!


わかるヨコハマ 横浜市中学生用副読本 2009年6月2日初版 関東大震災の記述
「軍や警察はこの機に乗じて、暴動の扇動や計画を企てたという名目で、日本の社会主義者や労働運動の指導者を逮捕したり、殺害するようなことも行った」

まあ、だいたいお決まりの「戦後」記載方式を採用しています。巨怪伝という佐野氏の著書がもとになっているのではないかと思います。社会主義者の事件としては亀戸事件があげられます。社会主義者の川合義虎、平沢計七ら10名が、以前から労働争議で敵対関係にあった亀戸警察署に捕らえられた事件です。

亀戸署長の古森繁高は「平沼ら8名は南葛労働本部である川合の家の屋根上で火災を見て、『いよいよ俺たちの時代が来た』といって革命家を歌い、附近のものを集め騒ぎをおこした」と述べています。平常時なら近所への迷惑行為だけですが、ここ数年の社会主義の運動という背景があるのと、「戒厳令」が出ている状況です。当然取り締まりしなければならないでしょう。
平沼らは亀戸署内に一旦留置されますが、騒ぎが収まらず、革命歌を高唱します。このとき、亀戸署内には拘束されたいた数は770余名で、騒動を制止しきれないので、警視庁から軍隊へ応援を依頼します。留置場から庭へ引き出すとさらに騒ぎだし革命歌を高唱する。軍は制止しきれぬと判断し、衛戌刑務規定により、労働者10名と自警団4名を刺殺しました。これは戒厳令下ではやむを得ないでしょう。この事件は9月4~5日ですが、5日には以下のような記事も見られます。

「亀戸警察署において、5日鮮人6名及び之を扇動する邦人の社会主義者を拘束せしに、警察官の命に従わず暴行を敢て(あえて 進んでという意味)せしのみならず、他の拘禁者を使嗾(しそう/指図してそそのかすこと)不穏の挙動に出でた事などである」京城日報 大正12年9月9日

この事件は後の「虎ノ門事件」につながっており、第48回帝国議会の開院式に向かう摂政・皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の御召自動車(おめし・じどうしゃ)に向けてステッキ状の銃から銃弾が撃たれました。至近距離でしたが銃弾は幸いにも、僅かに皇太子の顔を外れ、車のガラスが破損しただけで済み、皇太子は難を逃れました。犯人は難波大助で虎ノ門事件、甘粕事件をうけてテロリストとして活動する決意を固めたといいます。

甘粕事件は渋谷憲兵分隊長の甘粕正彦がアナキストの大杉栄とその内縁の妻、伊藤野枝、大杉の甥の7歳の橘宗一を震災直後の9月16日に憲兵本部に連行して殺害し、遺体を本部裏の井戸に遺棄したというものです。この事件には特高警察の森慶次郎曹長も加担しており、甘粕本人は「すべて自分一個人の判断」と主張しています。謎が残る事件で、甘粕は子供は殺害していないと供述し、鴨志田上等兵らが自首しますが、証言が食い違ったりしています。

社会主義者が殺されたという亀戸事件をみると大震災に乗じて社会主義者らが異常に興奮していたことが伺え、皇太子暗殺未遂というテロ行為にまで発展するような状態であったということです。また甘粕事件にしても「国賊・大杉を処断した甘粕大尉に減刑を」との署名が数十万名分も集まるなど甘粕大尉を支持する声も強く、世論が二つに割れていたということも当時の世相がわかろうというもので、単に社会主義思想を持った人が突然逮捕され殺されたというわけではないのです。



参考文献
「わかるヨコハマ」横浜市教育委員会/かながわ検定協議会 編  協力・横浜銀行
「関東大震災 ~ 朝鮮人虐殺の真実」工藤美代子著
「関東大震災」吉村昭著
参考サイト
WikiPedia「亀戸事件」「虎ノ門事件」「難波大助」「甘粕事件」
皇室のきょうかしょ vol.44 殺されかけた天皇②
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu44.html
【実録】 続・関東大震災 不逞鮮人暴徒化 
http://naver.uwakina-honeypie.com/index.php?%CE%F2%BB%CB%BB%F1%CE%C1%BD%B8%2F%C2%B3%A1%A6%B4%D8%C5%EC%C2%E7%BF%CC%BA%D2

添付画像
摂政宮殿下の震災地御視察(PD)


関東大震災の惨状

皆さんは震災のとき避難先を知っていますか。震災時の帰宅支援マップを持っていますか? http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/26457710.html
暴徒・不逞朝鮮人 ~ 関東大震災 2010/9/3(金) 午前 6:56明治・大正時代歴史 不逞朝鮮人の暴動は社会主義者、無政府主義者の革命テロ。 「不逞鮮人益々拡大 王子横浜方面に於いて軍隊と衝突 不逞鮮人及び主義者の一派は其の後、猖獗(しょうけつ 猛威を振るうこと)を極め、三日午前十一時三百余名手に手に爆弾を携え之を投じ或いは放火し近衛師団の三個中隊と王子付近に衝突乱闘の結果、三十余名捕まる尚同日午前四時四百名の同鮮人爆弾を持ちて横浜方面より来襲討伐の一個中隊は少数のため全滅の恐れあり・・・」荘内新報 大正12年9月3日号外 新愛知 大正12年9月4日号外でも横浜で戦闘の記事があります。これはデマか? 震災直後、越中島の空き地には三千人が非難していました。そこには軍の糧秣廠(りょうまつしょう)があり、これは馬の秣(まぐさ)を収納する簡素な倉庫でした。これが次々と爆発を起こし、火の海となり三千名が焼死しました。 「しかも鮮人の仕業であることが早くも悟られた。そして仕事師連中とか在郷軍人団とか青年団とかいう側において不逞鮮人の物色操作に着手した。やがて爆弾を携帯せる鮮人を引き捕らえた。おそらく首魁者の一人であろうというので厳重に詰問した挙句ついに彼は次のごとく白状した。『われわれは今年の或時機に大官連が集合するからこれを狙って爆弾を投下し、次いで全市いたるところで爆弾を投下し、炸裂せしめ全部全滅鏖殺(おうさつ - みなごろし)をたく謀らみ、また一方二百十日の厄日には必ずや暴風雨襲来すべければその機に乗じて一旗挙げる陰謀を廻らし機の到来を待ち構えていた』」河北新報 大正12年9月6日 「私が田端で不逞鮮人の巨魁らしき壮漢が軍隊に取り押さえられて自白しているのを聞くと、彼らは二百十日を期して蜂起するのを計画を樹て8月28日に銀行や郵便局の預金を悉く引き出し準備した。若し二百十日が静穏であったならば、今週の御盛典を期して行うことに決していたが、恰も震災に乗じて活動したものであると自白したが直ぐに銃殺された」鉄道機関手 平田鉄談(北海タイムス 大正12年9月8日) 一つ目は月島あたりと思われ、この朝鮮人は自警団に処刑されています。吉村昭著「関東大震災」によるとこの話はデマだと述べています。理由は書いてありません。二つ目は田端であり、地理的には離れています。報じたのも別々の新聞です。証言にはテロを準備し二百十日に行動を起こす、何かのイベントでことを起こす、という一致が見られます。これはデマ?だとしたらうまくコントロールされたデマです。 朝鮮総督府警務局文書 労働運動家の反応 現代史資料6 「共産主義を鼓吹(こすい)する者及び之に依り組織せられたる各種の労働団体は、今次の震災は地震の損害より之に伴う火災の損害が最甚大なる模様なるが、火災は我等と志を同ふせる主義者同人が革命の為放火したるに因るものなり。彼らはこの壮挙を喜び、時機を見て吾人も活動すべく期待し居りたる/戒厳令布かれ遂に其の目的を達する能(あた)はざりしは遺憾なりと同志間にて語り合うものあり」・・・犯行を明言しているものがいる、ということです。 震災直後の9月3日に無政府主義者の朴烈(ぱくれつ)と愛人の金子文子が東京淀橋警察署に連行されています。朴烈は尋問にこう答えています。 「俺は日本の天皇、皇太子を爆弾投擲(とうてき)の最重要なる対象にしていたのだ。それで、爆弾が手に入ったらいつでも機会を見て使用するつもりだった。できるだけ日本の皇太子の結婚式に間に合うよう計画を進めてきた」 つまり9月2日(二百十日)、11月の御成婚式を狙って社会主義者、無政府主義者が革命テロを起こそうとして、そのとき関東大震災が発生し、好機とばかりに蜂起したのです。しかし、この事実は内務相の後藤新平らが、彼らを力で抑えるのは更なる事態悪化を招くと判断され、流言、デマにして必死に抑えられたのでした。 参考文献 「関東大震災 ~ 朝鮮人虐殺の真実」工藤美代子著 「関東大震災」吉村昭著 参考サイト 【実録】 続・関東大震災 不逞鮮人暴徒化  http://naver.uwakina-honeypie.com/index.php?%CE%F2%BB%CB%BB%F1%CE%C1%BD%B8%2F%C2%B3%A1%A6%B4%D8%C5%EC%C2%E7%BF%CC%BA%D2 添付画像 関東大震災で壊滅的な損傷を受けた旧両国国技館(PD)
http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/26467251.html 朝鮮人の暴動をデマにした政府 ~ 関東大震災 2010/9/4(土) 午前 8:27明治・大正時代歴史 不逞朝鮮人の暴動をデマとして政治決着させた政府。 「正力君、朝鮮人の暴動があったことは事実だし、自分は知らないわけではない。だがな、このまま自警団に任せて力ずくで押しつぶせば、彼らとてそのまま引き下がらないだろう。必ずその報復が来る。報復の矢先が万が一にも御上に向けられるようなことがあったら、腹を切ったくらいでは済まされない。だからここは、自警団には気の毒だが引いてもらう。ねぎらいはするつもりだがね」 これは大正12年(1923年)9月の関東大震災にあたり、後藤新平内務相が警視庁・正力松太郎官房主事に語った話をベースボールマガジン社の池田恒雄氏が裏話として語ったものです。政府は9月5日には不逞朝鮮人襲撃報道を打ち消すことにやっきになり、自警団は武装解除するよう指導していきます。 「鮮人暴動は流説 戒厳令司令部公表」報知新聞 大正12年9月5日 「三大緊急勅令 流言浮説取締令 公布」大阪朝日新聞大正12年9月7日 「斉藤朝鮮総督談 鮮人の爆弾、実は林檎 呆れた流言蜚語」東京日日新聞 大正12年9月8日 「多数鮮人中に多少不逞の徒があったのは事実で是又遺憾に堪へない併しながら朝鮮人が皆悪いのではない 鮮人も皆是れ陛下の赤子ではないか 今回の出来事からして或は治鮮方針に何等かの変化がありはせぬかと想像するものがあるやうだが統治方針は断じて変更せぬことを得に明言して置く」朝日新聞 大正12年9月15日 不逞朝鮮人が門柱、板塀などに奇妙な記号をつけてテロ攻撃のための目印にしているものがありました。12a,2p,1B,W3,け,◎・・・これを警視庁は中央清掃会社(糞尿処理会社)の人夫が得意先の心覚え及び便所所在地の方向、個数等の符号に用いた、と発表し、宣伝ビラを各警察署館内に貼り付けました。 こうした政府の対応に不満を示したのが、政治結社・黒龍会の内田良平でした。このような政治決着はかえって後世に禍根を残すと主張します。この不逞朝鮮人の奇妙な記号については早速調査し、いわゆる汲み取り屋の社長より「清掃人夫はそれぞれ得意先の所番地と便所の数を書いた伝票を所持しているので、むやみにこのような符号を書きなぐる必要はまったくない」と証言を得ます。内田良平は社会主義者と不逞朝鮮人が計画的に動いていたことを把握していました。 黒竜会の罹災者救済運動の顛末と政府の態度批判 大正12年09月11日 「赤化主義の鮮人が内地における社会主義者の一派とゴウ息気脈通じて日本において破壊活動を逞うせんとする計画は決して今日に始まったことではない」 「朝鮮人と社会主義者が互いに相策応して、破壊運動を逞し、或いは重油庫、火薬庫を襲い、或いは爆弾を投じて火災をおこし、或いは毒薬を井戸に投じて老若男女区別なく之を毒殺せんとし、自警団を襲撃した暴挙は掩う(おおう)可らざる事実であること」 「以上の事実と同時に鮮人の暴挙に対し激昂しつつある国民がその現場を目撃してこれを撲殺したということは事実であること」 事実を捻じ曲げてでも行った後藤新平の政策、報道コントロールは、三・一運動が法的に公正に処理されたのに加え、この関東大震災時の朝鮮人保護が、抗日派を親日派に転向させることにつながっているかもしれません。しかし、後藤は22年後に日韓が分かれるなどと想像すらしていなかったでしょう。戦後は内田良平が「後世に禍根を残す」と懸念したとおりになりました。 参考文献 「関東大震災 ~ 朝鮮人虐殺の真実」工藤美代子著 「関東大震災」吉村昭著 参考サイト 国立公文書館 黒竜会の罹災者救済運動の顛末と政府の態度批判 http://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/MetSearch.cgi 【実録】 関東大震災 不逞鮮人暴徒化 http://naver.uwakina-honeypie.com/index.php?%CE%F2%BB%CB%BB%F1%CE%C1%BD%B8%2F%B4%D8%C5%EC%C2%E7%BF%CC%BA%D2 【実録】 続・関東大震災 不逞鮮人暴徒化  http://naver.uwakina-honeypie.com/index.php?%CE%F2%BB%CB%BB%F1%CE%C1%BD%B8%2F%C2%B3%A1%A6%B4%D8%C5%EC%C2%E7%BF%CC%BA%D2 添付画像 関東大震災の犠牲者の遺骨の山(PD) http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/26488625.html
一般朝鮮人は保護された ~ 関東大震災 2010/9/6(月) 午前 8:26明治・大正時代歴史 朝鮮人が6000人虐殺されたというのは大嘘。 大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災で社会主義者と不逞朝鮮人らが暴動を起こし、放火を行い、井戸に毒を投げ込み、日本人を虐殺していきます。各所で設置された自警団や青年団はドサクサに紛れた盗賊や火付けを警戒しますが、不逞朝鮮人の暴動の報が入ると朝鮮人と見ると尋問したり拘束したりしました。 一方、政府は一般の朝鮮人が迫害されることを懸念し、朝鮮人保護につとめました。 9月5日閣議決定 一、戒厳区域をさらに千葉埼玉両県下に拡張する、こと 一、東京市内の鮮人一万五千名は習志野の兵廠に之を収容し百名に付き一名づつ警察官を附して護衛すること。 一、食糧の配付は陸軍から4日中重焼パン十万人分を既に百万人分の食糧を到着したのを始めとして近県各々から・・・ 一、富豪の邸宅を解放せしむること 一、陸軍工兵隊は宮城前、新宿御苑、深川方面の宮内省用地にバラックを急設すること。 ・・・ 千葉の習志野、警察署や神奈川県庁、目黒競馬場に保護します。その数6,797人。保護にあたっては横浜市の鶴見警察署長・大川常吉が保護下にある朝鮮人等300人の奪取を防ぐために、1000人の群衆に対峙して「朝鮮人を諸君には絶対に渡さん。この大川を殺してから連れて行け。そのかわり諸君らと命の続く限り戦う」と群衆を追い返したという話もあります。保護された朝鮮人には炊き出しをして握り飯を配給し、毛布を配り、傷を負っていた被災者には赤十字と軍医による手厚い看護が施されました。逆に日本人は野宿したり、仮小屋生活で食料の不足を助け合ったり、便所もない生活をしていました。吉村昭著「関東大震災」(菊池寛賞受賞作)を見ると、この朝鮮人保護のことは一切かかれていません。朝鮮人来襲デマ説は後藤新平内務相のコントロールによるものですが、朝鮮人を保護した事実が語られなくなったのは戦後の言論空間の作為的なものかもしれません。(大川常吉の話だけは語られている) 政府は朝鮮人を保護したものの、自警団、青年団による過剰防衛があり、殺害された朝鮮人は233人おり、日本人367人が起訴されています。朝鮮人と間違えられて殺害された日本人の数は57人。福田村事件のように、方言を話す地方出身の日本内地人が殺害されたケースもあります。支那人は4人殺害されています。 この頃、在京浜の朝鮮人は9,000人いたと推計されます。閣議決定の1万5千人というのは習志野に収容可能な人数を述べています。保護された朝鮮人は6,797人。自警団などによる過剰防衛による死者は233人。震災でなくなったと思われる数は推計2700人。800人は不逞朝鮮人テロリストになります。朝鮮人6,000人が虐殺されたというのは巨大なウソで、6,000人以上が保護されているのですから、そんな虐殺があれば、震災で死亡した朝鮮人は0人未満ということになってしまいます。吉野作造説でも虐殺数2,613人で震災で死亡した朝鮮人は0人になります。こういうプロパガンダに騙されてはいけません。 また、ネットを見てますとこんなのが載っていました。 「所謂自警団、青年団等は「朝鮮人」と叫ぶ高声に一呼百応して狼の群の如くに東西南北より集まり来たり、一人の吾が同胞に対し数十人の倭奴<日本人>が取り捲きつつ剣にて刺し銃にて射、棒にて打ち、足にて蹴り転がし、死せしものの首を縛り曳きずりつつ猶も刺し蹴りつつし屍体にまでも陵辱をくわえたり、婦人等を見れば両便(ママ)より左右の足を引き張り生殖器を剣にて刺し一身を四分五裂にしつつ、女子は如斯にして殺すこと妙味ありと笑ひつゝ談話せり……身体を電信柱に縛り付け先ず眼球を抉り鼻を切り落とし、其の哀痛の光景を充分眺めた上、腹を刺して殺したるものあり……。」 (姜徳相・他編『現代史資料・6』みすず書房、一九六三年) わかる人が見れば直ぐわかる大嘘です。殺害手口が大陸・半島の手口です。日本人のものではありません。朝鮮人の独立運動家がバラまいたプロパガンダ冊子にこれとそっくりの記載あります。この冊子では2万3千の朝鮮人が殺されたとしています。こういうものにも騙されてはいけないでしょう。 参考文献 「関東大震災 ~ 朝鮮人虐殺の真実」工藤美代子著 「関東大震災」吉村昭著 参考サイト 国立公文書館「震災ニ付テノ処置ヲ為スコトノ件」 http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto?REFCODE=A03023581000&IS_STYLE=default&image_num=7 【実録】 関東大震災 不逞鮮人暴徒化 http://naver.uwakina-honeypie.com/index.php?%CE%F2%BB%CB%BB%F1%CE%C1%BD%B8%2F%B4%D8%C5%EC%C2%E7%BF%CC%BA%D2 【実録】 続・関東大震災 不逞鮮人暴徒化  http://naver.uwakina-honeypie.com/index.php?%CE%F2%BB%CB%BB%F1%CE%C1%BD%B8%2F%C2%B3%A1%A6%B4%D8%C5%EC%C2%E7%BF%CC%BA%D2 WikiPedia「関東大震災」 添付画像 米国の日本震災救済運動(PD) 【昭和天皇】 関東大震災の惨状を視察 1923年 (大正12年) 9月

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